朱鷺

“彼女”の眼から見た、「六文銭という男」。


一 ────


 くノ一とは女のことである。
 女という字をバラバラにすると、くノ一という字になる。これは忍者の用いる符牒であり、つまりくノ一とは女を間諜とする術を、さらには女の忍者を指す。
 朱鷺がそれを説明すると、六文銭はぽかんとして彼女の顔をながめた。
「……お朱鷺さまが、豊臣方の忍びの女、そのくノ一ってんですかい。……へえ?」
「そう」
 うなずいた朱鷺を茫とした眼で見つめ、まだ阿呆みたいに口をあけている。だが、事実をうち明けられて驚愕しているというより、事実そのものをよく理解していない顔つきだ。この男、むずかしいことを考えるのは苦手なたちなのである。はっきりいうと、単純きわまる頭の持ち主。
 ──なぜ、いまになって六文銭に自分の素性を告白する気になったのか、朱鷺はおのれの心がわからなかった。自分と交わした約束を馬鹿正直に守って、恐るべき伊賀者を三人も斃した六文銭に感動したからかもしれない。事の重大さを認識させて、彼のむちゃくちゃな暴走に轡をはめる必要性もあったかもしれない。──が、こうして高い樟の木の枝にならんで坐っているうち、そんな理屈を抜きに、この使い捨ての用心棒として雇った男に何もかもを吐露してしまいたい心情にかられたのだった。


 紀州九度山の真田から派遣されたくノ一たる朱鷺は、同僚であり恋人でもある忍者とともに大久保石見守長安を探索していた。しかし、駿府の大久保屋敷に潜入して長安の身辺を探っていた恋人は、正体が露顕して誅戮された。彼の遺志を継いだ朱鷺は、九度山へ帰還せず、駿府から佐渡へ出張に旅立った長安を追った。
 そして、その道中で六文銭と出逢った。
 おかしな男である。六文銭の鉄というあだ名だけを名乗り、素性は江戸の無頼漢だという。
 快活で短気で天衣無縫。朱鷺に惚れて、「殺せと命じた相手を殺したら、わたしを抱かせてあげる」という彼女の言葉を真に受けて、はるばる佐渡までくっついて来た。尋常ならざる好色で「二日女を抱かずにいると鼻血が出る」と大言してはばからない。そのくせ、ときに眼を凶暴にひからせる野卑ながら朱鷺の命令には犬のごとく従順、旺盛な性欲を持てあまして女郎とふざけちらしておきながら朱鷺のからだにはいまだ一指も触れずにいる。……
 何を考えているのか判断がつきかねるが、ともかくも腕だけはやたらと立つ。石見守子飼いの伊賀忍者達を討つほどに。回転がややスローな頭も、道具として使う分にはかえって好都合、と朱鷺は自身の肉体を報酬として彼を用心棒に雇ったのである。
 はじめは、無智な風来坊のひとりなど、どうとでも御せるとたかをくくっていた。ところが──手綱を握っているはずの彼女の意思を超えて、六文銭は自由に動き出した。好き放題にあばれ出した。六文銭の無軌道、無鉄砲ぶりは度が外れていて、手綱を握るどころか、この奔放な悍馬に振りまわされてこのごろは恐怖すら感じている朱鷺である。


