はい、これ、とぶっきらぼうに手渡された香港のお土産。
広東語の印字がされた紙袋の中に入っていたのは、淡いすみれ色の缶ケースに詰められたパンダの型抜きクッキーだった。愛嬌のある小さな顔がぎっしりとケースに並んでいる様は確かに、エイトが自慢したようにとてもかわいらしくて、自然と頬がゆるむ。
色違いに見えるよく似たふたつのマグカップに紅茶をいれて彼と私の前に置いた時、ふと、そういえば今日は二月十四日──バレンタインデーだったと思い出した。長谷部さんの“自殺”をくい止めるためにタイムリープをくり返していたせいか、日付けの感覚が曖昧になってしまっていた。本来なら義理を用意すべき側のはずなのに、義理を受けとっている状況にちょっと焦る。失敗した……チョコレート、買っておけば良かった……。
「これ、香港で人気らしいよ」と言って、お皿にあけたクッキーを私が手を出すよりも先にもうつまんでいるエイト。──ちょっと。それ、私へのお土産じゃなかったの? どうしてあなたがまっ先に食べちゃうのよ。
彼はたまに、そういう子供みたいに無邪気な一面を見せる。くすりと笑うと、何? と怪訝な視線が向けられた。
何でもない、と首をふれば、同じく笑みを返された。この部屋でふたりで過ごすこと、かわいいお菓子を前にして笑いあえること、それがとても嬉しくて、とても切ない。改めて私ははっきり自覚してしまう。
渡したかったチョコレートは、義理じゃない。本命だった、と。──
くだらない話でふざけて笑う顔。キスを拒まれてふてくされる怒った顔。時々、抱えた哀しみの深さを垣間見せる寂しげな顔。
いつもは低くて落ち着いた声が、昂奮すると少し早口の巻き舌になるのも。すごく美形なのに、ひとの倍はありそうな喜怒哀楽の振れ幅といっしょによく崩すゆたかな表情も。キスする時は腕を引っぱったり無理に頬をおさえたりちょっと乱暴な動作でも、唇をあわせる瞬間は壊れものをあつかうように繊細に触れてくれるのも。
この眼で見た、この唇で感じた、このひとのすべてが心の奥の大事な部分に刻みこまれて、どうしても離れがたい。その離れがたい感情が何という名前なのか知ってしまったからには、もう知らないふりはできない。なかったことにはできそうもない。
だけど、それは決して抱いてはいけない感情のはずだった。──誰かの犠牲の上で生きている私には。
だから……また罰があたった。
香港土産を手渡すと、宰子は少しはにかんだ様子で「ありがとう」と言った。
紙袋の中からとり出したそれを見て、わぁ、とか小さく歓声らしきものをあげて眼をかがやかせている。──よし、この選択で正解だった。最新の人気の品を検索かけて探した甲斐があった。ばかばかしいのが、こんなクッキーごときに三十分も並んできたんだぜ。まぁ、一時間待ちだったらさすがにやめたけど。
そういうわけなんで、ちゃんと喜べよ。おまえの喜ぶ顔が見たくて買ってきたんだから。……え? 俺、そうなの?
「どうぞ」と紅茶のマグカップを目の前に置かれた。……ほんとはコーヒー派なんだよな。宰子のオモテナシの気持ちを無下にはできないからあえて言わないけど。ほら、俺って紳士だし。
と、向かいあって坐る宰子の手元にも色違い風のよく似たカップがあるのを見て、何か……何かむずがゆいような変な気分になる。昼夜問わず女の部屋にいり浸って、おそろいみたいなマグカップを使う──つき合ってる彼氏でもないのに。……何やってんだ、俺。
いや、でも、寝るためだけに帰る寒々とした自分の部屋よりもこっちの方が何倍も居心地がいいんだから、仕方ないよな?
