Eden -episode 2-

「Eden」(エデン)は神が最初にアダムとイヴを住まわせた天上の楽園の名前。罪を犯した罰として永遠の命を失いエデンを追われた二人は、地上で苦難も幸福も分かち合い、限りある人生を共に歩んでいく。


一 ────


 自分のアルコール耐性はひくい方なのだろう、と旺太郎は思う。
 ホストになりたての新人の頃は、先輩のヘルプとしてテーブルについたら賑やかしと小遣い稼ぎも兼ねて、自らすすんで一気飲みに励んでいた。シャンパンでもワインでもカクテルでも手当たり次第に流しこんでは、毎晩、店のトイレで撃沈していた。醜態と黒歴史を積んだ末、ここ数年はやっとまともに酒を嗜めるまで慣れたと自信をつけていた……のだが。
 それにしても、歌舞伎町ナンバーワンホストの地位にあった者としてはだらしがない、やはり生まれつきの体質というのはそう簡単に変わらないのか、と旺太郎は憮然とした。
 ダイニングテーブルにならんだビールの空き缶四本(ちなみにロング缶)をながめつつ。
 時刻は午後四時半。場所は自宅リビング兼『ナイン探偵事務所』応接室。春海と別れたあと、近所のコンビニで食料と酒のつまみと大量のビールを買いこんで帰宅して、ひとり寂しくはじめた年越しである。
 たかが四本のビール(彼の名誉のためにくり返すがロング缶)で揺らぐ視界には、テーブル上にひろげた写真週刊誌の記事がやけに映えた。
『超セレブカップル誕生!!』『並樹グループの次期社長決定 義兄妹ついに困難乗り越えて』『並樹家元長男・尊氏さんと長女・美尊さん結婚へ』──
「ほらな、美尊さん。片想いなんかじゃなかったろ」
 記事のなかの正装した男女は、“あの世界”では見せなかった穏やかな、自然な、幸福にあふれた笑顔を浮かべて寄りそっている。
「──今度こそ幸せにしてやれよ。尊氏」
 堂々たるカメラ目線の尊氏へ、弱めのデコピンと心からの祝福をおくってやった。憎み合った結果殺されかけたライバルも、こうして無関係の立場から見れば、白タキシードがよく似合うただの好青年にすぎなかった。
 ……と、そこで。
「片想い、か……」
 つぶやくと同時に、酔っぱらった頭に再生された、長谷部寛之から入手したいまいましい情報。
 ──(佐藤宰子? どうしてここで佐藤さんの名前が出てくるんだよ? あのひととは関係ないだろ。それにな、おまえは知らないだろうが、あのひと、片想いしてる相手がいるんだってさ。すごくやさしくて素敵な男らしいぞ。忠告しておくけど、佐藤さんにちょっかいかけようなんて思うなよ。ま、どうせおまえなんか、相手にされるもんか)──
 七日前、生意気にも牽制してきた長谷部は、宰子に異性としての興味をまったく持っていなかった。……ヤツには失望した。前言撤回。長谷部、おまえは女を見る目がない。
 心中に毒づいたところで、ふと、考えこむ。……宰子に新しい出逢いがあるのは喜ばしいことだ。誰かが彼女を幸せにしてくれるなら、もちろん望むところだ。それで、もしも。もしも晴れて恋人同士になったとして。普通のキスができないだけで、アレやソレは普通にするんだよな。……どこの馬の骨か知らねえ野郎が、俺の宰子にアレとかソレとか……!
 旺太郎が一人で勝手に悶々として憤っていると、玄関ドアから控えめなノックの音がした。二回。
「ただいま留守にしてまーす。また来年どうぞー」
 イライラしながらぞんざいにこたえる。けれどしばらくして、ふたたびノック。四回。
「留守だっつってんのに、うるせえなあ」
 足音も荒く向かい、ドアを乱暴にあけて怒鳴った。
「しつこい!」
 玄関先で棒立ちで目を真ん丸にした相手を見て、旺太郎は酔いがいっぺんにふっ飛んだ気がした。
 俺の宰子、もとい佐藤宰子だった。
「ご、ご、ごめんなさい。しつこくして……」
「あ、いや……こ、こっちこそ、わるかった。新聞か宗教の勧誘と思って……」
 お互いにもごもごと謝り合って、頭をさげた。それから、またお互いにまじまじと見つめ合って、
「……ど、どうも。お、おひさしぶりです」
 と宰子。
「……おひさしぶりです」
 と旺太郎。
 ちょうど一年ぶりに逢う宰子は、裾がくるぶし近くまであるくすんだブルーのワンピースに、これまたロング丈の真っ黒いコートを着こんでいた。そのどちらも、ボディラインを厳重に秘匿するオーバーサイズ。あいかわらず地味で野暮ったくて色気のかけらもない服装である。充分に美人の顔だちはいまだに化粧っ気がないし、艶のある黒髪もあか抜けないおかっぱ頭のまま。
 長谷部寛之にも森菜緒にも春海一徳にすら、どこか、月日の流れによる成長が見られたのだが、宰子の印象は一年前とほとんど変わっていない。彼女だけ時間が止まっていたかのような姿には「去年アドバイスしたのに……」と、残念とも安心ともつかない複雑な心境にさせられた。
 宰子はじっくり観察されて居心地がわるくなったのか、せわしなくまばたきをした両目を伏せた。心なしか頬が赤く見えるのは多分、外の寒さのためだろう、と鈍感な旺太郎が決めつけた時、彼女は指先で鼻を覆って眉をひそめた。
「お酒、飲んでるんですか?」
「飲んでるよ」
「……」
 その口調と視線にとがめるようなニュアンスを感じて、旺太郎はムッとした。
「何? わるい? 大晦日だよ、こんな時間から酔っぱらってたっていいでしょ。……それより、君、ここに何しに来たの? どうやってここを知ったの?」
 つっけんどんな態度をとった彼に、彼女はコートのポケットからとり出した一枚の紙片を見せた。
「あ、あの、これ。は、長谷部さんから、もらって」
 名刺だ。誰の、とは訊くまでもない。自ら作って自ら撒いた、最大のヒントだった。
「……なるほど」
 氏名も住所も電話番号もばっちり印刷してある名刺を受けとって、ため息がこぼれた。胸にこみあげてきた怒りの半分は、長谷部のお人好しとおせっかいに対して。そしてもう半分は、無意識のうちでこれが宰子の目にとまる可能性に賭けていたおのれの小ずるさに対して。
「あの……私……依頼を」
「待って!」
 ためらいがちに話しはじめた宰子を、鋭く制止した。宰子が反射的に身をすくめても、旺太郎は気にかける余裕もなかった。俄然、胸の怒りが勢いを増して燃えひろがったからだ。……一体、なんなんだ。どいつもこいつも「依頼」にかこつけてまとわりついてきやがって、どういうつもりだよ……!