 容易ならぬ朱鷺の告白をきいて六文銭はちょっと眼をまるくしたが、別段なんの感慨も持たなかったようだ。すぐに、いつもの通りの気楽な笑い顔を向けて、
「で、おりゃいったい、これからどうすりゃいいんで?」
 と、いった。
「大坂にゃこれっぽっちの義理も縁もねえが、おら、おまえさんの用心棒だからね。お朱鷺さまの命令なら、お朱鷺さまのためなら、どんなことでもやりまさあ。──それでおまえさまのおゆるしが出りゃ、晴れて御褒美にありつけるってもんだ」
 苦味ばしった精悍な容貌が、笑うと無邪気な子供のようになる。その笑顔を見、「御褒美」の単語をきくと、急速に頬が熱をおびるのを感覚して、
「わたしは豊臣家の女忍者です。だから、長安の秘密をさぐりたい。──」
 やっとそう答えた朱鷺だが、我ながらおどろくほどかすれて小さな声であった。
 六文銭はもっともらしく裸の腕をくんだ。 
「秘密? ……それア、やっぱり、あの赤い変な塔かね。旅籠のおやじにきいたら、ありゃ血塔というそうだが──血の塔なんざ縁起でもねえ、きみの悪い名をつけやがる──あれがあやしいぜ。あの中に忍びこんで探ってみるのがてっとり早い気がするなあ。……」
 朱鷺との約束だけは大まじめにとらえているらしく、ぶつぶつとつぶやきながら、長安の秘密を探る手だてを熱心に考えこんでいる。下界の町の向うの海に沈みかかった夕陽が横顔を染めた。
 その横顔を見つめる朱鷺の美しい瞳に、ふと酔ったような霞がかかった。六文銭と、まるで二羽の鳥みたいに樟の枝にとまっているひとときは、朱鷺の心をふしぎな安らぎと陶酔で満たした。──このまま、こうしていられたら──忍びの使命も、恋人の敵討ちも、すべてを忘れて、このまま、ずっと。──
 六文銭のたくましい胸に身をもたせかけ──ようとして、あやうくわれに返った朱鷺は、落日の光を浴びて赤い頬をさらに紅潮させた。同時に、おのれの妄想の奇怪さに身ぶるいした。六文銭と離れて、急にひとり取り残された心細さがあったにしても……真田左衛門佐秘蔵の忍者ともあろうわたしが、何というばかげた気の迷いを起したものだろう!
 先刻、長安の愛妾を犯した六文銭の、面をそむけるほどむざんな所業を思い出した。この男は、じぶんに見られているのを承知で、かえって見せつけるように狂態をさらしてみせたのだ。六文銭の傍若無人なふるまいが網膜に焼きつき、長安の妾の獣じみた悦楽のあえぎが鼓膜にこびりついて、全身の血が逆流するような思いに朱鷺は歯をくいしばった。
 あのとき、朱鷺は石垣の上からふたりの行為を見て、怒りを感じた。むしろおとなしい彼女が、ほんとうに激昂した。──が、その怒りの鉾先はなぜか、長安の妾ではなく六文銭に向かった。彼女はそれを、なぜ、とは考えない。たとえ憎い敵の側妾であれ、同じ女として腹を立てるのが当然だと思っている。伊賀者を相手にする以上に大奮闘の態の六文銭の脳天に力いっぱい瓦を投げつけたのも、犯された妾への同情と義憤ゆえと疑っていない。
 ……だが。もしも誰かが、その感情には六文銭に抱かれた女に対する嫉妬が混じっていると指摘したら果たして、朱鷺は何とこたえただろうか?
 この場にいたたまれないような気持ちになって、思わず幹に片手をついて立ちあがった。そんな心理に気づくはずもない六文銭は、立ちあがって顔をかくすように菅笠を伏せた朱鷺を、帰りをうながすものと見てとったらしい、
「連中、すっかり引きあげたようだ。そろそろ下りても平気かね」
 といって、無造作にからだを傾けると七、八メートルはあろうかという高さから枝も揺らさず飛びおりた。驚くべき身軽さである。とんと地面に降り立って、樹上の朱鷺をふり仰いで白い歯を見せた。
「さ、相川へ帰りやしょう」
 その屈託のなさに、朱鷺はまぶしそうにまばたきした。──この男は、どうしてわが身を死闘の中へ投げこんでまで、わたしについて来てくれるのだろう。何もいわず、何もきかず、それなのに命懸けでわたしを助けてくれるおまえは、誰?
「六文銭──おまえ、いまならまだ間に合うかもしれない。この敵討ちから手をひいて、わたしと別れて、江戸へ帰ってもとの暮しに戻れるかもしれない。おまえがそうしたければ──わたしはとめませんよ」
 しみいるような朱鷺の声に、野放図な明るい六文銭の声が間髪いれずこたえた。
「お朱鷺さま、冗談はよしておくんなさいよ。この六文銭の鉄、いったん女に頼られたことア、意地でもやり遂げなきゃ男がすたるってもんだ。おまえさまがたとえ嫌といったって、最後の最後までついて行きやすぜ! ──それに、まだ例のお約束も叶えてもらってませんしね。せっかくこんだけ辛抱したってえのに、いまさらおじゃんにしてたまるけえ。おれ、おまえさまをよろこばせて、うんといわせて、あっちの方の礼をたんまりいただけるまでア何だってしますぜ」
 六文銭は破顔した。朱鷺の瞳が涙でうるんだ。あたたかく胸を浸していくのは、ありがたさか申しわけなさか、その両方か。
「でも、わたしはおまえに何も……」
 朱鷺の言葉をさえぎって、六文銭がふたたび口をひらいた。妙な眼つきでにやりとして、
「──それまでの褒美は、そのきれいな脚を拝ませてもらって充分でさ。やあ、眼福、眼福」
 朱鷺ははっとした。ニタニタと弛緩しきった六文銭の顔を見て、かあっと頭に血がのぼった。
 あれは、わたしの真下から見あげている──!
「ばか!」
 裾をおさえ、凛然たる叱咤をたたきつけて、ひらりと風鳥のように華麗に飛びおりた。六文銭には眼もくれずスタスタと足早にあるいてゆく。
「あっ、お朱鷺さま、待っておくんなせえ。……おおーい」
 間のびのしたとぼけた声をあげて朱鷺に追いすがった六文銭は、悪びれたようすもなく彼女の横顔をのぞきこんだ。
「ああ、べっぴんは怒った顔もそそるねえ。うふ」
「くだらない無駄口はおやめ、六文銭」
「へっ」
 叱られても、嬉しそうにひたいをたたいて笑う。つられて朱鷺も吹き出した。
 潮の匂いをはらんだ風が真野湾から吹きよせる。夕焼けの空は炎をながしたように赤い。獅子城跡から河原田の町へ向かう坂をおりてゆくふたりの影は、長く伸びてユラユラと、まるで睦まじくもつれ合っているように見えた。……


