Lachesis

「Lachesis」(ラケシス)は人間の運命を司る三姉妹の次女で、運命の糸を測って割り当てる(渡された人生を変えられる)女神の名前。


一 ────


 パパからもらったクリスマスプレゼントは、今までで一番大きくて綺麗なダイヤモンドのついたペンダントだった。
 かわいいお花にはめられた石が九個、シャンデリアの灯りをうけてキラキラとかがやいているのがとっても嬉しくて、わたしはつい声をたてて笑ってしまった。……今のはちょっとはしたなかったかな? こんなところをお兄ちゃんに見られたらまた、並樹グループのコウケイシャにふさわしいふるまいを、とかって叱られちゃうかも……あれ? お兄ちゃんはどこ?
 辺りを見まわす。大きなクルーズ船(『プロメテウス』っていうかっこいい名前の船だって寛之くんから聞いた)で皆でクリスマスパーティー中のこの会場にはたくさんの大人(パパの会社の偉いひと達)と、子供(偉いひと達の子供達。それと、ジゼンジギョウ? というので招待された子供達も)が集まっている。でも、お兄ちゃんの背の高い姿はその中に見えない。
 ──そうだ。このペンダント、お兄ちゃんにつけてもらおうっと。よく似合ってるって、かわいいよって褒めてくれるかな? ──
 ベルベットのケースにペンダントを大切にしまって、しっかりと握りしめる。わたしはきょろきょろしながら、いろんなひと達に押されたり押し返したりしながら、会場の中をお兄ちゃんを探して歩いた。三つ先のテーブルに楽しそうに笑いあっている菜緒ちゃんと寛之くんを見つけて、そっちへ聞きに行こうとした……その時。
 出入り口の扉に隠れるようにひっそりと立っている、ふたりの男の子が眼に入った。
 頭ひとつ分ほど背が違うふたりだ。小さい方は、一年生くらいかしら? くるっとした大きな眼がかわいらしい男の子。大きいもうひとりは、わたしと同じくらいの歳に見える。整った顔だちをしたやさしそうな子。とてもよく似た雰囲気の彼らは、あえて確かめるまでもなく兄弟だとわかる。
 せっかくのクリスマスパーティーなのにどっちもドレスアップしていない。……なんていうか、その、かなり地味な感じの普段着だった。もしかして、あの子達もジゼンジギョウ? で参加してるのかな? とてもにぎやかで明るいパーティー会場へどことなく寂しそうに向けられている四つの眼が気になって、わたしはふたりへ近づいた。
「こんばんは」
 声をかけると、大きい方の子がビクッと肩をふるわせてわたしに顔を向けた。──扉の影がかかる暗い位置に立っているのに、その子の瞳が透きとおるようなかがやきを放っているのを見て、一瞬、めまいのようなものを感じた。
「……あ、驚かせてごめんなさい……。ねえ、あなた達、どこから来たの? もうクリスマスプレゼントはもらった?」
 急に話しかけたのはよくなかったのかもしれない。小さい子が大きい子の腰にしがみついて後ろにかくれてしまった。それをかばうように一歩前へ出た大きい子が、さっきのかがやきが消えてむしろ昏い冷たい瞳でにらんできた。
「……おれ達にそんなの、ないよ。ほっといて」
 これも昏い冷たい声でぼそっと言われて、少しムッとした。だけど、よせばいいのになぜかわたしの口は、さらに言葉をつむぐ。
「え、でも、今夜はクリスマスイヴよ? サンタさんがこの船の子供達みんなにプレゼントを持ってきてくれてるわ。きっと、あなた達の分だって……」
「お兄ちゃん、本当?」と小さい子がたずねたのが聞こえた。たずねられた大きい子は何かをこらえるように眉を寄せてうつむいた後、すぐにぱっと顔を上げて、
「……おれ達には関係ない! きみ達とは違うから! ……もうほっといてよ!」
 まっすぐわたしへたたきつけられた叫びの強さに、びっくりした。頭が真っ白になって何も言い返すことができない。すごく驚いたし、なんだか哀しいし……どうしよう、涙が出そうになってきちゃった……。
 すると、大きい子が「コウタ、行こう」と小さい子の手をつかんで背中を見せた。ふたりが扉から外の廊下へ出ていく直前、コウタと呼ばれた子がわたしをふり返って「ごめんね、お姉ちゃん。……バイバイ」と手を振ってくれた。
 ──何だったんだろう、今の。どうして、あの子、あんなに怒ってたんだろう。今夜は楽しいクリスマスイヴなのに。わたし、何もわるいことしてないけど──でも、謝った方がいいのかな。ごめんなさいって言ったら、許してくれて笑ってくれるかな。そしたら──もう一度、あの子とちゃんとお話をしてみたい。
 ふしぎなくらい落ちこんだ気持ちになって、しばらくそこに立ったままでいた。と、パパとママが廊下を歩いてこっちへ来るのが見えて、そういえばお兄ちゃんを探していた途中だった、と思い出す。
「パパ! ママ! お兄ちゃんがどこに行ったか知らない?」
 かけ寄ってそう訊くと、パパはなぜか怒ったような表情で、ママはなぜか困ったような表情で顔を見あわせた。
「……美尊。尊氏さんのことなのだけど……」
 少し沈んだ声でママが何かを言いかけた時、船の中にけたたましい音が鳴りひびいた。これまでに聞いたこともないほどうるさくて、気持ち悪くて、心臓をしめあげるような恐ろしい音だった。
 わたしも、パパもママも、そこにいた全員が不気味な予感をおぼえて天井近くのスピーカーをいっせいに見上げた。