妙な気まずさをまぎらわせようと、皿のクッキーをひとつつまんで口に放りこむ。……まずくはないが、予想以上に甘ったるい。あー、ブラックで流しこみてえ……。
くすくすと笑う声が聞こえて、何? と視線を向ける。何でもない、と首をふる彼女の笑みが──初めて見るような自然な笑みがやたらと魅力的に感じて、どきりとした。それで、なんとなく納得した。
居心地がいいのは、この部屋だからじゃない。宰子がいるからだ、と。──
普段めったに見せないせいか、ふとしたはずみに出逢うとつい見入ってしまう笑顔。キスさせろとせまると必ずといっていいほど浮かべる呆れた顔。いつも、背負った哀しみの重さを想像させる寂しげな顔。
控えめなことばかりしゃべるもどかしい声で、ときおりえらく辛辣なせりふも吐くから意表をつかれて新鮮だとか。タイムリープが目的で抱きよせる肩の華奢さに最近、心がざわつくだとか。並ぶとちょうどいい身長差にのぞきこんでからかえば、恥ずかしがって顔をそむける仕草がちょっとかわいいだとか。
あまり深く考えないようにしていたそのひとつひとつが、意外なくらいあざやかな色で胸に定着した日常となっていることに自分でも驚く。いつか、もうすぐ、その日常を手放す時がくると頭ではわかっていても、どうしても実感がわかない。実感しないでおこう、と眼をつぶりたくなるのはなぜだろう。
だけど、“契約”は、いずれ満了をむかえる。その現実から逃げようとしていたから。
だから……つきつけられた。
──眼を開けると、夜のガード下に立っていた。
ここは……おそらく曙橋。やや離れた場所で、壁に背をもたせかけて坐っているのは、春海さんという名前のあのひと。タイムリープの危険性を忠告してくれたふしぎなひと。
私の存在にも気がつかぬ風で、眼をとじて無心にギターの弾き語りをしていた。誰に聴かせるでもなくつむがれる、やさしくて美しくて同時にふかい哀愁をおびたその歌声は、真冬の夜気よりも私の身をふるわせた。
“今しがた”の絶望が、時間を超えて再び“今”、どっと全身におし寄せる。脚がよろめいて倒れそうになるのをこらえた。息を吸うのも苦労するほど胸がしめつけられて苦しいのは、最後に見たエイトの瞳が憎悪そのものの色をしていたのが忘れられそうにないからだろうか。
聞きなれたエイトの声が穏やかに──どうしてか穏やかすぎるほどに鼓膜にひびいた。
──なあ、宰子。知ってる? 俺さ、おまえを助けたせいで、二度と弟に逢えなくなっちゃったんだよね。二度と弟の笑った顔を見られなくなっちゃったんだよね。だからさ。
俺の前で、二度とそのツラで笑うなよ。──
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……その六文字以外、もう何も浮かばない。嗚咽がおさえきれなくて、マスクの上から両手で口をふさぐ。
(俺達が出逢ったのは偶然じゃなかったんだよ。光太が逢わせてくれたんだよ)
私は光太くんの命をもらったんだ、と言われた。
全部、彼の言うとおり。全部、私のせい。……命をもらうことはできるのに、返すことはできないなんて不公平だ。もし、返すことができたなら、そっくりそのまま戻したい。彼が最も助けたかった、彼の大切な弟に。こんな私にはつり合わない大切な命を。
(おまえを助けたばっかりに……あの時おまえを助けたりしなかったら……!)
償え、と言われた。
どうすれば償えるのだろう──。赦されたいなんて思わない。罪を消したいなんて思いもしない。ただ──どうすれば、あなたの心に穿ってしまった深すぎる穴をほんのわずかでも埋めてあげられるのか、おしえて欲しい。
(良かった、って何が? 何が良かったんだよ。命があるだけ、良かった? ……生きてる方がよっぽど辛かったよ!)
生きていてくれただけで、それだけで良かっただなんて、思い上がりも甚だしかった。私は何もわかってあげられていなかった。
でも……どうか、どうか生きてる方が辛いなんて言わないで。あなたも、私も、まだ知らないだけで、きっとこの世界はもっと、ずっとやさしくて美しいはず。だって──この歌声はこんなに心を揺さぶるのだから。
そしてあなたには、それを知る権利がある。それを手にする資格がある。
弟の分まで幸せになると決めた、でなければ生きてる意味が無い、と聞いたあの日を憶えている。──これがせめてもの償いに値するかはわからないけれど──あなたのその決意を実現させる、それだけを私の生きる意味としてもいい? あなたの幸せのためだけに生きることを赦してくれる?
