或る男

“彼”の眼から見た、「朱鷺という女」。


一 ────


 大久保石見守長安の屋敷に潜入していた忍者が一人、正体を見破られて斬られた。屋敷の門前に晒されたその屍の首を、見張りの伊賀者を斃して奪い、逃げ去ったくノ一がいたという。


 その情報は十日ばかり前の探索でつきとめていた。殺された忍者と逃げたくノ一は、上方の、おそらくは真田左衛門佐の手の者であったことも探りあてた。
 だから、佐渡への旅の途中で甲府城に立ち寄った石見守の行列を、城の大手門近くで迎えたときに、どこからともなく忽然と現れた女六部を見て、男はぴんときた。男は江戸の無頼漢で、佐渡金山の水替人足に狩り集められた江戸の無宿人たちの宰領としてそこにいたのであった。
 女六部は、数珠つなぎになって甲州街道にひしめいている無宿人たちのあいだを縫うようにあゆんでゆく。女と見ればすかさず卑猥な喚声をはりあげて騒ぐ連中が、シーンと黙りこくってただ見送るばかりでいるのは、その女の常人ばなれして清麗な美貌のせいであったろう。
 白いひかりに満ちた街道を小走りに行く足どりの自然さ。──しかし、その動作にはいっさいの無駄がない。荒木綿のきものに手甲脚絆を身につけた姿の、楚々とした清らかさ。──だが、研ぎすまされた刃に似て鋭い。
 ──忍者。
 ふつうならば気がつかないであろう女六部のまとう雰囲気の異質さを、同種の人間のもつ鋭敏な勘で、男だけが見抜いた。そして、例の真田のくノ一だと直感した。
 石見守の行列はすぐそこまで近づいて来ている。女は道端に寄った。六部笠をあげて、なんの気なしにそちらへ顔を向け、だが透明な殺気の炎が背中をふちどったように見えた。
 あやつ……やる気だな。
 彼女は全神経を長安の乗物にそそいでいるようだ。その意図を感じとって、男は心中にはげしく狼狽した。まだだ。まだ──大久保長安という存在をこの世から消すには早い。消させるわけにはゆかぬ。
 あの女を止めなければ……どうにかしてこの場から、長安からひき離さなくては……!
 焦りは冷たい汗となって背すじをつたいおちる。とっさに、いつだか買った深川の安女郎の名をあたまに思い浮かべて、女六部へ呼びかけた。注意をひくよう、ありったけの大声で。
「お頼……お頼!」
 ふり向いた女と眼が合った。
 ──黒い美しい眼であった。吸い込むような深淵をたたえた、二つの瞳のかがやき。そのかがやきが不可抗の力で魂の深部に刻印された気がして、男の全身に電流のようにふるえが走った。
 それが、朱鷺との出逢いだった。