「今、事務所は年末年始の休業中なんだ。それに、俺、ご覧の通りベロベロだし。仕事どころじゃないの、見てわかるよね。帰ってくれないかな」
 苦労して怒気をおさえ、やんわりつき放そうとしたが、
「お、お願いします。どうか、話だけでも」
 なるべくやさしく作った声音を「押せば折れる」と勘違いしたのだろうか、彼女がめげないものだから、
「いいから帰れよ! 言っただろ、俺みたいなクズにはかかわるなって!」
 おさえたはずの感情が昂って、つい怒鳴りつけてしまった。
 約二十センチ下から見あげてくる瞳が、みるみる哀しみの色で曇った。罪悪感がわいたものの、しかし、ここでほだされるわけにはいかない。旺太郎は心を鬼にして無言をつづける。
「…………すみませんでした」
 泣きだしそうな謝罪にも、耳に蓋をして耐える。
 すると彼女は、ななめ掛けにしたショルダーバッグをがさごそと探った。白布で包んだ、掌よりもやや大きい物を中から出した。
「帰ります。でも、その前に、せめてこれを……」
 丁寧に両手で渡してきた。その形。そのサイズ。宰子の表情。──布に包まれていても、旺太郎には中身の予想がついた。
 片方だけの、子供用の白いスニーカー。
 布をとくと、あらわれたのは予想通りだった。『プロメテウス』で喪った光太の靴。すべての始まりであり、旺太郎と宰子が背負う“現実”であり、ふたりの“運命”の象徴。
 インソールに母の文字で書かれた弟の名前を見た途端、凍えた手でぎゅっと心臓を握られたみたいに息苦しくなった。とっくに乗り越えたつもりだったが、所詮は「つもり」止まりだったらしい。この靴はまだ、手にするとこんなにも重く感じる。
 もしもあの時、脱げて水にさらわれたスニーカーを拾おうとしゃがみこんだ光太の手を離さなかったら──。もしもあの日、サイズが合わない新品ではなく履き慣れたいつもの運動靴を選ぶよう注意していれば──。いまさらどうにもならない「たら、れば」の後悔に沈んだ旺太郎を、宰子が真っすぐに見つめた。
「十三年前、私を助けてくれたひとですよね?」
 ──何から、どのように、こたえるべきだろうか。問われても唇がふるえるだけで、すぐには言葉が見つからない。
「弟さんのこと、本当にすみませんでした。私、ずっと、勇気が出なかったんです。この靴の持ち主のことを調べる勇気。でも……あの夜、あなたに励まされて、やっと調べることができました。そ、それで……どうしても、あなたにこれを返したくて……」
 切々と宰子が語る。旺太郎は、先刻とは意味の違うため息をこぼした。
 ……たった一人で、自力で“過去”と向きあって受けとめて、逢いに来てくれたのか。……こいつには何の罪もないのに、「遺族」の前に名のり出たら、理不尽な恨みで八つ当たりされたかもしれないってのに。……
 事実、彼には彼女を責めはたいて追いつめてしまった経験がある。だからなおさら、いじらしさに心をうたれた。
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれて。──中、入って」
 閉めかけていたドアを大きくあけた。宰子が目を見ひらき、肩の力を抜いてほっと息をついた。


『ナイン探偵事務所』に宰子が足を踏みいれたのは初めてだ。
 ただし、事務所の応接室とはいっても、家具を多少増やしたり配置を変えたりしてそれっぽい内装にしただけの自宅リビング兼用である。もの珍しげに室内をキョロキョロと見まわす彼女を内心、「この部屋、見飽きてるはずだよな?」と疑問に思った旺太郎は、すぐに納得した。
 見飽きているはずがない。“初めて入った場所”なのだから。事務所に改装する以前だって、『この宰子』は、一度もここを訪れたことが無いのだから。
 宰子は水槽内をユラユラただようクラゲに見入っている。興味津々のその横顔が、旺太郎にちょっとした悪戯心をわかせた。……「実は、君と俺、ここで同棲してたんだよ」なんて言ったら、どんな反応をするのか見てみたい。……