とめどなくあふれる涙を手の甲でぬぐって顔を上げ、私は駆けだした。乗馬倶楽部へ──二月七日の夜の向こう側へ──。
──気がつくと、夜の防波堤に立っていた。
潮の匂いが鼻につく。波の音が耳をうつ。地上に流れる銀河のような遠い夜景が、ここが東京湾だとおしえる。
ふしぎなことに、タイムリープ特有の死の苦痛はほとんど感じなかった。……肉体の苦しみより魂の苦しみの方が強い、とかいうあれか? ふざけんな、今まで毎回、死ぬ思いして死んでたってのに。……
“一週間後”にあたるはずの“ついさっき”の光景がまざまざと瞼に灼きついていて、猛烈な自己嫌悪におそわれて吐き気がこみあげた。
……俺は何を言ったっけ。異様にのどが嗄れてすげえ声が出しづらかったのだけははっきり思い出せる。だけど肝心のせりふは、頭が沸騰しててよく憶えていない──おまえは俺に何ができるんだ、とか、償え、とか、どうしようもないクズ発言のフルセットを浴びせちまった気がする。確かにそんな気がする。
……違う、違うんだって。宰子が憎くないわけじゃない。だけどそれ以上に、なすすべもなかった弱ぇガキの自分を思い出すのが辛くて、腹が立ったから。
ふるえながら、ぼろぼろ涙をこぼしながら、それでも俺の眼から眼を離さなかったあいつの姿が、何度頭をふっても脳裡にこびりついて消えない。
──なあ、宰子。あんなにひどい言葉でおまえを傷つけた──おまえの傷をさらに増やしたもんな。生きてて良かった、と泣いてくれたおまえのやさしさを踏みにじったもんな。だからさ。
俺の前で、二度と笑ってくれないよな。──
(事故に遭ったときに私を助けてくれた男の子達が死んだから、私だけ幸せにはなれない。幸せになっちゃいけない。ひとりだけ助かったから、罰があたったんだと思う)
──宰子、それは違うよ。俺と宰子の命が助かって生きながらえているのは、ただ単に運が良かった。持ちあわせた運命だか何だかのせいだった。結局、あの日、俺の力じゃ光太もおまえも助けることなんかできやしなかった。
……二人とも助けられないと決まっていたのなら、どうして俺は、最後にあいつに肩をかしていたんだろう? どうして光太と手を繋いでいてやらなかったんだろう? ……そうすれば、光太と一緒に死んでやれたかもしれないのに。
(自分は幸せになっちゃいけないって思ってたけど。あなたが幸せになっていいって……それが、すごく嬉しかった)
手をさし出してうながせば握り返してついてくる手があることに少し心が安らぐなんて、気の迷い。たった一人であがいて頂上を目指すよりも誰かと並んでながめれば景色は違って見えると期待したのは全部、夢。
光太の抜けた穴を埋めてくれると思った相手は、穴をあけた張本人だった。
(……前に進めば、人生は変えられるって私におしえた! 私、嬉しかった!)
うん。それ、俺の座右の銘。前に進めば人生を変えられる、未来を変えられる。十二年前からそう信じて、信じこんで生きてきたんだ。……その結果がコレだよ。笑えねえよな。
決めた。今日からおまえ「パートナー」降格な。「エントリーナンバー」で呼ぶことにするよ。──だって、そう割りきった方が、おまえも俺もこれ以上傷つかないで済むだろ?
「二人で幸せを手に入れよう」ってこっちからもちかけといて、“契約”不履行でごめんな。俺さ、もう自分の幸せをつかまえるだけでギブアップ。宰子まで幸せにしてやれる自信なくなったよ。ってか、“宰子の幸せ”が何なのか、わからなくなったといえばいいのか。
──だからそれがわかるまでは。
これからはおまえは「便利な道具」ってことでよろしく。安心しな、一生使い倒してやるから。「光太の代替品」として、俺の傍から逃がしゃしねえから。
いまだ胸にくすぶりつづける何かをその場に捨てて、俺は駆けだした。乗馬倶楽部へ──二月七日の夜の向こう側へ──。
長い夜は、まだ明けない。