Eden -episode 1-

「Eden」(エデン)は神が最初にアダムとイヴを住まわせた天上の楽園の名前。“神の力”を欲するという罪を犯した二人は、罰として永遠の命を失い、エデンから地上へと追放された。


一 ────


 ──たとえば、の話だよ。
 たとえば、あの船で。光太の手を離さずに俺も海の底へ沈んでいたなら。
 たとえば、あの教会で。宰子を身代わりにせずに俺が刺されていたなら。
 そしたら、おまえらは、ほんのちょっとでも俺を赦してくれたのかな? ──


 不規則な点滅を断末魔のようにくり返す照明。あちこちの扉の隙間から勢いを増して流れこんでくる浸水。耳を聾して鳴りわたる警報音と、不気味な地ひびきにも似た轟音は、さながらパニック映画のBGM。
 遊園地のアトラクションなど比べものにならない迫力で右へ左へ、上へ下へ、と大きく船体を傾かせる大型クルーズ船『プロメテウス』は、もはや乗客の誰の目にも、この船があと一時間ともたずに東京湾へと沈む運命の魔手に捕らわれたと明らかだった。
 若干十歳の少年の旺太郎も、それは避けようのない「現実」だと理解していた。
 ……この船はもうすぐ海に沈むんだ。そしたら、おれは死んじゃうんだ。今日はクリスマスイヴなのに。……明日になったら、このあいだ出たばっかのゲームをサンタからもらえるんだぞ(ほんとはサンタなんかいないってもう知ってるけど、知らないふりしてあげてるんだ)。あのモンスターをゲットして育てて対戦しまくろう、って友達と約束したもんな。いっぱい交換してふたりで図鑑をうめよう、って光太も楽しみにしてたしな。明日はプレゼントで遊んで、ケーキも食べて……ああ、でも、ここで死ぬからぜんぶできなくなっちゃうのか……。
 船倉の硬い床にうずくまり、氷水よりはるかに冷たい海水に腰までつかっていた旺太郎は、すこし色あせた青いフリースの両肩を両手で抱きしめた。思いきり抱きしめても全身のふるえはちっとも止まらない。とりとめのないことだけを考えても現実逃避はうまくいかない。とにかく寒くて怖くてたまらなくて、地獄そのものの状況だった。
 ──けれど。どれほどの地獄であっても、ここから逃げだすわけにはいかなかった。どんなに寒かろうが、怖かろうが、甘んじて受けいれて耐えねばならない義務があった。この義務は旺太郎の背負う責任であり、罰でもあった。
 なぜなら。目の前に、七歳の光太と十歳の宰子が手を繋いで立っているから。
「──だからさ。たとえば、の話だよ。わかってる、ただの甘ったれだって。勝手ぬかしてごめんな。だから──そんな怖い顔でにらむなよ」
 幼い旺太郎のあどけない唇が、くだけた調子で、成人男性のひくい声を出した。ガタガタとはげしくふるえる両肩に爪をたてながら、無言の二人に力なく笑いかけた。
 だが、光太も、宰子も、無表情をピクリともくずさない。ただひたすら、昏くよどんだ四つの冷眼を向けてくるのみ。
 ……『たとえば、の話』って、なんだっけ? 今、俺、なんて言ったんだっけ? すげえ怒らせるようなことだったのかな。……あれか? ゲームで対戦も交換もできなくなったから、それでこいつら腹たててるのか? ……
 体力も気力も限界に近づいてきている。意識が混濁して倒れそうになったが、ぶるぶると頭をふってもち直した。──大丈夫。これは「現実」じゃなくて「夢」だから。
 ふと。二人のぱっちりと大きい、丸いかたちをした瞳が、どことなく印象が似ていると気がついた。まっすぐに自分を射る、憎しみに満ちたその瞳が。
「おまえらって似てるんだな。そうやって手を繋いでると、姉弟みたいに見えるのな。俺なんかよりも、よっぽど。……あの世で仲良くやれてるのか? 二人なら寂しくないか? ……ああ、そうだよな。二人だけで仲良くやれてるし、俺がいなくたってどうってことないし、そもそも、“罰”を受けてる俺はそっちに行くべきじゃ」
「嘘つき」
 半笑いでしゃべっていた途中で鋭くさえぎられて、旺太郎は口をつぐんだ。
「嘘つき。嘘つき」
 光太と宰子の蒼ざめた唇が、まったく同じ動きをする。
「助けてくれなかった。見捨てて逃げた」
「…………そうだよ」
 二人分のかすれた、地を這う低音が、旺太郎を責める。
「幸せにしてくれなかった。不幸にして殺した」
「…………その通り」
 恨み言が肺腑に打ちこまれるたび、激痛で息を吸うのも吐くのも苦しかった。
「全部、知ってるよ。わかってるよ。わかってるから……せめて俺だけでもおまえらの分まで“幸せ”にならなきゃ、ってがんばってきた。じゃなきゃ、生き残った意味が無いって信じて。自分だけ助かったんだから“罰”が辛いのも当然、って受けいれて。けど……もしかしたら……」
 もうそれ以上は言うな、と、心の奥底で誰かが強く制止した。言葉にしたら気づいてしまう、と、見えない脚がブレーキを踏んだ。が、どちらも無視した。
 気づきたくなかった。気づかなければ、前だけを見ていられるから。前だけを見ていれば、ふり返らずにすむから。だけど──ここしばらく、毎夜、光太と宰子に罵られる「夢」の意味は。
「……俺ひとりだけが“幸せ”を目指すこと自体が、間違いだったのかな」
 皮膚をやぶり血がにじむまで爪をくいこませていた肩から、手を離す。小さく白くやわらかいその掌の、朱に染まった十本の指先を眼前にかざす。これは一生逃れることのできない、“罪”の色。──
「まちがいだよ。ゆるさないよ。やっと認めたね、大嘘つきで救いようのないクズだって」
 怨嗟の声はそろって舌たらずだ。正直なところ、仲良くよりそって立つ二人がうらやましい、と思った。たどたどしい罵倒は心魂も凍らせるように痛烈で、それでいてなお、抗えぬほど強烈な誘惑をも感じてぞっとした。
「うん」
 旺太郎は糸に引かれたみたいにこっくりすると、
「反省がたりない、って言いたいんだろ? おまえら、厳しいなあ。これでも普段はさ、バカみたいに格好つけられてんの。クズはクズらしく、ちゃんとふるまえてんの。……でも、俺、意外と弱い人間だったっぽくて……時々……」
 途切れて消えた、半分泣き声とも聞こえた語尾をうけて、光太と宰子が首をかしげた。
「時々、まだ嘘をつくの?」
「…………」
 返答できず唇を噛みしめていたら、さらに質問をかさねてきた。
「ねえ、どうして? どうして、ひとりだけで──」
 無邪気に冷酷に追及してくる二人に対して、はじめて怒りがわいた。……どうして、だって? おまえらがそれを言う? 俺だってな……嘘をつきたくてついてるんじゃない! 本当は“ひとりだけ”なんてうんざりなんだ、おまえらのいるそこに行きたいんだ! けど、それは絶対に赦されないから、だから……!