二 ────


「一枚の木の葉は森の中にかくせ、ってね。廓に女の一人や二人増えたって人目につきゃしやせんでしょう。女のお朱鷺さまをおかくまいするにゃ、女郎屋がどこよりいっとう安全です」
 と、男は得意気にいった。納得したようなしないような微妙な表情で、それでも朱鷺は一応こっくりとした。
 相川の小六町でいちばんの規模をほこる妓楼西田屋の、庭の奥にたてられた土蔵の中である。朱鷺を連れて男がこの西田屋に駈けこんで来てから、四半刻ほど。二人の捜索隊を召集する鐘のは、赤玉城の血塔からいまだ途切れることなく響き続けている。
 あるきっかけから追っ手にせまられ、それまで潜んでいた旅籠町を出て、しかし次の潜伏先を探しあぐねていた二人は、庄司甚内を頼ってこの見世をおとずれた。
 西田屋の経営者である庄司甚内は、朱鷺のかくれ処に土蔵を提供した。──もっとも、佐渡中の役人に追われる身といっても過言ではない彼らを両手をひろげて歓迎してくれたはずもなく、かなり不穏なおどし文句をもって首をたてにふらせたのである。
 その甚内は朱鷺と男のそばに坐っていた。つい先刻、蒼白になるほど乱暴におどしつけたことはもうまったく意に介していない風で、にこにこしている。赤い頭巾をかぶって恰幅のいい、好々爺然とした中年である。だが、人懐こそうに細めた眼の奥にはさすが、遊女町をとり仕切る大権力者たる隙のなさと物凄さがあった。男はかつて江戸でこの甚内と面識があり、そのつてで西田屋に世話になることにした、と朱鷺には説明した。
「ここにかくれていなさりゃあ、ひとまず大丈夫でござんしょう。といって、こんな陰気くせえ蔵にお閉じ込めして申しわけねえですが……。お身の廻りのことア甚内の旦那によっく頼んでおきやしたんで、お朱鷺さま、どうぞしばらくの御辛抱を願いやす」
 おのれの持ち蔵でもないくせに偉そうにいう彼にうなずいてから、朱鷺はふと、思案顔になって細い指をおとがいにあてた。
「それは構わないけれど。……おまえはどこで暮すのですか。わたしと一緒に、この蔵で?」
「まさか! おれは、どっか適当に──」
 笑いかけた男の視線が、奥にたてた屏風にフイととまって、「あ」とヘンな声をあげた。そちらを見やった甚内も、「お」と小さくうめいた。
 屏風の蔭から、半裸の美女が二人、フラフラと這い出てきたのだ。さっき、甚内から「厚意」として「頂戴」した、西田屋の遊女であった。やっと気絶から覚めたらしい。
 酔っぱらったみたいに焦点の定まらぬ眼が男の姿をとらえると、二人はたちまち花が燃えあがるように顔をかがやかせた。
 嬉々とした、どこか正気を失ったようなその笑顔を見て、男は妙な満足感を抱いた。一流のプロというべき西田屋の遊女をこれほど前後不覚の酩酊状態におとした技倆に、われながら感心した。たとえるなら、会心の作品を完成させた芸術家の心境である。
 ばかな感慨にひたっている男に二人の遊女はまろび寄った。唖然とした朱鷺の目の前で、乱れたきものからむき出しになった乳房と太腿を彼にすりつける。冗談半分の朱鷺へのあてつけと、欲求不満を解消する遊びのつもりでこの二人にいたずらを仕かけたのだが、もとよりきらいではない道のこと、必要以上に遊びに熱を入れすぎた。と、反省してももう遅い。
「……もっと! ねえ、もっと!」
「あらら、こりゃ困ったね。こりゃあ困る、困る」
 口ではそんなことをいいながら拒もうともせず、だらしなく相好を崩して、困っているようにはちっとも見えない。あっけにとられてこれをながめていた庄司甚内が、見かねて一喝した。
「小太夫! 小柿! やめぬか、これ」
 しかし女たちは夢中のていで、甚内の声も耳にはいらないようすである。甚内は苦い顔をした。廓の主人には絶対服従のはずの遊女がこんな態度をとることなど、めったにないのだろう。
「もっと! もっと!」
 あえいでしなだれかかってくる二人にヘラヘラと顔を緩ませながら、朱鷺の方を盗み見た。朱鷺はつんとそっぽを向いていた。──が、平然とした表情を装ってはいても、きつく握ってひざの上においた両こぶしがふるえている。
 男は吹き出しそうになるのをこらえた。ふだんは、冷たくとり澄まして彼を下僕のごとくあしらっている彼女が、こんな場合にはまるで子供みたいにすねて嫉妬するのがおもしろくて、また可愛らしくてたまらないのだ。
 火のような息を吐いて、露骨に淫らな要求を口走りながら首ったまにしがみついた小太夫か小柿のどっちかをやんわりとひきはがしつつ、猫なで声でいった。
「まいったな。おれもおめえたちの相手をしてやりてえのはやまやまなんだが……べつの女に鼻の下をのばしてっと、そこのべっぴんさんがヤキモチをやきなさるのさ。おりゃ、このひとにきらわれたかあないんでね、さあ、そろそろ離れてくんろ」
「なっ……」
 朱鷺が絶句した。頬を紅潮させ、キリキリと眉を吊りあげて男をにらみつける。射るような凝視を柳に風とうけ流して、男は甚内に向きなおった。
「そんじゃ旦那、あとはよろしく頼まあ。しっかりお護りしてやってくれよ。お朱鷺さまに万一のことがあってみろ、西田屋も小六町もぜんぶ焼き払っちまうからな」
 懇願だか脅迫だかわからぬ言いぐさだが、甚内は恬然たる心得顔でうなずいた。
「万事、承わりました。甚内の力の及ぶかぎり、たしかにおかくまいいたしましょう」
 このやり取りのあいだも、なおもとりすがってくる遊女たちが少々うっとうしい。四肢の関節をはずして動けなくすることは造作もないが、相手は女、まして庄司甚内が見ている前で、西田屋のだいじな商売道具に手荒なまねをするわけにもゆかない。まつわり、からみつく白い蛇のごとき八本の手足を無下にとりのけて、立ちあがった。朱鷺が心細げな眼をあげた。
「どこへ?」
 男はニンマリと気楽な笑顔をみせると、
「向うの動きが気になるんでね。ちょいと偵察に。それから、おれのねぐらも探さなくっちゃあ。なに、すぐに報告に戻ってめえりやすよ」
 とこたえて、蔵を出ていった。


