笛吹城太郎

ラブいシチュエーションなのに何やら薄暗い笛吹城太郎と右京太夫。


 ──いたるところに焼けこげた木材や金物がころがっている。
 東大寺すべてを呑み込んだ大火災の爪痕はもの凄まじく、灰と煤に覆われた広野はまだあちこち黒煙をほそく吐き出してくすぶり、さながら冥府の観をなしている。ほんの二日前まで百五十尺の天空にそびえていた大仏殿も、いまや見わたす限り焦土と化していた。
 その灰燼のあとに、これだけはかつてと同じ場所にかつてと同じ格好で、大仏が鎮座していた。──ただし、劫火のなかに頭部が落ち、灼熱で肌が焼けただれた、恐ろしい怪物じみた大仏が。


 笛吹城太郎と右京太夫は、その大仏の腹のなかに身をかくしていた。
 首のない大仏さまだが、座高はそれでも五丈三尺五寸。ちょっとしたドーム型ホールのようなもので、胎内には大小無数の角材が縦横に組まれ、万一のときは上部からの視界をさえぎる点もかくれ処としてうってつけだ。
 ……とはいえ、城太郎はいったんはここに潜んだもののとどまるつもりはなく、追手の根来僧四人と松永の兵たちの隙をついてすぐにでも安全な場所へ逃げる気でいたが、右京太夫がからだに変調をきたしたために動けなくなった。彼女が快復するまでは潜伏せざるを得なくなったのである。


 大仏さまの胎内、雨水がたまった底ちかくの巨大な横木につくられた寝床に、右京太夫は横になっていた。寝具は、さっき城太郎が敵の捜索をくぐり抜けて外へ出て、食物と一緒に手に入れて来たものだ。疲労がもとで右京太夫は病んでいた。
「お加減はいかがですか、奥方さま。お望みのものあらば、なんでもお申しつけくだされまし」
 右京太夫の傍に端然と坐して、城太郎はいたわりの言葉をかけた。
「かようなところに右京太夫さまをおとどめいたしておるご無礼、おゆるしくだされませ。ですが、右京太夫さまが御本復あいなられるまで、拙者どんなことをしてもお護りいたしますれば。そして誓って、無事に京へお送り申しあげまする。どうぞ、御心やすらかにお休みなされませ」
 まだ少年っぽさの残る面だちに心配げな色をあらわにして、城太郎は右京太夫を見まもった。ふだんは精悍なかがやきを燦々とはなつ双眸には、翳がかかっている。
「大丈夫です。ありがとう」
 顔を城太郎に向けて横たわった右京太夫は、ゆるゆると首をふって微笑した。少々やつれてはいるが、それさえもなお、春霞の精のようにあえかに美しい。周囲は闇にちかいが、首の穴から差しこむ月あかりと底から照らす水あかりに朦朧と灯のけぶるようで、そのなかに、ひと際仄白く浮き出しているような右京太夫であった。
 逃避行の末たどりついた、幻想的な、ほとんどこの世のものならぬ静寂につつまれているうち、次第に城太郎は甘美な香気に酔うような思いがしてきた。
 ……今この地上には、右京太夫さまとおれしかいないのではなかろうか。それならば、永遠にここで……ふたりきりですごしてゆくのも構わないのではあるまいか?
 そんな恍惚感に意識が沈みかかって──ぎょっとしておのれをとりもどした。一歩外へ出れば無数の捜索隊の眼がひかっている状況で、ばかげたことを! 何より、右京太夫さまは、そのような不埒な妄想をかけるのも恐れ多い高貴のお方ではないか!
 夢まぼろしにのぼせあがっている場合ではない、と心中に喝をいれる。頭を冷やすと──もはやふたたび逢うこともあるまいと思っていた右京太夫さまと、こうして向かい合っていることの疑問が、脳裡によみがえった。
「右京太夫さま。あなたさまは京へお帰りあそばしたのではなかったのですか。なにゆえ……信貴山城になどおいでなされたのですか」
 答えは一度、彼女の口からきいている。しかし、城太郎はあらためて訊ねずにはいられなかった。
「あなたを救いに」
 信貴山城の石牢から城太郎を救出したあと、天守閣で彼にいった理由を右京太夫はくりかえした。ういういしく清浄な天女のごとき瞳が、無心に城太郎を見つめていた。
「あなたは、この東大寺の炎の中からわたしを救ってくれました。そのあなたが放火の下手人として松永の手の者に捕らえられ信貴山城へ曳かれていったときいても、わたしは信ぜられなんだ。誤解にちがいないと、放ってはおけぬと、そういう気持になったのです」
 そこまでいって、右京太夫の表情がふっ、と曇った。優雅な眉をわずかにひそめて視線を伏せ、そして、おのが心の深奥をのぞきこむようなまなざしで、ぽつりとつぶやいた。
「……けれど、ほんとうは、なぜなのかわたしにもわからない。……」
 ぞくっと異様なおののきが城太郎の背を這いのぼった。
 自らがわからないという右京太夫の言葉は、城太郎にもわからない。それが何を意味するのか、彼には想像もつかない。想像もつかないが、なぜかその語韻に戦慄をおぼえて、しかもさきほど感じた酔いよりももっと強烈な、妖しい魔酔にしびれるような気がした。……
「……危いことを! さいわい、あなたさまの素性に気づいた者がなかったから助かったようなものの──まかり間違えば、お命にかかわったかも知れぬのですぞ」
 数瞬の忘我におちたのち、城太郎は右京太夫を叱りつけた。だが、つい声を荒げたのは右京太夫の無鉄砲さに対するよりもむしろ、おのれの内部の不可解さに対してのものであった。
 右京太夫はちょっと頬をあからめた。城太郎の顔色をうかがいつつ、消えいるような声でいう。
「あなたが去ったあと……わたしを義興さまのもとへつれていってくれた覆面の武士がありました。あなたが、妻を奪われ、殺されて、その妻がわたしとそっくりであったから救ったのでしょう、とその者からきいて。……」
「…………」
 息をひいて、城太郎は右京太夫の顔をまじまじとながめた。──何と? 右京太夫さまをお助けした者が、おれの話をした? いや、おれのみならず──篝火も含めたこれまでのいきさつについても語ったと?
 右京太夫に化けた漁火という女にあざむかれ捕らわれた際の漁火のせりふから、その武士の存在は知っている。しかし、おそらくは主君の奥方を探していた三好勢の一人だろう、と考えていたのだ。右京太夫の言葉をきいて城太郎は驚愕した。左様にこちらの事情を熟知しておる──味方と断ぜられずとも、敵ではないようだが──そやつ、一体何者か?