 声に出せない、出しちゃいけない本音を肚のうちでぶちまけた。──と、いつの間にか胸元まであがってきていた水面が突然、高くなった。一瞬で頭のてっぺんまで海水に沈み、思考が切断される。呼吸ができなくなる。
 引きずりこまれてのみこまれた圧倒的な冷たさと苦しさのなかでも、ほとんど恐怖は感じなかった。すでにあきらめていたからだ。
 これは「現実」じゃなくて「夢」だから。死にたくても死ねない。
 ……意識が底なしの暗闇に閉ざされ、急速に薄れていく。『プロメテウス』の警報はもはや遠く、かすかとなって、旺太郎の耳朶にはかわいらしくも恐ろしい問いかけだけが鳴りつづける。……
(──どうして、ひとりだけで生きていけると思ってるの? ──)
 答えはまだ見つからない。


二 ────


(──どうして──思ってるの? ──)
 不明瞭に問う声が徐々に近づいてきた。と、思ったら急に、声は軽快な電子音へと変わった。
 鼓膜を刺激する高い音色が自分のスマホの着信メロディだと気づいた旺太郎は、枕元に手を這わせた。
「……はい?」
 探りあてたスマホへ、寝ぼけたまま応答した。が、通話に切りかえる前だから返事はない。──いや、そもそも。
 液晶画面に目をおとす。
〈12月31日 AM7:03〉
 待ち受けには、日付と時刻のみ。鳴っているのはこの私用のものではなく、リビング兼応接室のテーブルに置きっぱなしにしていた仕事用の方だった。
「ああ、あっちか」
 リビングでは着信の鳴動がつづいている。『タイムリープする少女が主人公の映画』のテーマ曲に急かされた旺太郎は一つあくびをすると、ベッドから気だるく身体を起こして寝室を出た。
 テーブル上で騒いでいた仕事専用スマホに歩みより、表示を確認する。登録していない電話番号。見憶えもない。……新規の客だろうか?
「うるせえなあ、朝っぱらから。勤務時間外だっつーの」
 ぶつくさとこぼしつつ、通話をタップ。
「はい、『ナイン探偵事務所』ー。浮気調査ですかー?」
 客に対してありえない、いかにも億劫でなげやりな態度で応じた旺太郎の耳を、甲高く活気にあふれた若い女の声がつき刺した。
〈エイトさん? エイトさんだよね。わぁ、寛之の言った通り、ほんとに探偵やってるんだ! カッコイイ~!〉
 元気のいいはしゃぎっぷりで、耳も脳もひっぱたかれた気がした。圧倒されてスマホをちょっと離す。番号には見憶えがないが、このなれなれしさには聞き憶えがあった。
「ひさしぶり、菜緒さん。一年ぶりだね」
 森菜緒。並樹美尊や長谷部寛之の幼なじみで、並樹乗馬倶楽部の部員。陽気で派手好きな、ホストクラブ通いが趣味のセレブ令嬢。
 名のる前に呼びかけられた菜緒が、声をさらに一オクターブ高くさせた。
〈私のこと、憶えてるの!?〉
「もちろん憶えてる。初めて逢った日からずっと、忘れられなくてさ」
 元ホストらしいリップサービスをしてみせると、受話口の向こうで笑いがはじけた。
〈あいかわらず口がうまいんだから。でも嬉しい~〉
 君もあいかわらず根が単純で嬉しいよ、と胎で相づちをうつ。
「ところで、どうしたの? この番号、長谷部が君におしえたのかな?」
 と、たずねると、
〈そうよ。寛之から連絡先を聞いたの。あいつ、エイトさんに仕事を依頼したんですって?〉
「そんなたいしたことじゃないよ。依頼というより、相談にのっただけ」
〈相談……〉
 数秒の沈黙後。すっ、とひと息吸う音がしてから、
〈それ、バイト先の女のひとのこと?〉
 はずんでいた菜緒の口調が妙にかたく、冷たくなっている。無関心をよそおい落ち着いた声音を出している強がりが、顔が見えなくてもはっきり伝わってきた。
「気になる? 相談の内容。──あ、もしかして、それを聞きたくて?」
〈ま、まさか! そ、そんなこと、私、なんにも気になってないし。あいつのことなんて関係ないし〉
 動揺しまくりながら否定してきたのが可笑しくて、旺太郎は吹きだしそうになるのをこらえた。
「本当に? 長谷部は関係ない?」
〈本当に!〉
「良かった。僕と話したくて電話をくれたんだと思って、すごく嬉しかったから。菜緒さんの目当てがもしも長谷部の方だったら、って嫉妬しちゃった」
〈だーかーら、違うってば! 寛之はどうでもいいの! エイトさんに用があってかけてるの!〉
 赤面した半泣きの菜緒がありありと想像できて、さすがの彼もからかうのはそこまでにした。
 スピーカー機能にしたスマホをテーブルへと戻すと、リビングの暖房のスイッチをいれた。それから、冷蔵庫をあけてミネラルウォーターのペットボトルをとり出し、キャップをひねる。
「僕に用? どんな?」
 訊いてはみたものの、内心、なんとなく予感はしていた。ペットボトルに口をつけ、よく冷えた中身をのどに流しこみながら、ある程度の予想はしていた。
〈依頼よ。探偵さんに仕事の依頼〉
 予感も予想もしていたとはいえ、実際に的中するとやはり驚く。愉しげなひびきをおびた返答がスピーカーから放たれて、あやうくむせるところだった。
 ──旺太郎はこの一年間、並樹グループの関係者達とは、住む世界も歩む道もまったく異なる人間として生きてきた。彼らの人生と自分の人生とは、一切かかわりのないものとして日々を過ごしてきた。二度と彼らに踏みこまぬよう心を律して、虚しくも静かで寂しくも平穏な一年の時を経てきたのだ。