 実際はたんなる「一時避難」で、ともに過ごしたのはたった七日、男女の仲も一切進展しなかったが、男のプライドから「同棲」とみなしたい彼である。
「そのへん、適当に坐ってて。今、お茶いれるから。あ、俺はコーヒーにするけど、宰子は紅茶でいいよね」
 ダイニングテーブルに散乱したビールの空き缶やら柿ピーの空袋やら週刊誌やらを急いで片づけて、流し台へと向かった。
「え? ……は、はい」
 宰子は怪訝そうにうなずいてから、テーブルをはさんで対に置いたソファの手前側に腰をおろした。
 その後、旺太郎が別の中身をそそいだマグカップを二つ持ってくるまで約五分間、ひと言の会話もなかった。
「──それで? 依頼って、どんなことかな?」
 ホットのダージリン(砂糖多め)とブラックをテーブルに置いて、宰子の向かいのソファへ坐る。静かすぎるこの空気がそろそろ耐えがたい。雑談のつもりでかるく質問した──のだが。
「探して欲しいものが、あるんです」
「探して欲しいもの?」
 オウム返しをした彼に、彼女が緊張した面持ちで言った。
「あなたとの記憶」
 口をつけたブラックのマグカップが、飲む寸前で静止した。


 明かしていない私の名前や、ずっと隠してきた“キス”の秘密を、なぜあなたが知っていたのか。その理由は何なのか。いくら探偵とはいえ、そこまでくわしく調べられるものなのか。ひょっとして、私が持たない記憶をあなただけは持っているのなら、それをおしえて欲しい。
 ──と、宰子はうったえかけた。当てずっぽうの偶然だよ、そんな記憶なんかないよ、あるわけないじゃん、とあしらって追い返すには、その切なる懇願はあまりにも重かった。
 だから旺太郎は、“夢”の話を聞かせてあげることにした。『あの宰子』との三ヶ月間を、『この宰子』にもおしえてあげることにした。“記憶”でもなく、“過去”でもなく、“夢”の世界の出来事として。
「夢を見たんだ。今から話すことは、俺が見た夢の話。──」
 “幸せ”を餌にちらつかせ、ビルの屋上から飛びおりてまで締結をせまった、好きも嫌いもない“キスの契約”。片や打算、片や抵抗で始まった、世にも奇妙な“パートナー”関係。主導権を握ったと浮かれる旺太郎へ、『宰子』からの意外にしたたかな反撃。互いの過去とトラウマとがからみ合い、なりゆきが複雑化した長谷部寛之の救出劇。長いあいだ背を向けて逃げてきた両親との和解。“殺された”旺太郎を“生き返らせて”くれた『宰子』の選択と、覚悟。
 “キス”と“タイムリープ”をこれでもかとくり返したあの三ヶ月は、ハプニングもトラブルも目白押しではちゃめちゃに濃密に色あざやかだったあの日々は、今もこの胸に刻みこまれている。手にとれそうなくらいはっきりと、たしかな存在感で、どれもこれも。
 なのに。相手にとっては、どれもこれも“初耳”の話だった。
 眼を丸くしてあきれる。しかめた顔を両手で覆う。不満げに頬をふくらませる。前のめりになって続きを催促する。旺太郎が披露するエピソードの一つひとつに、宰子はいちいち新鮮なリアクションをした。そんな姿がたまらなくかわいくて、そして──どうしようもなく切なかった。
「そ、そんなことが……」
 次から次へと突拍子もない展開をみせる“夢”に驚き疲れたようで、宰子は大きなため息をついた。
「もっとすごいことがあってさ。なんと、君は誘拐されたんだよ」
「誘拐?」
「けどそれも、二人でなんとか乗りきった」
「二人で?」
 この宰子は当事者ではない。それはわかっていても、あんなに劇的だった事件の被害者が他人事みたいに首をひねっているのは、やはりふしぎな感覚がした。
 キョトンとしている眼前の宰子に、廃工場で助けた日の『宰子』がかさなる。尊氏に誘拐され監禁された彼女を旺太郎は、合計で十四日間も放置してしまった。だが、「待たせてごめんな」と謝った彼に、彼女は微笑んでくれた。
(信じてた)
 胸に強い痛みを感じた。固まっていた傷痕のかさぶたをはがされて、そこにまた鋭利なナイフを突きたてられたかのようだ。……信じてくれていた『宰子』に、俺は何をした? 何を言わせた?