 土蔵の外はひろい奥庭であった。いちど大きく伸びをすると、枝をひろげた欅が並んで植えられた庭をあるいていって、西田屋の塀のくぐり戸をあけた。この先は見世の前の往来につながっているのである。
 くぐり戸を抜けた男の耳に、おのれの名を呼ぶ声がとどいて、彼はうしろをふりかえった。見れば、朱鷺がここまで追いかけて来ていた。
「どうなさったんで」
 駆け寄ってはきたが、朱鷺は何やら思案している風で黙りこんでいる。こちらも無言で見まもっていると、ようやく顔をあげて、
「いいかえ、偵察はよいとして、途中でもし敵に見つかったとしても、決して手を出してはなりませんよ。逃げなさい。我慢なさい。おまえはかっとなると見さかいがつかなくなるから──。とにかく、いま争うは無用です」
 と、噛んでふくめるようにいった。まるっきり、ききわけのない息子を諭す母親の口ぶりである。男はちょっとあきれつつも、朱鷺の肩にぽんと右手をおいて、片眼をつぶってみせた。
「承知してまさ。それにいくらおれだって、きょうはもう、連中と喧嘩してやる元気は残っちゃいませんて。ちょっくら、ようすを見て来るだけでごぜえますから、あなたさまはここで待っていて下せえ」
「ほんとうに?」
 あからさまに不安をのぞかせた顔色で見あげてくる。信用されてねえな、と彼は胸中で苦笑した。──むろん、信用されていないこと、無智で無謀な風来坊だとみなされていることは、彼の演技が完璧であることの何よりの証しでもあるが。
 すこし屈んで彼女の身長に合わせて、からかうようにのぞきこんだ。
「ほんとです。──しかしうれしいねえ、お朱鷺さま、そんなにおいらが心配ですかい?」
 その途端、彼女はきっとした。怒りと羞恥がないまぜになったまなざしで、
「調子に乗るでない! おまえが一人であばれて捕まるのは勝手ですが、わたしまでそのとばっちりをうけるのは御免だというだけです!」
「……さいですか」
 凛然といい放ち、こちらをにらんでいる朱鷺は、それでも玲瓏と霞む月光のような美貌で、男の眼には不夜の遊女町を煌々とてらすあたりの灯火よりもまぶしく映った。ふっくらとした白い頬を見て、ふと──この頬は触れたらどれほどやわらかいのだろう、と興味がわいた。ゆっくりと、撫であげるように右掌を移動させて、滑らかにすべる絹糸のような黒髪ごと彼女の左頬をつつんだ。
「…………」
 朱鷺の瞳がゆれた。困惑と、恥じらいと、恐れと、それから──。ほんのみじかい時間、いくつもの感情がその瞳にさざ波のごとくわたってよせ合い、とけ合った。
「あ、あの」
 と、朱鷺はささやいた。何をいおうとしたのかわからない。
「うん」
 と、彼はささやいた。何とこたえようとしたのかわからない。
 そうしてしばらく見つめ合った。
 ──緊張にたえかねたように朱鷺が視線をおとした。心持ちうつむいた頬に触れている掌から、彼女のかすかなふるえが伝わって来る。小娘じみたその反応に、男の胸になんともいえぬ可笑しさが込みあげた。これが、はじめて逢ったその日のうちに、韮崎の林の中でみずから裸身をさらして誘惑してみせた女と同一人だろうか? ……
 半開きの、椿の花弁のような唇に眼が吸いつけられる。ふいに、その唇を吸ってやろうかとかんがえて、彼は顔を寄せ──
 朱鷺の額にそっと唇をおしあてた。そのまま、一秒、二秒……吹きすぎた一颯の青嵐が欅の梢をサワサワとゆらして、彼は離れた。動きはぎこちなく、自分でもおどろくほどの名残惜しさが尾をひいていた。
「つづきは、帰ってから」
 といって、にっとした。茫乎としていた朱鷺は、その台詞に眼を見ひらいた。
「……おまえ! それでは、やっぱり敵と……」
「いんや。お朱鷺さまのおいいつけだ、あいつらを見つけても手出しはしねえと約束しやす。安心しておくんなさい。──ただし、あっちから挑んできやがったら、そん時アおれもどうするかわかりやせんがね。じゃ」
 いたずらッぽくそういって、鬢の横でひらひらと片手をふり、さて路上へ一歩ふみ出しかけてぎょっとした。日はすでに沈んでうす闇がただよいはじめた暮六ツ、朱塗りの格子と柿色ののれんがずらりと並ぶ色町が、いよいよ活気づく時間帯である。往来をゆく客の数人が足をとめて、妓楼の前でおおっぴらに戯れている二人に好奇の視線をおくっていたのだ。
 面の皮の厚さを自負する男も、これにはさすがに照れくさく、えへへと愛想笑いをはりつかせて見物人のあいだをすり抜けて通った。数歩あるいてから肩ごしにふりむくと、真っ赤になって立ちすくんでいる朱鷺が見えた。