 にもかかわらず。
 今また、目の前に現れた彼らの方から自分に踏みこんでくるのはどうしてだろう。──まるで、それぞれの運命がふたたびひき合うかのごとく。
「今度は君か。……わるいけど、今日は大晦日だよ。事務所は年末年始休業で」
 旺太郎がやや湿っぽくなった声で断りかけると、
〈報酬は奮発するから! 言い値で構わないから! お願い、エイトさん!〉
 途中で強引にかぶせられた。必死に駄々をこねる子供めいたいじらしさを相手におぼえて、拒否のつづきをのみこんだ。
 できれば遠ざけたままでいたかったが、彼女から近づいて来られては仕方ない。彼女にこんなにすがられ、泣きつかれてはかなわない。ほがらかに屈託なく笑う菜緒を思い出して、旺太郎は白旗をあげた。
「わかった。とりあえず、打ち合わせをさせて。場所はこっちで決めていいかな? 新宿駅の近くにいい感じのカフェがあってね。あと、僕からもお願いなんだけど、今は『エイト』じゃなくて──」


 午前十一時。
 新宿歌舞伎町からほど近い交差点に店をかまえる、街の猥雑なイメージとはそぐわない瀟洒なたたずまいの喫茶店『ヘルメス』。
 都内有数の繁華街にあって、ランチタイムも間近だというのに、知る人ぞ知る隠れ家的なここには客はまだ二人だけ。店内の時間が普通よりもゆったりと流れているような錯覚は、香ばしいコーヒーの香りとやわらかなクラシックの相乗効果だろうか。
 その『ヘルメス』最奥のボックス席で、私立探偵の堂島旺太郎は四時間前に依頼人となった女性と向かいあっていた。
 依頼人は、森菜緒。ほどよい明るさに染めた髪を高い位置でふんわりとお団子ヘアにまとめ、この冬流行りのレトロなチェック柄ワンピースにベージュのカーディガンを品よく合わせたお嬢様スタイルは、女性ファッション誌の表紙もかくやという完成度である。
 去年のクリスマスイヴに旺太郎が出逢った三人の女性はみな美しく、また、三人ともに違った印象をもっていた。それぞれをたとえるなら、佐藤宰子は日陰でひそやかに一輪咲きゆれる楚々たる百合。並樹美尊は華やかさと気高さを凛然とまとった大輪の薔薇。そしてこの菜緒は、太陽よりも健康的にかがやく愛らしい向日葵を思わせた。
 ──ところが。対面に坐った今日の彼女は愛らしさはそのままながら、向日葵とは正反対に暗澹とした、この世の終わりと言わんばかりの表情をしていた。
「ねえ、旺太郎さん。助けてよ……」
 ほそぼそと弱りきった声で頼られて、旺太郎も難しい顔をして腕を組んだ。
「お見合い、かぁ」
 重たくつぶやいたが、どこか他人事で深刻さが足りない。聞いて、菜緒がテーブルに両手をついて身をのり出してきた。
「ただのお見合いじゃないの! ぶっちゃけ、政略結婚! 時代劇じゃあるまいし、この現代にだよ。信じられる? 美尊と尊氏さんが婚約してからパパが対抗意識燃やしちゃって、もう最悪。私の意見はひとつも聞かないで勝手に決めて、無理やり進めてさ。ひどい話でしょ!?」
 一気にまくしたてると、ソファへ乱暴に坐り直した。卓上のカフェオレのカップをつかんで、ヤケ酒をあおるみたいに傾けた。
「まあまあ。落ち着いて。菜緒さんの気持ちはよくわかったから」
 全身の毛を逆立てて怒る猫のような菜緒をなだめて、旺太郎もブラックのカップを口に運んだ。マスターこだわりの豆から挽いたコーヒーは今日もすこぶる美味だったが、じっくり味わえる空気ではなさそうだ。
「それで、どうしても一回は逢わなきゃいけなくて……けど、もし相手がすっごくヤバイひとだったら、いくらパパでも怒って破談にすると思うんだ」
「ヤバイって、たとえば?」
「ほら、汚職とか。隠し子とか。クスリとか」
 えげつない例をさらりと挙げる菜緒。小さくはないその声が、自分達しか会話する者のいない静かな店内にひびき渡った気がして、旺太郎はカウンター奥のキッチンの方へふり返った。キッチンの中でグラスを拭く手を止めてこちらを見つめていたマスターと、一瞬、目があった。
 痩せぎすで背が高く、白髪まじりの髪をオールバックに流した「ロマンスグレーの見本」と呼びたいマスターは、動揺のかけらもない柔和な表情のまま視線をおとすと作業を再開させた。
 ほっと息をつき、正面に向き直る。
「結構、過激なんだね。それとも、セレブの世界ではそういうのって常識?」
「常識かどうかは人によるけど、めずらしくはないね」
「へ、へえ……」
 彼女の依頼は、つまるところ、父親から強要された見合いの相手の身辺調査だった。──いや、調査というのは名目で本当の狙いは、その男についてのスキャンダルの特定と暴露だった。
「で、相手はどこの御曹司?」
 旺太郎が訊くと、菜緒は食傷気味といった口ぶりで、
「天照銀行頭取の息子」
「凄っ」
「東大経済学部を主席卒業の二十五歳。法人営業部エース。眉目秀麗、品行方正、将来有望。ついでに初婚」
「二十年後はメガバンク一位の頭取夫人、確定じゃない。そこまでパーフェクトな白馬の王子様のどこが不満なの?」
 頬杖をついた旺太郎に軽蔑をこめた眼を投げて、菜緒はかわいく鼻を鳴らした。
「お手本通りのエリートじゃん。漂白剤みたいに真っ白じゃん。退屈で味気なくてつまんない」