二 ────


 ……国府ケ浦の海沿いを、朱鷺を乗せた馬が駈けてゆく。しかし、駈ける足は遅い。馬上の朱鷺は、蒼白の顔いろで唇を真一文字にむすんで、何やら考えこんでいる表情である。
 抱えた蒔絵の文筐が、やけに重く感じられた。路傍の草むらへ投げ捨てたい衝動をこらえる。文筐には、朱鷺が執念をかけて探索を続けてきた、大久保石見守長安の大秘事の動かぬ証拠が入っている。真田のくノ一として、一刻も早く九度山へとどけるべき重要物だ。
 ──だが、馬の走る速度は遅いままだった。朱鷺は急いではいない。九度山を目指してもいない。いや、文筐の存在すらも念頭にない。彼女はただ、ある人物から逃げるために馬を駆っているのであり、そして、その人物につかまるために筐を抱いているのであった。
 これを持っていれば──かならずあのひとは追って来る。


「おおーい、おおーい」
 背後から六文銭の呼び声がきこえた。いつかと同じ、間のびしてとぼけた声だ。
 白蝋のような頬にさっと紅をちらして、この場合に朱鷺は童女のようにあどけなく微笑んだ。馬から下りて、ふり返る。五メートルばかり離れたところで同じく馬を止めて下りた六文銭を、ひたと見すえた。
 片手に白刃をひっさげ、ゆらりと立ってこちらを見返している、満身朱に染めた惨澹たるその姿。乱髪は血にねばりつき、ズタズタに裂けた着物はかろうじて身にまつわりつかせているが、ほとんど裸にちかい。かつて口づけたこともある唇はひどく蒼ざめて、顔といわずからだといわず傷だらけである。抱きしめられたこともある腕は骨が砕かれているのか、だらりと力なく垂れている。朱鷺の瞳に涙があふれた。昏く胸をとざしていくのは、憎らしさかいとしさか、その両方か。
 幽鬼のような凄まじい姿で、彼はいつもの人懐っこい笑みを浮かべると、近づいて来た。
「おとまり!」
 と、朱鷺はさけんだ。六文銭は立ちどまった。が、顔は依然として笑っている。はじめて逢ったときと寸分変らぬ、あけっぱなしの笑顔。
 朱鷺の脳裡を、獅子城跡の樟の枝に彼と坐って眺めた夏の夕陽がよぎった。つがいの鳥のようにならんで語り合った──あれはいつのことだったろう。あれからまだ廿日も経っていないのに、あの日の風景はおぼろに霞んで、遠い遠い過去の幻影に思えた。
 ──ききたくない! 知りたくない! 絶叫してもだえる魂を必死におさえつけて、朱鷺はきつく眼をとじた。──けれど、わたしは問わねばならぬ!
 甲州韮崎……相川の旅籠町……金山の道遊割戸……。六文銭とすごした日々が瞼のうらに浮かんでは、消えた。
 いつも傍にいてくれた男。いつまでも傍にいたいと思った男。──おまえは、誰?
 ゆっくりと眼をあけた朱鷺は、眼前に立つひとりの男をまっすぐに見つめた。そして、いった。
「お名乗り、六文銭、ほんとうの素性を。──」
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