(償え)
(あなたの役にたつ、道具になる)
 網膜に再現された、健気に痛々しい笑みを作った『宰子』の顔。
(おまえを幸せにするのは俺だって言っただろ)
(あなたといると、辛い)
 鼓膜に再生された、弱々しく哀しい余韻をひいた『宰子』の声。
「それから? それから、私達はどうなったんですか?」
 何も知らない純粋な好奇心からの質問が刃となって、過去の幻影に縛られている旺太郎の胸奥をふかく刺し貫く。その苦痛こそ、誰とも共有のかなわない、彼が独りで抱えていかねばならない“罰”であった。
「それから、俺達は……」
 刺された傷口からあふれて流れる鮮血がとめどなく、“あの教会”の床を染めていく。
(あなたは幸せを手に入れた。だから、もう、私はいらないでしょ)
(頼むよ……俺を置いていくなよ……)
「……俺が素直になれなくて、結局、君とはうまくいかなかったんだ。俺は君がいなくなっても平気だと思ってたけど。女の一人や二人、失ってもどうってことないって思ってたけど。……やっぱり辛くて……」
 かすれがちになった旺太郎の独白。それを追う、宰子の静かな問い。
「──目を、覚ましたんですか?」
 無垢な、慈しみをもこめた眼を向けられて、旺太郎の心に大きな波が立った。
「人生って、本当、後悔の連続なんだよ」
 波立つままに唇が動いて、吐露していた。──それこそは、しんに語りたかった想い。
「伝えたいこと、してやりたいこと、たくさんあったんだって気づいた時には……手遅れでさ。もっと素直になればよかったとか、せめてひと言謝りたかったとか、悔やんだところで“戻って”やり直すことはもうできない。もう二度と……逢えないんだ……」
 口をついて出たのは、二度と逢えない『宰子』への懺悔だった。生涯抱きつづけ、詫びつづけるべき“罪”だった。
「もし、あの時……素直になれていれば……何かを変えられたのかな……」
 じっとそそがれている深沈としたまなざしに気づいて、旺太郎ははっとした。
「まあ、その、そ、そういうわけで、君との“契約”は切れたんだ。ずっと前にね」
 あわてて声音を明るいものに変え、話を無理やりうちきる。
「そもそも、これは全部“夢”の話だから。今の君とは何の関係もないし、君が探してた俺との記憶なんて“この世界”にはひとつもないんだ。だから、依頼は受けられない。……ごめんね、へんな話を聞かせて。気にしないで、忘れてよ」
 旺太郎が強いて笑いかけても、宰子は黙りこくっていた。が、おもむろにきり出した。
「も、もうひとつ」
「ん?」
「依頼をもうひとつ、お願いできませんか?」
「……何かな?」
「聞いて欲しいことが、あるんです」
「聞いて欲しいこと?」
 再度オウム返しをした彼に、再度彼女が緊張した面持ちで言った。
「長谷部さんが言っちゃった件」
 平静をよそおえていた旺太郎も一転、顔がひきつった。
「……言っちゃってたな」
 宰子は自分からきり出しておいて、急にそわそわしはじめた。
「そ、それで……えっと……その……つ、つまり……!」
「う、うん……!」
 つられて、旺太郎も一気に落ち着かなくなった。……おいおい、冗談きついぞ、ここであの話題もちだしてくるのかよ?
 彼女から直接「決定的事実」を明かされるのはダメージがでかい──そう判断した彼は、いっそ能天気な調子で、
「知ってる! 聞いた、聞いた! あれだろ、片想い中なんだろ!?」
 と、先手をうった。
 無頓着ぶってあっけらかんと笑ってみせたが、内心ちょっと泣きそうになった。覚悟のうえの先手でこれでは、後手にまわっていたらどれだけの致命傷になったか知れない。
「は、はいっ」
 ぱっと両頬に朱を散らして、彼女は大きくこっくりした。正直なその返事が、子供っぽいその仕草が、ただでさえ不安定になっている彼の情緒をよりかき乱した。……クッソ! 宰子にこんなかわいい顔させる馬の骨野郎、ぶん殴りてえ!
 必死に歯ぎしりをこらえている旺太郎の前で、宰子は数回、呼吸を整えてから、
「すっ、すす、好きなんです!!」
 と、さけんだ。
 旺太郎は、ほとんど無の境地まで感情をころして、
「あ、そう」
 と、返した。
 ……なに堂々と惚気てんだよ。勘弁してくれ。惚れた女の口から別の男が好きだと聞かされるとか、どんな罰ゲームだよ。……大体、おまえな、俺を練習台に使うとはいい度胸してるじゃねえか。……
 自棄っぱちの勢いをつけてソファの背もたれに寄りかかる。
「それはもう聞いたっての! わかったから、その意気で本番もがんばりな」
「……本番?」
 とまどったようすの宰子に、なげやりに片手をふった。
「すごいやさしくて素敵なんでしょ、そいつ。良かったね。告白、うまくいくといいね!」
 しばらくポカンとしていた彼女は、壁を塗るような手つきをすると、
「ううん! ち、ち、違う……そ、そうじゃなくて……『そいつ』じゃなくて……」
 口のなかで小さくゴニョゴニョとつぶやいた。
「あ、あなたのこと、が」
 ────三十秒ほど室内に沈黙がおちた。
「…………なんて?」
 ひとまず、旺太郎は訊き直した。──よく聞きとれなかったんだけど、俺がなんだって? おまえ、あいかわらずボソボソしゃべるよなあ。──
 涙目になった宰子が身体を縮こませた。それはそれは恥ずかしそうに。
「今、め、目の前にいるひと。私が、す、す、好きなのは」
 止まっていた旺太郎の思考が、錆びた歯車に油をさしたみたいにじりじりと噛みあって、のろのろと回りだした。
 今、というのは要するに、この瞬間。
 目の前、というのは要するに、対面の位置。
 この場で、この瞬間、宰子の対面の位置にいる人間。それって────
「えっ、ちょっ、待って待って待って待って!! 俺!?」
 満面真っ赤になった宰子がぶんぶんと首をふった。上下に。
「いやいや、なんで!? どうして!? いつから!?」
「きょ、去年の大晦日から」
「あれだけで!? 嘘だろ!」
「信じてもらえませんか?」
「いや……だって……信じるも信じないも……よりによって……俺?」
「はい」
 明快な真剣な返答にうろたえて、実感する。──冗談でも悪ノリでもない。これはガチだ!