 一般的な庶民の女性からすれば夢のまた夢、のどから手が出る完璧な結婚相手を、菜緒は「つまらない」ときり捨てた。望むものすべてを与えられ、生まれながらの勝ち組を約束された人間とはここまで傲慢になれるのか……と、与えられるものより奪われるものの方が多い人生をおくってきた旺太郎の胸に黒い靄がひろがった。
「私のパパって、筋金入りのワンマンなの。自分が決めたことは絶対なの。周りが何を言っても聞かなくて、とことん自分本位で突っ走っちゃって……パパの命令に逆らうなんて……」
 悄然とため息をこぼしたわがままお嬢様からは、しかし、セレブにはセレブなりの庶民にはうかがい知れない苦悩があると察せられた。旺太郎は胸中の不快な靄から意識をそらしながら、
「なるほどね。縁談のご破算にはそれなりのネタが必要、ってわけか。──そいつ、何か問題を抱えてそう?」
 問うと、彼女は肩をすくめた。
「ううん。漂白剤だって言ったでしょ。清潔そのものよ。うちのお抱えの興信所を使って探ってみたけど、どれだけたたいても埃ひとつ出なかったわ」
「……それって、あらためて僕が調査する意味ある?」
「だから、ね。──」
 菜緒の唇がニンマリと弓なりになった。
「調査っていうか、依頼したいのは正しくは──捏造」
 ひと言で、すぐに腑におちた。──ああ、そっち系ね。
「噂レベルでもいいから、パパがドン引きするような悪評をそれらしく整えて欲しいの。特に女性絡みのを。なんていうんだっけ? ハニー……」
「ハニートラップ」
「それよ! 旺太郎さん、そういうの得意そうだし。簡単に捏造できるんじゃない?」
 単に事実をつまびらかにする正攻法よりも彼が得意とする、邪道で姑息な搦め手だ。菜緒の期待通りに朝飯前。本音をいえば、言い値で稼がせてもらうには最適の依頼だった。
 だが──。
「私、まだ二十二だよ? 全然、遊び足りない。面白いことも愉しいことも、まだまだいっぱいあるのに。親の都合で結婚させられて、制限されて縛られて我慢するだけの人生なんて、冗談じゃない。……」
 吐露する口調は沈んで、反抗的なせりふとは裏腹にふかいあきらめをふくんでいる。旺太郎はひとまず、受諾を保留した。
「それに……美尊もあんなこと言うから、余計に……」
「あんなこと? あんなことって、何?」
 口ごもる菜緒をうながした。すると彼女は、親を探す迷子のようなまなざしを見せた。
「見つけたんだって。“本当の愛”を」
 “本当の愛”。その単語が胸を貫いた衝撃は、鋭い錐で突かれたのか、まばゆい陽光が射したのか、旺太郎にはどちらとも判別がつかなかった。
「本当の……愛」
 思わず、あえぎに近いつぶやきがもれた。が、菜緒は気づかずに、
「そんなの、夢みたいな話だって思ってた。小さい頃に読んだ絵本の中だけの話だって。──でも、美尊、心から幸せそうに笑って言ったのよ。『すぐそばにあった“本当の愛”に、やっと気づくことができた』って」
「…………」
「正直に言うとね、私、あの子がうらやましくてたまらないの。子供の時から一緒に育って……おなじ経験をしてきたのに……美尊が手に入れたものが何なのか、私にはわからない。わからないまま、結婚しなくちゃいけない」
「菜緒さん」
 べそをかいた迷子そのものの声をさえぎった。何ら思惑も計算もなく、言葉が自然に旺太郎の口をついて出た。
「“本当の愛”ってさ、めちゃくちゃ大げさで特別なものみたいに聞こえるけど。実際は、なんてことない、ありふれた日常の積み重ねのことだと僕は思うよ」
「日常の積み重ね?」
 小首をかしげた菜緒に、やさしくうなずいてみせる。
「すぐそばにあるのがあたりまえで、いつでも隣にいるから安心して、そんな毎日が普通になって気づかない。……だけど、失って初めてわかるんだ。何よりも誰よりも大切な、かけがえのない存在だったことに」
「あたりまえ……普通……でもあいつは、あいつは……」
『あいつ』を連想したのは間違いなさそうだ。うつむいてしまった姿を見て、旺太郎は直感した。菜緒は嘘をついている、と。
 わからないのではない。自身の内部にひょっとしたら“本当の愛”かもしれないものが育っていることを、この子は薄々感づいている。ただ、まだあいまいで不確かなかたちをしたそれを、はっきり認識してしまうのが怖いだけなのだろう。
 ──かつての自分とよく似ている。似ているからこそ、共感できる。──
「ねえ、菜緒さん。君の人生は、君が決めていいんだ。もっと素直に生きていいんだよ。本当はもうわかってるよね。君にも、失いたくない存在がいるって」
 はじかれたように菜緒が顔をあげた。
「わざわざ僕を経由しないで、直接訊いてみればいい。『片想いしてた先輩とはどうなったの?』って。『私のお見合いをあんたはどう思う?』って」
「……誰の話をしてるのよ。あなた、何が言いたいの?」
 険しい眼でにらみつけられたが、構わずたたみかける。
「あれ? 名前を出さなきゃだめ? 思い当たるヤツ、一人しかいないのに」
 菜緒はしばらく黙っていた。……が、やがて観念したらしく、
「……だって、あいつが『社会勉強したい』ってアルバイトを始めてから、なんていうか、距離ができちゃって。昔から美尊と私にべったりくっついて離れなくて、どこにでもついて来てたくせに……だから私も、頼りない弟みたいなものだと思って、いろいろ面倒みてあげてたのに……。でも、なんだか最近よそよそしいの。遊びに誘っても仕事で忙しいって断ってばっかりだし、乗馬倶楽部の副部長も辞めてほとんど顔を出さなくなって。そのうえ……」