 ──その音が、『プロメテウス』の制御盤がショートし計器類がすべてダウンして操縦不能になったことを伝える警報だったと、私はのちに知る。──


二 ────


 同情をかうなんて最低よ。
 うなだれながら本当にごめんと謝る旺太郎に、私はひと言だけ投げつけた。私をあざむいていたことを認めた彼に対して、はげしい怒りと失望しかわいてこない。
 一週間前、兄から聞かされたこの現実が、私の中で明確なかたちをとり始めていた旺太郎への信頼を粉々にうち砕いた。
(彼の父親は、十二年前、僕らが乗っていたクルーズ船を沈めた船長だよ)
 十二年前のクリスマスイヴ。犠牲者三名、負傷者十八名の甚大な被害を出した大型クルーズ船『プロメテウス』の海難事故。──それは、身をもってその地獄の一夜を体験し奇跡的に命を助けられた私の心にも、生涯消せない大きな傷痕を残している。
 ……でも。だからといって、“不幸な偶然による事故”である以上、当時の船長に過度な責めも恨みも私は持っていない。実刑判決を受けいれて法的責任と賠償金を負い罪をつぐなった船長本人へはもちろん、事故とはまったくの無関係で何の罪もない船長の家族──旺太郎にも。それなのに、なぜこれほど腹立たしくてやりきれないのか。そのこたえは多分、ひとつ。
 どうして、最初から本当のことを言ってくれなかったの? 過去に父親が大きな事故を起こした、ただそれだけのことで私が旺太郎を嫌って遠ざけると、そんな女だと思っていたの?
 幼い頃に両親は強盗に殺された、だなんて、今となれば凄絶すぎて大嘘としか思えない作り話を何の疑問ももたず鵜呑みにした私も浅はかだったけれど……(でも、幼なじみを名のったあの新婦の話はとても真に迫っていたし……待って? 彼女の話が嘘だったということは、まさか……まさか……あの結婚式すらも!? ……なんてひと!)。
 偽の身の上話で私の同情をかおうだなんて、みくびらないで。私はただ、旺太郎の真実をありのままにおしえて欲しかった。おしえてくれたと思ったからこそ──。
 苦い後悔に唇をかむ。落胆、幻滅……そんな私の心がとどいたのか、ホワイエのソファにうつむいて坐っていた旺太郎は思いつめた顔を上げると、訥々と語りだした。
「……でも、僕の現実はもっと最低で……悲惨なものだから。……十二年前、あの船に僕も乗ってたんだ……弟と。しかも……父親が沈めた船で、僕は弟を死なせた……」
 最初、旺太郎が何を言っているのか理解できなかった。……乗ってた? あの船に、弟と? ……それは……それはもしかして……。
 そうよ、『プロメテウス』で見たあの兄弟──記憶の海の底から浮かびあがってきたふたつの顔の片方に十二年という歳月のヴェールをかけて、はずしてみる。あらわれた顔はぱちん、と音をたてて、目の前の旺太郎と重なった。
 ──そうだったんだ。あの日出逢った、ふしぎな印象を残す瞳をもったあの男の子は、あなただったのね。
 十二年前、私を冷たく拒絶して去った彼が、十二年後の今、必死に私をふり向かせようとしている。その事実に気づいた刹那、奇妙な戦慄めいたものが背すじをながれた。と、同時に「バイバイ」と言ってくれたかわいい声が、振ってくれた小さな手が鮮明に思い出されて──どうしようもなく胸が痛む。
(──なんで水商売やってるか、わかる? 一日も早くあそこから逃げ出したかったんだよ。自分の力で生きてくしかなかったんだよ。──)
 教会で抱きしめたひどく心細げに寂しく見えた旺太郎の背中は、あれは真実だったのだと今、知った。……やっぱり、あなたは、ひとりでは押しつぶされてしまいそうなほどの哀しみと苦しみを背負っているじゃない。その重荷を軽くしてあげたい、倒れぬように支えてあげたい、とあの時思ったのは、間違いなんかじゃなかった。
 ……父が死んですぐに養子の籍をぬき、私にプロポーズをした兄はおかしい、……私の気持ちが固まってもいないのに、急いで今日の婚約披露パーティーまでひらき既成事実化しようとしている、……そんな兄に護られることが、誰かに護られることが私の探していた“本当の愛”なのか? ……旺太郎のかきくどく言葉のひとつひとつが、この一週間、私を苛んできた不安と迷いの全部に呼応する。
 ……だけど。「並樹グループの後継者」である私は、宿命には逆らえない。最も優先すべきはグループの継続と発展、そのためならたとえ兄が昔とは変わってしまったのだとしても兄に従い、ついてゆくしかない。……“本当の愛”なんてどこを探しても見つけられないし、見つかるはずがない、そもそもはじめから「並樹尊の娘」として生まれた私が欲しがって良いものではなかったのよ。……
 そう伝えると旺太郎は、私に初めて見せる真摯な、そしてなぜか焦燥にかられたまなざしをして、言った。
 ──お兄さんには秘密がある。あとでおしえてあげる。それを知れば、未来を変えられるかもしれないから。──