 旺太郎はこめかみをおさえながら、どうにか説得を試みた。
「な、なあ、宰子。それさあ、カン違いだよ。それか、気の迷い。俺を誤解してるんだよ」
「そんなこと、ないです」
「そんなことあるんだって! 見た目にだまされないで。全然やさしくないから。ただのクズだから。と、とにかく、いったん持ち帰ろう、ね? 家帰って、落ち着いて頭冷やして考え直しな」
「嫌です。あなた、言いましたよね。『好きな男ができたら、遠慮しないでガンガン行け』って」
「言ったよ。言ったけど、でもそれは──」
「言われたから、来ました。ここに」
 ……何か、てこでも動かない雰囲気である。旺太郎は恐る恐るたずねた。
「お、俺のせいってこと?」
 宰子は小首をかしげてから、はにかんだ笑みを浮かべた。
「そうかも」
「恋する乙女」と形容せざるを得ないその微笑が自分へ向けられたものだと、はっきり自覚した。自覚して、頭をかかえたくなった。なんてこった……おまえは“こっち”でも男を見る目がなさすぎる……つーか、俺、なんでここまで好かれてんの? ……
「『伝えなきゃ、何も届かない。素直な気持ちを伝えろ』」
 放心状態の旺太郎の鼓膜を、憶えのあるせりふが揺らした。宰子だ。
「長谷部さん、あなたにそうおしえられたって言ってました。おしえられたから、行動することができて、そんな自分を後悔してない、って。そ、それで、私も、後悔しないために行動したくて」
「……」
「は、はじめは、十三年前のお礼とお詫びだけでも伝えられれば、って思ってた。それだけ伝わればいい、って。……でも、“夢”の話を聞いて、気が変わりました。ちゃんと、気持ちを伝えたくなりました」
「……」
「私、あなたが、好きです。だから、もしも私が、あなたのために何かできることがあるなら、力になりたい」
 宰子は告白も、ひと言ひと言を区切るこの独特な口調でするんだな。テンション高い時のあの超早口で攻めるかと思ったけど、いざとなるとこいつ、意外と冷静なんだな。──旺太郎はぼんやりと、そんな些末なことを考えた。へんに客観視しているのは、あまりに意表をつかれてまだ現実感がわかないからか。それとも、ひたと見つめてくる宰子の眼から眼をそらせなくて、身動きもとれなくなったからか。
 佐藤宰子の容姿が美しいのは、もとより知っている。しかしその美しさは、日陰に咲いた花のような、朧をまとった月のような、どこか儚さのあるものだったと記憶している。──が。今、頬を紅潮させ、眼をかがやかせて懸命に想いを告げてきた宰子は、旺太郎の思い出のなかの彼女よりよほどまぶしく、ずっと綺麗だった。
 彼が初めて見る、溌剌として強い意志をみなぎらせたこの姿は、『この世界の宰子』だからこそなのか。それとも、『あの世界の宰子』も本来こうだったのか。知りたくてももはや知るすべはない。“夢”のなかでは、彼女のこんな顔を見られなかった。こんな顔をさせてあげられなかった。それがひどく悔やまれる。
 そして、だからこそ思い知らされる。やはり自分など、とうてい彼女には釣り合わないのだ、と。──
 旺太郎は決意して、居ずまいを正した。たしかに、伝えなければ何も届かない。それなら、やはり、ちゃんと伝えてやるしかない。
 別れを。
「わるいけど、俺は応えられない」
 低音できっぱり断ると、宰子がありありと落胆を見せた。
「やっぱり……め、迷惑ですか?」
 旺太郎はかぶりをふって、
「迷惑なんじゃない。そうじゃない。正直に言えば、君の気持ちはすごく嬉しいよ」
「だ、だったら!」
 一縷の望みを見出してなおも言いつのろうとするのを静かに、だが決然とさえぎる。
「俺じゃないんだ」
 宰子がまばたきをした。
「何が?」
「俺じゃないんだよ。君を幸せにできる相手には条件があってね。そして俺は、それに当てはまらない。絶対に」
「か、勝手なこと言わないでください。私には、そんな条件──」
 気色ばむ彼女を片手で制し、
「聞いて。勝手だろうとなんだろうと、そう決まってるんだ。それに、簡単なもんだよ。誰だってクリアできる。条件はたった一つ、『俺よりマシな男』。これだけだ。──なあ、宰子。そんなヤツ、そこらに掃いて捨てるほど転がってるって。だから、まじめに探せ。ほかで見つけろ。ラクしてテキトーな相手で済ませようとするな」
 つとめて理性的に、まるで兄か父かのごとく諭す。
「…………」
 そのかん、沈黙していた宰子は、やがて深々とうなだれた。華奢な両肩がふるえている。申し訳なさと自己嫌悪とで旺太郎も目を伏せた。……結局、俺はこいつを傷つけてばかりだ。
「本当に、ごめん。でもわかってよ。君には、もっと──」
 慰めようと彼女の肩へ置いた右手が、ピシリと払われた。彼女の右手に。
「テキトーな相手かどうかなんて、そんなことは自分で決める! そんなのじゃないのは、自分が一番よく知ってる! あなたにとやかく言われる筋合いなんてない!」
 突然、宰子に真っ向から怒鳴られてぎょっとした。
「と、とやかくって……」
「誰だって? 掃いて捨てる? ばかにしないで! ほかのひとを代理なんかにしない! そんないいかげんな気持ちじゃない!」
 裂帛の怒声が部屋中にひびく。どうやら、肩のふるえは泣いていたのではなく、はげしい怒りによるものらしい。ここまで激昂した宰子にはめったにお目にかかれるものではない。ひるんでたじろぐ旺太郎を気にもとめず、彼女はすごい剣幕で、
「“夢”の話でよくわかりました! あなたにとって大切なひとは弟の光太くんと私の知らない『宰子』、その二人だけ。一番と二番は永遠に変わらない。たとえ誰が何をどれだけ努力しても三番目にしかなれないんだ、って。だけど──それでもいい! それでいい! そんなことわかったうえで全部受けいれて三番目を目指すから! だから、私は、何が何でもあなたを選びます!」
「宰子……」
 気圧されてさまよった旺太郎の視線が、ダイニングテーブルに置いていた光太のスニーカーへと吸いよせられた。テーブルの端でぽつんと、こちらを見まもっている、白い小さなスニーカーへと。
(──ねえ、そろそろ認めたら? ひとりだけじゃ生きていけない、って)
 遠い記憶の果ての、はるかな海の底から、『プロメテウス』の呼び声がした。
(手を繋いでなかったって、ずうっとおちこんでたんでしょ? だったら、次は、絶対に手を離さないようにすればいいんじゃない?)