 訥々とうち明けていた語調に、ふいに棘が生えた。
「今まで、ほかの子には目もくれないで、ストーカーかってくらい美尊だけに一途だったんだよ。それが美尊が婚約した途端、バイト先の女性に鞍替えするとか……そんな軽薄なヤツだったんだ、ってあきれちゃった」
「ひとを好きになるのに、時期も順番もない。二十二歳の男として健全だよ。今までが異常だっただけ」
「そうかもしれないけど。でもむかつく」
 旺太郎のフォローを一蹴して頬をふくらませる。これは典型的な、こじらせた独占欲だろう。わが身にもおぼえがあるから、微笑ましいやらくすぐったいやら少々複雑な気分になった。
「菜緒さんが窮屈な柵に囲われて息苦しさを感じてるのは、理解できるよ。ただ、その柵って、君を囲うだけじゃなくて護ってくれてもいると思うんだ。それをとび越えるのは勇気がいる。中の世界が安全なら、なおさらだ。誰にでもできることじゃない。──けど、あいつは自分から進んでとび越えてみせた。柵の外の世界に踏みだしたあいつの勇気を、僕は、実は尊敬してる」
「勇気……」
「君が思ってるより、あいつはずっと大人だよ。僕も先週、ひさびさに逢ったけど、去年とは見違えるくらい成長してた。外見じゃなくて中身がね。認めなよ、頼りない弟なんかじゃなくなってるってこと」
「う……」
 ゆれた菜緒の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「あいつは必ず、もっともっと広い世界へ駆けていく。うかうかしてたら追いつけなくなるよ。見失う前に、君も勇気を出して柵を越えてごらん」
「……私にできるかな」
「もちろん。できるさ。美尊さんが見つけたものも、きっと、その先にある」
「それって──“本当の愛”?」
「かもね」
 ここまで励ましても、まだ逡巡している瞳。旺太郎はとっておきのエールをおくった。
「前に進めば、未来を変えられる。君なら変えられる」
 菜緒の双眸にみるみる涙が盛りあがった。天井のシーリングライトの光がその潤みに反射して、きらめいた。
「これ、僕の座右の銘。信じるか信じないかは君次第だけど、わるい気はしないでしょ?」
「旺太郎さん……」
 ふたたびうつむいた菜緒に悟られぬよう、マナーモードにしたスマホをテーブルの下でこっそり操作する。メッセージアプリをひらき、親指をすばやく動かして入力をつづける。一分か、二分か、時間が経過した。
 ──と。菜緒が何度もまばたきをしてから、すっきりと晴れやかな笑顔をあげた。
「たしかに、そうだよね。自分の人生だもん、自分で変えなきゃ。私、もう一度パパと話し合ってみる!」
 スマホをひざに伏せ、旺太郎も明るく応じた。
「エリート銀行員を破滅させる計画は、思いとどまってくれたんだね」
「うん。さっきの話はナシで。へんな依頼もちかけちゃって、本当にごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げると、彼女は笑顔をやけに色っぽいものに変えた。
「だけど、意外。旺太郎さんがこんなに親身になってくれるひとだなんて思わなかった。もちろん、ホストの頃もやさしくて格好よかったわよ。でも、誠実な感じで大人っぽくて──今のあなたの方が断然、素敵。ちょっとドキドキしちゃった」
「あ、ありがとう」
 不意うちの媚笑に目を奪われ、たじろぐ旺太郎。思わぬ波をうつ心を咳ばらいでごまかして、
「菜緒さんこそ。一年前から綺麗だったけど、再会したらますます魅力的になってて驚いたよ。こんなに素敵な女性をほかの男に譲るの、悔しいな。僕がこのまま、どこか遠くへさらって行こうかな」
 お返しに贈ったナンバーワンホスト時代の切り札のキメ顔は、いまだ威力健在だった。菜緒が組んだ両手を胸にあてて身をよじった。
「いい! イケメンはどんなクサイせりふ言ってもカッコイイ~! やっぱり私、あいつなんかやめてこっちに乗りかえちゃおうかな?」
 ひざの上で小さい振動がした。画面にちらっと視線をはしらせて口元をわずかにゆるめた旺太郎に、彼女はふと、
「それにしても……あなたって、私達のことをすごくよく知ってるのね。どうしてそんなに詳しいの? 去年たまたま、ほんのちょっと逢っただけなのに」
 ふしぎそうに、むしろ不審そうにたずねてきた。動揺した旺太郎は手をすべらせかけた。
「ど、どうしてって……それは、えぇと……」
 にぎり直したスマホをポケットにつっこむ。逃げ道を探して周囲を見まわすと、天然木の壁にかかる大きなアンティークの振り子時計に目がとまった。十一時三十七分。
「……あ! そういえば、このあと別の依頼人と待ち合わせしてたんだった! 申しわけないけど、これで失礼するよ」
 傍らに置いていたライダースジャケットをつかんで、あたふたと席を立った。
「え、もう? せっかく逢えたんだし、食事くらいつきあってくれても……」
 あからさまな不満顔に、上着を羽織りながら片手拝みをする。
「ほんと、ごめんね。代わりといったらあれだけど、君のランチにつきあう相手、呼んであるから。もうすぐここに来るから」
「誰?」
「長谷部」
「…………ええぇぇ~!?」
 もとから大きい眼をさらに大きく見ひらいて固まった菜緒へ、旺太郎はウインクをした。