「美尊、皆さんに挨拶しよう」
 私の隣に立ち、誇らしげにうながしてくる兄。私達ふたりの盛大なる婚約披露パーティー会場として用意されたこの大ホール中に、会社の重役連や系列子会社の代表、取引先、親戚、友人、さらに大勢のマスコミがつめかけてひしめいている。
 まぶしくきらびやかに仕立てられた晴れの舞台でも、私の心は何ひとつおどらなかった。色とりどりの装花も、純白のドレスも、ただただ陰鬱な気分を増す手伝いにしかならない。
「あんなにやさしくて素敵な理想のお兄さんは世界中のどこにもいないって!」は菜緒の口ぐせだ。一月二十日までは、私も心の底からそう信じていた。こんな日が来るのを、実は子供の頃からこっそり夢みてもいた。……でも、今日、一月二十七日の私は違う。
(これから美尊のことを護っていけるのは、僕だけだよ)
 いつも正しい方向へ私の手をひいてくれる、理想の兄。一番近くで見まもってくれて、私を支え、導いてくれるひと。──あなたの愛は鎖のよう。やさしく縛りつけて、私をがんじがらめにする。
「妹」ではなく、どこか「物」でも見るような眼を私にそそいでいる兄の笑顔が厭わしくて、思わず視線をそらした。……兄はいつから、こんなにも傲慢な笑い方をするようになったのだろう?
 ホールを見わたす。居並ぶ来賓もマスコミも、皆、兄とそっくりな眼で私を見ていると気がついた。そうね、このひと達が見たいのは『巨大企業並樹グループの新たなトップと、その伴侶が誕生する瞬間』、それだけなのね。──彼らの前で、今日からこの尊氏さんが私の所有者です、と言わせたくてたまらないの? お兄ちゃん。
 乾いた笑いが口元をかすめる。やっぱり、誰もが次期社長の椅子に夢中なのだ。それほどすばらしい「場所」ならば、大きく『社長令嬢』と貼り紙をしたマネキンでも置いておけばいい。グループの後継者、という肩書きさえそなえていれば、それが『並樹美尊』である必要はないでしょう?
 虚しさと諦めをこめて挨拶をしようと口をひらきかけた時、下から母に声をかけられた。イヤリングを落としている、と。はっとして右耳に手をやると確かに、そこにあるべきものがない。私には小さい頃から、いらいらしている時や不安な時に右の耳たぶを触る癖がある。無意識のうちにそれが出て、ひっかけて外してしまったのだろう。
「貸してください。僕がつけてあげます」
 ぞっとするほど穏やかにそう言った兄が壇上から床へ降りた。僕がつけてあげる──それはイヤリングの形をした首輪なのかもしれない、とぼんやり考えた……その時。
 派手な音をたてて、ホールの出入り口の扉が大きく開かれた。
 ──開け放されたその中央、廊下の照明を背に受けて立っているのが旺太郎だとみとめて息をのむ。彼と、私と、かなりの距離があるのにはっきりと視線が交わったのを感じた。
 まっすぐに私を見すえたまま全力で駆け寄ってくる旺太郎。ただならぬその様子は「乱入」「暴走」といってさしつかえない状況にもかかわらず警備員に止められるどころか、会場の人波が彼を迎えいれるかのごとく左右に割れて道をつくってゆく光景は、私には奇蹟に思えた。
 信じられない速さで私のもとへたどりついた旺太郎が、勢いをつけて壇上へ跳ね上がった。今まで見下ろしていた彼に一瞬で見下ろされるかたちになる。呼吸ひとつ乱さず涼しい顔をしているのが、本当に信じられない。
 早鐘のような鼓動をうつ心臓をおさえながら、けれど私の口からは、兄の秘密って何なの? という自ら意図せぬ問いかけがこぼれ出た。……違う。今、訊きたいのはそんなことじゃなくて……