(失ってから気持ちに気づいて、ずっと辛かったんでしょう? だったら、今度は、失う前に向きあって伝えてみればいいんじゃない?)
 すぐそばで、光太と『宰子』の舌たらずなあどけない声が聴こえる。二人はかすかな笑いをふくんで、愉しそうにけしかけてくる。
 ……なんだよ、おまえら。いまさらそんなやさしい言葉、おれなんかにかけてくんなよ。頼むから、おれをゆるさないで憎んで、恨んだままでいてよ。散々、嘘つきだって、大嘘つきのクズだって、罵りまくってくれてたのに……。
 対する旺太郎も一瞬、幼い少年に戻りかけて、つい弱音をこぼした。すると、二人にほがらかに笑いとばされた。
(そうだよ。ゆるさないよ。だから──)
(嘘をつくのは、もうこれっきりにしてよ)
 驚きのあまり声も出ない彼を、宰子のひたむきな瞳が見すえた。
「す、好きになってくれなくていいんです。ただ、これからは、辛い時は素直に辛いって言ってください。言ってくれたら、私、駆けつけます。夜中でも、朝でも、お昼でも、いつでも駆けつけます」
『あの世界の宰子』とおなじ顔で、おなじ声で、おなじせりふを『この世界の宰子』が口にした。この状況に、旺太郎は混乱を超えて恐怖すらおぼえてきた。──これはきっと「夢」だ。すげえリアルにだましておいて最後に残酷なオチをつきつける、いつもの「夢」だ。アルコールで鈍った脳みそが現実と錯覚してるだけ。こんな都合のいい話、あるわけない──
 どんなに焦がれる願いでも、どれほど狂おしい祈りでも、叶わないものが世の中にはある。それは一年の歳月をかけて理解していたつもりだった。……それでも。幻覚だ、妄想だ、と否定する二十三歳の旺太郎の内部から、十歳の旺太郎がおさえきれない歓びの声をあげる。
(いっしょにここから出ようよ)
『愛した女』とうり二つの『佐藤宰子』の唇がゆるやかに動いて言葉をつむぐ。
「あなたからの“契約”が切れているなら、あらためて、私から“契約”を提示します」
(あなたが幸せになるまで、何度でもキスする)
 もたらされたのは魂をも揺さぶるほどの、奇蹟とさえ呼べる驚愕。
「……そんな“契約”……そんなのは……」
 そんなのはもう必要ない。そんな“契約”、おまえにとって何の意味もメリットもない。俺の望みにおまえが従う義理なんて、もうどこにもないんだよ。
 ──そう言って、断固として拒まなくては。しかし、のどは意思に反してただあえぐばかり。一音も発せられない。
 彼女の双眸にとらわれ麻痺した彼の耳朶に、『宰子』の澄んだやさしい励ましが鳴る。
(二度も嘘をついてしまった過去は変えられないから。どうしてもその後悔が消えないなら。いつまでも立ち止まって甘ったれてないで、三度目は決して間違えないと誓って前に進みなさいよ。クズならクズらしく、図ぶとく生きてみせてよ。たった一度きりの、“最後の人生”なんでしょう?)