「しっかり向きあって、素直な気持ちを伝えてみなよ。健闘を祈ってる」
 と、歩き去ろうとしたが、
「ま、ま、待って、旺太郎さん!」
 狼狽きわまった呼びかけを背中に受けて、ふり返る。
「あ、そうだ。今回の相談料は、ここのコーヒー代だけでいいからね。──菜緒さんもお腹すいたでしょ。好きなもの、めいっぱい食べときなよ。腹が減っては戦はできぬ、っていうしさ。全部まとめて長谷部に払わせればいい」
 ひらひらと片手をふり、足早に店の出入り口へと向かった。
 カウンターを通りすぎざまにキッチン内のマスターに目配せすると、心得た風の微笑が返ってきた。冷静で、干渉せず距離を保ち、けれど無愛想ではなく親しみも示してくれる人柄に感謝する。やはり、いい店だ。
「……もう! いいわ。こ、こうなったら、やってやる! ──すみません、カフェオレおかわりとランチのAセット!!」
 背後で、勇気が出たというよりひらき直った甲高いさけびがあがった。
 ──なんだよ、相性バッチリじゃん。これなら心配いらないな。
 旺太郎は肩をふるわせて笑いを噛みころしながら、ぶ厚い木製ドアを押しあけて『ヘルメス』を後にした。


三 ────


 今年最後の日を迎えた新宿の街は、普段に倍する騒がしさとせわしなさに満ちている。風は冷たいが、晴天の抜けるような青さも街の色彩あふれる活気も眼にまぶしくて、雑踏にもどこか浮かれた雰囲気の明るい表情が多い。
 旺太郎はスマホの画面をながめながら、乱雑に行き交う人々のあいだを縫うように歩いていく。マナーの悪さはいうまでもなく、しかしこの人混みのなかで目線を下げたまま、誰にもぶつかることなく進める器用さは驚きに値する。
 手元の画面は、ひらきっぱなしのメッセージアプリ。左右交互に、フキダシで囲まれた文字列がいくつか表示されていた。ついさっきの長谷部寛之とのやり取りだ。
〈今日の昼休憩って12時から?〉
〈そうだけど〉
〈休憩に入ったら5秒でヘルメスまで来い〉
〈断る 指図するな〉
〈菜緒さんが待ってる 彼女から大事な話がある〉
〈なんで菜緒が? 説明しろ〉
〈いいから来い 来なかったら一生後悔するぞ〉
 左下に三個ならんだ、激怒している顔の絵文字。さらにその真下に、『なる早』のフォントを背景に敬礼する柴犬のデフォルメキャラクターのスタンプ。
「……ったく、面倒くせえ。あの野郎、“こっち”でも世話焼かせやがって。やっぱ先週、料金ふっかけてカモにしとくんだった」
 小さく毒を吐いた唇の端は、だが、やわらかくほころんでいる。この先の展開が見ものだ、実に興味ぶかい、こっそり戻ってのぞいてみたい、と回れ右したがる脚を意志の力で前へと運んだ。
「ま、仕方ない。美尊さんとの約束だしな」
 背中は押してやった。ただし、力を貸すのはここまでだ。どんな結末になろうとも、あの二人の未来は、二人が自らの手できり拓いていくものだから。
(“戻る”なら、これだけは約束して)
 “あの日”の並樹美尊の哀憐な姿は今も、瞼と胸に刻まれている。すべてを知った彼女にとって旺太郎は、憎悪と侮蔑をぶつける対象でしかなかったはずだ。なのに彼女は、そうしなかった。彼が犯した罪を涙とともに流して赦して、そのうえ、宰子を助けたいという独善さえも後押ししてくれた。
(今度は自分の欲のためじゃなく、周りのひと達を幸せにして)
 美尊に託されたこの願いは、“最後の人生”を生きるための道しるべだ。──
 信号が点滅しはじめた横断歩道を小走りに渡り終え、なんの気なしに、液晶画面を下へスワイプした。〈12月25日〉付でまとまった文字列の往復があらわれた。
 長谷部が送ってきた、『K.O』のフォントを背景に床にへたばっている丸っこい柴犬のスタンプ。つづけて、
〈世話になった〉
 旺太郎の返信は、
〈お疲れ 新しい女紹介してやろうか?〉
 これに対する返しが謎だった。
〈いらない あとそれはこっちの台詞〉
 意味がわからなくて、しかもニヤけた柴犬がこちらを指さしているスタンプまでつけ加えられているのが不快で、旺太郎はあらためて首をひねった。「こっちの台詞」とはどういう意味だ。長谷部に憐れまれるほど俺は落ちぶれちゃいねえぞ。……
 ふいの木枯らしの冷たさで、背すじにふるえがはしった。スマホをしまい、ライダースジャケットの襟をかき合わせる。天気はいいが、今日の新宿の寒さは、あてもなくぶらぶらとさまようにはやや厳しい。彼を待つ別の依頼人など、もちろんいなかった。
「……帰るか」
 事務所は年末年始休業。と、いきたいところだが、連休を満喫するには財布の中身はだいぶ頼りない。ミヤコ(元エントリーナンバー・18)か、スミレ(同・19)にでも営業をかけてみようか、と思いたった。あの二人は、ホストから探偵に転職した現在も変わらず贔屓にしてくれている上客だ。
 歩道の脇で脚を止めて悩んでいた時、後ろから肩をトントンとたたかれた。
「はい?」
 ふり向くと、驚くほど至近距離に、ギターケースをかついだ若い男の上目遣いがあった。しかも瞳をやたらキラキラさせて、両こぶしをかわいく顎にあてて。
「旺ちゃん見っけ」
「うぜえ」
 旺太郎は心の底からウンザリした。


 駅前で偶然逢った春海一徳と、なんとなく、どちらともなく連れ立って、曙橋のガード下までやって来た。