 談笑する者、はや酔いどれの者、脂粉と酒の香にむせかえるような小六町をゆききしている人の波にまぎれて進む。華やかに賑わう往来をはずれて、或る暗い横路にすっと身をすべり入れた。まわりに人影がないのを見すますと、小さく息をついた。
 思い出したように右掌を顔の前にもってきて、しげしげとながめる。朱鷺の肌の熱とわななく感触が、はっきりと残っていた。──男は片えくぼを彫った。彼女を笑えやしない、自分こそ、あれしきのことで小僧のごとくのぼせあがっているではないか──。
「朱鷺どの。雲母鉄平、しんからそなたに惚れたようでござる。──」
 だんだんと、濃い藍色に染まってゆくたそがれの空を仰いで、つぶやいた。快活なこの男が漏らしたとは思えぬほど、ふかい哀愁をおびた声であった。
 いかに想ったとて、ともに天を戴かざる敵。いずれ迎える破局は避けられぬ女。……それでも、彼女と逢うために自分は生きてきたのだと、二人は出逢うべくして出逢ったのだと、そう思う。
 いまになって自覚したことではない。あの日、初夏はつなつの甲州街道で、二つの黒い光芒が胸奥に刻みこまれた瞬間から、すでに心は決まっていたのである。くだらぬ由来でいつのまにか定着していたおのがあだ名も、暗示のひとつであったのかも知れない。偶然の仮の名。だが、真田のくノ一の護衛者にはもっともふさわしい名。──
 ふいに彼は、別人のように冷徹な眼を向けた。南の方角の空へ、鐘鳴りひびく赤玉城へ。宵闇の中にもはや輪郭も判然としないが、夜が明けあすの朝になればそこにまた、赤玉城と血塔のぶきみな朱色が蒼天に浮かびあがってくるであろう。かの城の城主たる人物に思いをはせた。佐渡の帝王、天下の山将軍、徳川の大智嚢。そして──この手で破滅をもたらすべき標的。
 使命感にこぶしを固めて、しかし、──おれが破滅するときは、それをもたらす使者はあのくノ一かも知れぬ、などという予感がチラとかすめた。白刃を手に対峙した自分と朱鷺の映像が、奇妙な生々しさで脳裡をながれた。
 ……ばかばかしい。いのち懸けなのはあの女だけではない、わしも何としても目的を果たさねばならんのだ。そのために利用できる者は利用する。邪魔だてする者は誰であれ斃す。それだけだ。
 男は一笑に付して、いま見た幻影をはらい捨てた。なんぞ知らん、一ト月も経たぬのちに、その幻影が現実となって彼の眼に再現されようとは──。
 「……お互いに、知れぬが花よ、世間の人に、
  知れりゃ互いの身のつまり、
  あくまでお前に情立てて、惚れたが無理かえ、
  しょんがいな、迷うたが無理かえ。……」
 どこかの見世から遊女のうたう小唄がきこえて来た。しばし、陽気な唄声と三味線の音色にじっと耳をかたむけていた男は、やがて、落とし差しにした刀の柄をとんとたたくと、往来の雑踏へとあるき出した。
 その顔には先刻までひきずっていた虚無的な影はもう微塵もなく、いつもの通りの不敵な、天衣無縫な笑みを浮かべているのであった。


 佐渡の夜空をふるわせる、美しくも不吉な鐘のは、まだ鳴りやまない。
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