 城太郎は黙然と考えこんだ。その沈黙をどうとったか、右京太夫は例の無心の眼を彼にそそいで、
「──その妻が、篝火というひとですね」
 と、きいた。
「は、はい。……」
「わたしはそんなに篝火と似ているのですか?」
 問われて、思わず「はい」とこっくりしてすぐに、「いえ」と否定した。ややあわてた顔で手をふって、
「似ているといっても、一見した印象だけのことです。むろん右京太夫さまと比ぶべくもございませぬ。はずかしながら……篝火はかつて堺で傾城をしていた女でして。容貌のほか生まれも育ちも、あなたさまとは天と地ほど差のある下賤の者にございます。さればこそ、拙者の女房だったので。……もっとも、ははは、その篝火も拙者には過ぎた女房でありましたが。優しく、よく気のつく……情のふかい女で……。遊女あがりと見えぬような品もあり……。それに、存外強情なところがあって、頭もよかったから……あいつに言い負かされたことは幾たびかしれぬ……。そうだ、口喧嘩でおれが篝火に勝てたためしはなかったなあ……」
「城太郎」
 と右京太夫は呼びかけた。彼女は半身を起こして、いたましげな表情で城太郎を見ていた。
「もうよい。亡きひとのことをきいたわたしが軽率でした。どうかゆるしておくれ。もう、むりに話さずともよいから──だから、泣かないで」
 宙の一点に眼をすえて、うわごとのようにしゃべりつづけていた城太郎は、はっとわれにかえって、片手の甲で頬をぬぐった。いつからか、その頬はたしかに濡れていた。
「やっ、こ、これはとんだお見苦しいところを……申しわけありませぬ。そのうえ、要らざる長話、お、恐れ入ってござりまする」
 あわてふためきつつも、なんとかとり繕おうと、強いて笑ってみせようとする城太郎を右京太夫はじっと見つめている。その静謐に澄んだ黒い瞳に、城太郎はふと、心を吸いこまれそうな昏迷をおぼえた。
「可哀そうに──。さぞ、つらかったでしょう」
 じぶんを見あげる、篝火とおなじ顔。語りかける、篝火とおなじ声。
 城太郎は、彼女が第二の将軍とも評される三好家の若殿の御台であることを忘れた。彼女の名が右京太夫であることも忘れた。
 彼は目の前に死んだ恋妻を見ていた。乳守の里から手に手をとって駆け落ちした日の──吉野の山中で凄壮な忍法修行にはげんだ日の──そして、故郷を目指して春光そそぐ伊賀路を旅した日の篝火のすがたを見ていた。
 明滅するいくつもの眼花となって渦まく篝火、篝火、篝火。……
(生きて、伊賀へかえらねばなりませぬ)
 篝火のあでやかな笑顔の残像が、眼前の女人にピタリと重なって──その刹那、城太郎のなかでなにかがどっと音たてて崩れた。それはいままで胸の奥底に沈め、おしこめてきた、哀しみと怒りと恐れがまじりあった、名状しがたい激情の奔流であった。
「……篝火!」
 さけんで、城太郎は右京太夫を抱きしめた。抱きしめるというより、すがりつくといった方がちかい動きであった。
「篝火! 篝火! なぜ死んだ。どうしてそなたが死なねばならなかったのだ。……あれが何をした? あのように無惨に殺されるほどの罪など、篝火のどこにあった?」
 嗚咽にのどをつまらせ、全身瘧のようにふるわせながら、右京太夫にしがみつく。まわした両腕にいっそう力を込めて、
「篝火、おまえの敵は、おれが討つ! おまえを汚し殺した根来坊主どもは、一人のこらず地獄へ追いおとしてくれる。──いや、きゃつらだけでは足りぬ。松永弾正の首もそろえて、おまえのもとに並べてやるぞ! しかと見ておれよ!」
 号泣し、腸のちぎれるような絶叫を上げつづける。
 淡雪のような右京太夫のからだを抱いて、城太郎はしかし、そのやわらかさも温もりも意識していない。燃えたつ脳中の火は、あの夢魔のごとき般若野の夜を映し、腕のなかには、ふりしぶく雨にうたれて冷たく、かたくなってゆく妻の屍だけがあった。
(──城太郎どの、篝火の敵を討って下さいまし)
 さびしくふるえる、風のような声。その風は城太郎の耳朶にこだまして、しずのおだまきのごとくくりかえす。……敵を討って。敵を討って。敵を。……
「討つ、必ず討つ! ──だが篝火、そのあとおれは、どうしたらいい? そなたのいない世界で、おれはなんの為に生きればよいのだ。おしえてくれ、篝火!──」