 春海に逢うのはひさしぶりだ。“今回の”一月三日にタイムリープの礼を伝えて以降、おなじ境遇の人間としてのよしみで何度かこのガード下をのぞいてはみたが、壁際に設けた段ボール製の春海の寝床には主はいつも不在だった。──かと思えば、たまたま通りかかった街角に、何食わぬ顔で坐りこみギターをつま弾いている姿を見かけた日も幾度かあったが。
 異国の民族衣装風の奇抜な(良くいえば独特の稀有なセンスを発揮している、悪くいえばホームレスを連想させて少々みすぼらしい)服装で際立つ美形を覆い隠したこの男は、あいもかわらず神出鬼没で、いつまで経っても正体不明だ。
 ここは普段、界隈のホームレス達のたまり場となっているのだが、今日は一人も見あたらない。宿無しの彼らにさえ大晦日ともなれば帰る場所と待つ相手がいるのだろうか、と考えて、旺太郎はすこしだけうらやましくなった。
 粗末な寝床の真向かいの、道路と駐輪場とを区切るフェンスの前が、春海との定位置である。ところどころ赤茶けたスチールフェンスに二人そろって寄りかかり、しゃがみこむなり、
「寒ぃー……。なあ、温かいもの、おごって」
 臆面もなくねだってきた右掌をはたいた。
「たかってばっかじゃねえか、この貧乏人が。──しるこでいいのか?」
 ぶすっとしながらもおとなしく財布をとり出すのだから、この一年で旺太郎の性格もかなり角がとれている。春海が白い歯を見せた。
「わぁ~、ちゃんと好みを憶えてくれてたなんて感激ぃ~。おまえ、実は俺のこと大好きでしょ。愛してるでしょ」
 旺太郎は半眼でにらんで、
「大嫌いだし、憎んでる」
「素直じゃないなあ。そんなひどいこと言う口には、またキスしちゃうぞ」
「殺していい? 今すぐ殺していい?」
 こぶしを握りしめたら、標的はすぐさまぱっと離れた。安全な距離で、なおもニヤニヤとゆるんだ笑いをはりつかせているのが癇にさわる。
 罵倒を追加しようと口をひらくよりも先に、春海がつぶやいた。──独り言というにははっきりと。会話というにはさりげなく。
「すぐムキになるんだから。誰かさんじゃないけど、そういうトコが面白くてかわいいよなー」
(──からかうとすぐムキになるんだよ──反応が面白くてね──ま、そういうトコが──ちょっとかわいいかな──)
 一瞬、脳裡をかすめた、遠いいつかの記憶。
 虚をつかれた旺太郎に、相手は持ち前のひと懐っこくてつかみどころがなくてどこか毒々しい笑みを濃くした。
「早くおしるこ買ってきてよ。寒くて凍死しちゃう」
「……死ねばいいのに」
 吐き捨てて、すぐ近くの自動販売機でしるこ缶を一本買い、戻って手渡す。「受けとった」というより「奪いとった」と表現したいスピードの春海の動作にはあ然としたが、彼の奇矯は今にはじまったことではないからいちいち目くじらをたててもキリがない、と流した。
「サンキュー! これで生き返れるわ」
「死んでればいいのに」
 戦利品に頬ずりをした春海は突然、「……あ!」とすっとんきょうな声をあげた。
「どうした? おい?」
 旺太郎の問いを無視して寝床へ歩み寄ると、くしゃくしゃにまとめて重ねた毛布をかきわけ、ひっぺ返して、奥から一冊の雑誌を探しあててきた。
「これ、やるよ。おしるこのお礼」
 強引に押しつけられたのは、センセーショナルな飛ばし記事で知られるゴシップ専門の写真週刊誌だった。
「遠慮しなくていいよ。どうせ拾いものだし」
「……普通、ゴミをお礼に渡すか?」
「ただのゴミじゃありませーん。リサイクルでーす」
 なぜか誇らかに胸をはる神経が理解できない。旺太郎は仏頂面で週刊誌を手にとった。何気なく表紙を見やった不機嫌な両眼が、ふと、ひろがった。
『世紀のビッグカップル誕生!!並樹グループの未来を担う、運命で結ばれた二人の愛の軌跡』
 表紙全体に隙間もなく、大仰な煽り文が何条もおどっている。そのなかでも、もっとも大きい活字でひときわ目立つ箇所を飾った一文だけをじっと見つめていたら、声をかけられた。
「何? 美人の社長令嬢に未練たらたら? フラれたのに」
「いや、フラれてねえし。むしろ逆だし」
 きっぱり訂正したのだが、
「強がっちゃって! まあね、元ナンバーワンからしたらショックだったと思うけど、失恋の一つや二つは誰にだってあるよ。そう落ちこむな。いつかきっと、おまえにも“運命の相手”が見つかるから」
「勝手に失恋させんな」
 一人合点にうんうんとうなずいて慰めてきた。ちっとも話を聞いていない。
 ……しかし。
「“運命の相手”。そうか、そうだよな……」
 ぽつり、とこぼれ落ちたひくい声──。どこへともなく向けた遠い眼──。旺太郎にあらわれた変化を見て、マイペースな春海もややあわてた顔をした。
「ちょ、ちょっと、落ちこまないでってば! そんな絶望しなくても世界の半分は女なんだから、おまえの相手も絶対どっかにいるって! 保証はしないけど」
「そんなんじゃなくて。……俺が余計なことをしたばっかりに、ずいぶん遠回りさせちゃったな、と思っただけだ」
「うん?」
 怪訝な相づちへ、自嘲のため息を返す。
「美尊さんと尊氏は、最初からこうなる運命だったんだ。俺さえかかわらなければ、“あの世界”の二人もこうなるはずだったんだ。なのに、全部、俺がめちゃくちゃにした」
「……」
「何もかもぶち壊して、放りだして、置き去りにしておいて……俺、“この世界”の美尊さんに言ったんだ。『今度こそ幸せになって』ってさ。本心からそう祈ってたんだけど、身勝手もここまでくると最低だよな。あんなに迷惑かけて傷つけて、人生を狂わせた彼女に、ただ祈ってやるだけなんて」