「ごめん。手に入れられなかった。だから──」
 うすく微笑んだ旺太郎の表情が、まるでいたずらっ子のそれのようだと思った次の瞬間──。
 ふわり、と口づけをおとされた。
 ──地鳴りを思わせるどよめきがわきおこった。四方八方からいっせいにたかれるフラッシュの嵐。この、誰もがまったく想定外の、しかも誰もがどこか期待していた最高に刺戟的な余興の登場をうけて、婚約披露パーティーは昂奮につつまれた。
 このままではパーティーがめちゃくちゃになる。……そう頭ではわかっているのに、身体は麻痺したように指一本も動かせない。まばたきさえもかなわない。ただ、触れあった唇のやわらかさだけが──それだけがあまりにも鮮烈に私を酔わせる。
 と、思ったけれど。いつの間にか肩を抱かれていた手が背中にまで回されそうな気配を感じて、さすがにかっとなった。旺太郎の黒いタキシードの胸をつきとばして(だけど、自分でもおかしいくらいに弱い力しか出ない)、ちょっと、何するの、とせめてもの抵抗として非難の声を浴びせてみた。
 旺太郎は謝らなかった。ふしぎな魅力を秘めてかがやく双眸が真剣に、真正面から私をとらえて、そして言った。
「前に進めば、未来を変えられる。君なら変えられる」
 心がふるえた。
 ずっと求めていた、言ってもらいたかった、心から待ち望んでいた言葉とようやく出逢えた気がした。──
「……美尊?」
 名前を呼ばれてふり返る。
 母の隣で片方のイヤリングを手に立ちつくす兄が、私を見上げていた。この期に及んでまだ微笑をたたえているのが、兄が私に“問うて”いるのではなく“教えて”いるのだと知らせる。……美尊、そこは間違っているぞ、おまえが在るべき場所はここしかないんだぞ。……
 ああ、あなたはまた、そうやって私を柵で囲おうとするのね。もし、その高い柵をとび越えられたら、私のまだ知らない自由な世界を理解できるのだろうか。──いつかの旺太郎と同じように。
 黙って壇上から見下ろしているだけの私の姿は、どう見えたのだろう。ふいに、秀麗としか形容しようのない兄の顔が苦しげにゆがんだ。
 大好きな、大切な、たったひとりの兄。そんな眼で私を見ないで。決して、あなたにそんな顔をさせたかったわけじゃないのに。だけど……ごめんなさい。お兄ちゃん、ごめんなさい。私は──
 ──私は、自分の脚で歩いてみたい。
 兄に背を向け、再び旺太郎と向かいあう。
 私を見つめ返す瞳がかすかにうなずいて見えたのが、君のこたえはもう知っているよ、と背中を押されたように感じて嬉しさがこみあげた。透きとおったこの瞳はまるで水晶のようだ、と思う。ありのままの私を映し受けとめてくれる水晶のようだ、と。
 彼が私に見せる顔の、語るせりふの、どこまでが真実でどこからが偽りなのかわからない。もしかしたら、始めから終わりまで何もかもが嘘で塗りかためたものだったのかもしれない。……けれど。それでも。
 それでも私は旺太郎に、恋をしている。
 “本当の愛”はまだ見つからない。でも、“本当の未来”は見つけられた気がする。──今、目の前に立つ彼とともに。
(前に進めば、未来を変えられる。君なら変えられる)
 この瞬間、胸を満たす想いのすべてを唇にのせて、私は──旺太郎の唇へ返事をした。
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