 折れよとばかりに抱きしめられながら、右京太夫は抵抗しなかった。黙って、なすがままにされていた。……が、やがてそっと両手をのばすと、童子みたいに泣きじゃくる城太郎の波うつ背なかをやさしく撫ではじめた。──まるで、赤子をあやす母親のように。
 そうしながら、右京太夫もまた涙を流していた。
 右京太夫は、これほど哀切な、痛苦に満ちた魂の慟哭を、生まれてはじめてきいた。深窓の姫君である彼女には大切なものを理不尽に奪われた経験はない。人が死ぬ、殺される場に立ちあったこともない。いわんや彼女は、夫三好義興と鴛鴦の幸福のなかで暮しており、突然伴侶を喪う悲しみなどこれまで想像もし得なかったのだ。血を吐くような城太郎のさけびに「かかる気の毒なひとが世にあったのか」と思い、彼女はただ、心からの同情にうたれて泣いているのであった。
 けれど──。その涙のうちには、彼女自身も気づかぬもうひとつの感情がある。じぶんに亡き妻の幻影をみている城太郎が、なかば狂ったように篝火の名を呼ぶたび胸にはしる──かすかな痛み。
 ゆらめいては失せ、失せてはまたゆらめくかげろうに似た、ふしぎなその痛みをまだはっきりとは感覚せぬまま、右京太夫は慈母のごとくおだやかに城太郎の背を撫でつづけた。いつまでも。いつまでも。


 ──城太郎どの。伊賀へ帰って、もしほかの女子と祝言せよといわれたら、どうなさる。ね、答えて。
 ──返答は一つしかない。おれにとって、女は未来永劫、世界じゅうにそなたひとりしかない。
 ──お誓いなさるかえ? 一生、笛吹城太郎は、篝火のほかに女を断つとお誓いなさるかえ?
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