「……」
「でも彼女はこうして、自分の脚で人生を歩いて進むことができたんだ。俺なんかがかかわらなくたって、手助けしなくたって、自分の意志で未来を変えられた。護られるだけのひ弱なお嬢様じゃなかった。本当はこんなに強い女性ひとだったんだって、今頃わかったよ」
 ふかい感嘆をこめた述懐に、春海はめずらしく悪ふざけもせず神妙に耳をかたむけていた。
 ……が、すぐに我慢の限界に達したようだ。
「どした、どしたー? やけに謙虚じゃないの、おまえらしくもない。頭でも打った?」
 わざとらしくまばたきを連発してから、ひじで小突いてきた。
「ちゃかすな。こっちはまじめに話してんのに」
 やっぱりこいつはシリアスな空気を読めない──いや、読めるだろうに読もうとしない──よな、と脱力する旺太郎。すると、ふいに春海がぐっと身体を寄せた。
「もっと自信もてよ。案外、手助けしてないこともないと思うぜ」
 顔つきも、口ぶりも。つい今しがたまでのにやついたものとは一変していた。
「“タイムリープ”を赦してもらうために約束をしたんだろ。“戻って”から、その約束を律儀に果たしたんだろ。おまえの無欲の言葉と行動に影響されて、周りの連中は前を向いて生きられるようになったのかもよ。だから、“この世界”の彼女を強いと感じたのなら、彼女もおまえのおかげで変わることができた一人なんだよ」
 からかっていない。小馬鹿にもしていない。すぐそばからおなじ高さでのぞきこんでくる大きな双眸は真剣で、なおかつどこまでも底深く黒かったが、旺太郎にはその深淵の奥に隠しきれない羨望の色が潜んでいるように感じられた。
(高校の時、生死の境をさまよったことがある。一家心中で。……まあ、よくある話だよ。借金を返せなくなった親父が、何を血迷ったか家に火を点けて、お袋と姉ちゃんは親父もろとも焼け死んでさ。……)
 ありふれたニュースにありふれた感想を述べただけ。どこか遠くの、見ず知らずの家族の話。そんな錯覚をおぼえたくらい冷静な、ワイドショーのコメンテーターよりも無表情だった告白を思いだした。
(そばにいるだけで、本当、幸せだったな)
 大切なひとを目の前で喪い、一人だけ生き残った罪の意識。罪を直視するのに疲れ果てて、生きる意味すらわからないまま息をしている虚無。自分とおなじものを春海が抱えていると気づいた刹那、旺太郎は強い共感と親近感をおぼえた。
 と、同時に、当然の疑念もわきあがる。……待てよ。こいつには去年の大晦日のことをくわしく説明していないはずだぞ……?
「春海。おまえ、どこまで知って──」
「いやぁ、なんにしても、めでたいね! 年越しついでに、“この世界”の二人の幸せな未来を願って祝杯でもあげてやりなよ!」
 問いは途中で明るくはぐらかされた。肩すかしをくって、旺太郎は苦笑した。
「ついでって、おい」
「旺太郎も立派な“関係者”の一人でしょ。ま、向こうはそうは思ってないだろうけど」
 無邪気にニコニコする相手につられたおかげで、
「……幸せな未来、か」
 苦笑が朗笑になった。
「それもいいかもな」
 春海が大仰にしるこ缶のプルタブをあけた。ビールジョッキよろしく高々とかかげて、陽気にさけんだ。
「ハッピーニューイヤー!!」
「いや、まだ早ぇし」
「細かいことはいいんだよ! おめでたい日は飲むに限る!」
 酒の匂いはしないのに泥酔しているとしか思えない、ハイテンションな大声に辟易する。旺太郎は眉間にしわをよせると、
「うるさい。いいかげんにしろ。アル中か、それとも非合法の何かキメてんのか」
「人聞き悪いな。俺は善良な真人間だよ、おまえと違って」
「上等だ。ケンカ売ってんなら買ってやる」
「ほらまたムキになる~。旺ちゃんかわいい~」
「気安く呼ぶな!」
 丸めた週刊誌で、派手な柄の変わったデザインのニット帽をかぶった頭を叩こうとした。が、殺気を読んだ頭に惜しいところで逃げられた。
「もういい。おまえと話してると、こっちまで頭がおかしくなってくる」
 舌打ちして立ちあがる。春海は坐ったまま、旺太郎を見あげた。
「もう帰っちゃうの? ゆっくりしていけばいいのにぃ」
 吐きそうに甘ったるい声音でしなをつくる同い年の男にいらつく。小さな缶をわざわざ両手でつつんだあざといポーズにも腹がたつ。
「帰る。これ以上、時間を無駄にしたくねえし」
「いけずぅ。ほんと、つれないんだから。次は泊まっていってくれる?」
 しつこく色目をつかってくる春海に、旺太郎は、
「二度と来るか! バァ~カ!」
 と笑いながら悪態をついた。
「じゃあな。凍死すんなよ」
「心配なら保護してよ。バイビー」
 雑な別れを交わした二人の距離が十メートルばかりも離れた頃、
「あ~あ。あれだけ“死にまくって”も鈍感は治らないのか。おまえの“運命の相手”なら、すぐそこまで来てくれてるってのに。──癪だからおしえてやらないけどね」
 がっかりしたようなワクワクしたような春海の声は、曙橋のガード下を吹きすぎた一陣の北風にまぎれて消えて、歌舞伎町方面へと去ってゆく旺太郎の背まではとどかなかった。
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