「堂島旺太郎さん」
 と、彼女が微笑んだ。
「私と“契約”してください」


二 ────


「私と“契約”してください」
 好きも嫌いもないどうでもいい人間から一方的に尽くされることを、“契約”という名目で受けいれて欲しい、なんて。
 昂奮した勢いまかせとはいえ、われながら無理のあるばかげた提案だ、と宰子は思った。自身の感情のみを優先して、身勝手な満足だけを得て、相手の心情も重荷もまったくかえりみない最低の発想だ、とも思った。
 だから、その申し出を聞いた途端、旺太郎がそれまでの困惑しきった態度を一変させたのも当然だと考えた。
 ──ところが。
 端整な美貌を怒りで染めて猛然とソファから立ちあがった旺太郎が、次になんと、大粒の涙をぼろぼろこぼしたのを見て、宰子はビックリした。
「ちくしょう! 何なんだよ! いいかげんにしろよ! こんな……こんな風にガキみたいに泣くなんてみっともねえところ……おまえにだけは見せたくなかったのに、めちゃくちゃにしやがって! 全っ部、台無しじゃねえか!」
 バカを言うな、とでも叱られるかと身構えたのだが、想定とはだいぶ異なる方向から責められてあ然とした。そんな彼女に彼はビシッと人差し指をつきつけた。もう片方の手の甲で濡れた頬をぬぐい、癇癪をおこした幼児さながらにわめきたてる。
「ふざけて冗談言ったってキレキレのツッコミが返ってこなきゃ張り合いがねえし! からかうとすぐ怒ってムキになる小生意気な女がいねえと退屈だし! 甘いもん嫌いなのにケーキ屋とか通りかかるとついイチゴのやつガン見してるし! 見たら見たで、こういうの絶対好きだよな買ってやったら喜ぶよなちょっとずつ削ってスゲー時間かけてチマチマ食うんだろなとか、クッソどうでもいいことばっか考えちまうし! この一年、ずっと気にしないふりをしてこれたんだ! ずっと我慢できてたのに、思い出さないようにごまかせてたのに! そしたら、いつか諦めがついて忘れられるかもしれないって……それを……それを……おまえのせいだ! 何もかもおまえのせいだぞ! これまでの苦労を無にしやがって、どうしてくれんだよ!?」
 大声で罵られているうちに、宰子の頭にも血がのぼってきた。支離滅裂かつ意味不明、理不尽かつお門違いの文句だ。完全に八つ当たりだ。もちろん腹もたつし、反撥もわくし……けれど、それ以上に全身を沸騰させるこの感情は?
 ──ちょっと待って? それって、もしかして、もしかすると──
「そ、そ、そんなの、お互いさま! だって、私も──」
 急速にふくらむ、ある予感。痛いくらい強まる、この鼓動。気がつけば席を立って、彼に負けじと自分も声をはりあげていた。
「美味しいご飯を食べた時は向かいの席に坐るひとの姿をつい想像するし! 面白い映画やドラマを観たらそばで笑う声が聞こえないのが寂しくなるし! お店でかわいい雑貨を見つけて買いたくなってもでもナンバーワンをつとめたホストならきっと派手好みで高級志向で私とは趣味があわないんだろうなとか、無駄に悩んじゃったりするし! この一年、そんなどうにもならないことばっかり考えるようになっちゃって、こっちだってすごく苦労してる! この気持ち、何もかもあなたのせいなんだから! どうしてくれるの!?」
 そもそも、報われない想いだと割りきっていた。叶わない恋だと手放していた。けれど、たった今、爆発させてぶつけてきたものが彼の本心だとするならば……可能性はゼロではないのかも?
(もし、あの時……素直になれていれば……何かを変えられたのかな……)
 あんな顔を彼にさせずにすむように、私にできることがあるのかも?
 旺太郎はおなじ熱量で反抗されるとは思いもよらなかったらしく、あっけにとられて、毒気をぬかれたようすで立ちつくしている。宰子は真正面から向きあった。
「迷惑だったら、あきらめます。だけど、もしも、そうじゃないのなら──あなたの隣にいたい。いさせて、もらえませんか?」
 だが、彼は口角を片方だけもちあげた。張りつけたうすい笑みは、猜疑心に満ちて昏い。
「隣にいたい? よく言うぜ。どうせまたきっといなくなるんだろう? それなら最初からいらないんだよ」
 と、吐き捨てた。
「頼むから俺を苦しめるなよ。もう嫌なんだよ、隣にいた人間がいなくなるのは。いなくなって、俺ひとりだけ残されるのは。……これが“罪”を犯した“罰”だと知ってる。わかってる。わかってるから……これ以上は無理なんだ。これ以上背負うのは……耐えられないんだよ……」
 旺太郎の涼やかに整った相貌は十三年前から変わらないながらも、成長した現在の彼は、少年の頃のやわらかい陽性な印象が水商売で身につけたのだろう妖麗な翳によって上書きされて、宰子はどことなく気おくれをしていた。彼がひどく大人びた、謎めいた、住む世界の異なる遠い存在かのように感じていた。
 しかし、今。
 涙をいっぱいにたたえて頼りなげに揺れている、ガラス玉に似た透明な瞳を見て。独りぼっちで途方にくれた幼子を彷彿とさせる、消え入りそうな嘆きを聞いて。はじめて彼に鮮明に、ピタリと、『プロメテウス』の“あの子”の面影がかさなった。
 やっと逢えた。十三年前のクリスマスイヴに見失った、かけがえのない大切なひと。
「“罰”なんかじゃない。約束します。『私』は、もう二度と、いなくならない」
 確たる決意を言葉にのせて、旺太郎の右手を両手で握った。右手はビクッと怯えたような動きで引きかけたが、しっかりとつつんで離さない。
「あと、ひとつ言わせてもらうけど。私、幸せに“してもらう”なんて、嫌」
 茫乎として手をとられたままでいる旺太郎へ、宰子はいたずらっぽくつけ加えた。
「“夢”のなかの私にできたなら、“今”の私だって、誰かに救われるだけじゃなく誰かを救うこともできると思うから」
 ほんのすこし顎をあげて、挑戦的な光を眼に宿して、昂然と向けたその表情。それが、旺太郎の最も好きな『宰子』の表情──まだ互いの名前しか知らなかった頃、“キス”目当ての渾身の壁ドンを歯牙にもかけられず流された旺太郎が初めて『宰子』に惹かれた瞬間の表情──とそっくりだとは、むろん彼女は知らない。
「だから──」
 想いを伝えるために、繋いだ手に力をこめた。──私達は似た者同士だとわかったよね。私達だったらうまくやっていけるわ。──
「二人で幸せを手に入れませんか」
 伝わったかどうか確かめたくて視線をあわせようとした、瞬間。
 旺太郎に両手をふり払われた。


 ふり払われた両手を垂らして、宰子は絶望にうちひしがれた。がっくりと力なくおとしたその両肩が、指の長い大きな手につかまれた。
 次の刹那。上半身がどん、と何かにぶつかった。唐突な衝撃はやや乱暴なものの、痛みまでは感じなかったが、状況がのみこめず混乱して数瞬、頭のなかが真っ白になる。
「俺の負け。降参」
 宰子の耳に、すぐ上から、ふわっとした旺太郎の声が降ってきた。笑うとも泣くともあきれるともおどけるともつかない、ふしぎな声だった。
 ここでようやく、ぶつかった何かが彼の上半身だとわかった。彼に肩をひき寄せられ、強く抱きしめられているのだと理解できた。
「結んでやるよ、その“契約”。ただし、“契約”したからには覚悟しろよ。死んでも破棄なんかさせないからな」
 偉ぶった口ぶりは少々、癪にさわった。けれど宰子の髪に顎を埋めながらのささやきは、傲慢で尊大なせりふとは裏腹にこの上なくやさしく甘くて、宰子は「どこまでひねくれて意地っ張りなひとなんだろう」と可笑しくなった。
 自身の両手が、そうするのが当然であたりまえという風に自然と彼の背にまわる。熱をおびた額を彼の肩におしあてると、ふかい喜びが身体中にあふれて隅々までひたして、それと同時にわずかな後悔も生まれた。……去年の大晦日、どうしてここから逃げてしまったのか。あの夜の自分におしえてあげたい。
 体温も、心音も。現在も、未来も。すべてを共有できるこの腕のなかこそ、十三年の時を経て私が“戻る”べき場所なのだと。──
 やがて、かたい抱擁をといた旺太郎は、目線をおなじ高さにあわせてきた。
「おまえのいない人生は、辛くてたまらなかった。二度と俺を置いていくな。一生、俺のそばにいろ」
 ひくく力強い男性的な声の魅力が、宰子の熱をいっそう高める。まぶしく光る真摯な両眼の魔力が、宰子の胸をより跳ねさせる。まだ“キス”もしていないのに、めまいがするほど動悸がはげしくて呼吸もできない。
「俺は宰子を──」
 言葉がそこで途切れた。
 その先には、確信ともいえる予測がついた。宰子は極度の緊張からぎゅうっと両目をつぶり、告白を待った。
 ……しかし。
「…………?」
 三十秒ほど待ったが、何の進展も変化もない。
 訝しんだ宰子がそろそろと目をあけると、なぜか顔面蒼白になった旺太郎が片掌で鼻口を覆っていた。
「む、無理。気持ち悪い」
「……はぁ!? ど、どういう意味!?」
 かっとなってつめ寄ろうとしたが、旺太郎は、
「そういう意味じゃなくて、酒! 酒飲みすぎたせい! うわ、マジでやべえ、吐きそう!」
 と、悲鳴混じりの情けない弁解をしてバタバタとリビングを駆けていった。隣室へと姿を消し、ほどなくして、トイレと思われるあたりから嘔吐する苦悶の声がもれ聞こえてきた。
 せっかくのムードが何もかもぶち壊しである。私はお酒臭さを我慢してあげてたのに……と、宰子は心底がっかりした。
 このあと旺太郎の体調が治ったところで、この微妙に中途半端な空気では、告白の仕切り直しなど望めないだろう。いや、ひょっとしたら、強がりで意固地であまのじゃくな彼のことだ。気が変わって、また本心を隠してごまかして逃げてしまうかもしれない。
 ──そうなったら、いっそ“タイムリープ”して七日前からやり直してみようか、と思いついた。七日前は十二月二十四日。クリスマスイヴ。あの日から私の気持ちは決まっている。どんなことがあっても迷わない。
 リビングまで聞こえる息も絶え絶えなうめきは、しばらく止みそうにない。あきれて半開きだった宰子の口元が、じわじわとゆるんできた。
「……最低」
 くすくすと、小さかったしのび笑いが段々と高まって、ついにははじけるような快笑となった。──こんなに思いっきり笑うのはいつ以来だろう? ものすごく残念で、だけど、ものすごく嬉しい。
 宰子は目じりににじむ涙をぬぐいつつ、ソファへ坐り直した。すっかり冷めきった甘すぎる紅茶をひと口ふくんで、そして決心した。
 本当に面倒なひと。訊きたいことも知りたいことも山ほどあるけど、今日が無理なら、仕方ない。また逢いに来てあげる。また“契約”をせまってあげる。何度だって“挽回”するチャンスをあげるから──
 いつか必ず、あなたの素直な気持ちを伝えてね。


(助けてあげるから、いっしょにここから出ようよ)
 ずっと隣にいるから、一緒にここから始めようよ。
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