Eve

「Eve」(イヴ)はアダムの孤独を救う伴侶として神に創られた女の名前。蛇に誘惑されて禁断の果実に手をつけた罪で神の怒りを買い、罰として夫・アダムと共に楽園エデンから追放された。


一 ────


 はじめは偶然だった。
『ナイトデリバリーサービス』では、主な得意先にはそれぞれ配達担当が決まっているのだが、その日はたまたま担当スタッフが欠勤していた。──あとになって考えてみると、その担当者はプライベートを優先してクリスマスイヴに希望休を申し出る度胸がなく、苦肉の策で、当日になって急な体調不良による病欠を強行したのかもしれないが。
 それはともかく。
 フードデリバリーの業界ではクリスマスイヴは、一年のうちでも最大級の稼ぎどきな大イベントである。
 その十二月二十四日。夜八時。開店から閉店まで分刻みのハードスケジュールでただでさえ人手が足りないところに急遽、追加注文まで入ってしまい頭を悩ませていた店長から、ちょうどタイミングよく配達を終えて店へ戻ってきた宰子は白羽の矢をたてられた。
「あ、佐藤さん、ちょうど良かった! 戻ってきてすぐにわるいんだけど、たった今、大至急の注文が入ったから配達頼みます!」
 午後出勤からずっとの殺人的な忙しさによる疲弊と、イベントコスチュームのサンタクロースコスプレをさせられている不満とで最悪の気分だった宰子は、
「きょ、今日は予約対応だけで、注文は受けないはずですよね」
 と、ひくめの地声をさらにひくくして異議を申したてた。
 が、店長はまったく意に介さずに、
「そうなんだけど。長い付き合いのお店からどうしても! って頼みこまれて、断れなくて。なんでも、すごいVIPのお客が来たらしくてね。担当の桜新町さんが休んじゃったから、代わりにお願いできませんか? ここだけでいいんです!」
 気弱でお人好しで優柔不断な店長が押しきられたのも、桜新町という女性スタッフが風邪をひいた(らしい)のも、宰子にはまったく責任も関係もなかったが、自分よりはるかに疲労困憊している店長から両手をあわせて頭を下げられては拒否できるはずもない。
「…………わかりました」
 宰子は心底うんざりしながら、それでも渋々うなずいた。というのも、この時点で本日の彼女の仕事は完了していたからだ。……私のシフトはもう終わりだけど……今日はイヴで大変なんだし、あと一件だけなら残業して協力しようかな。……
「ここね、一番街でも有名なホストクラブ。佐藤さんは初めてだと思うけど、場所わかります?」
 カウンターにひろげられた新宿区歌舞伎町一丁目の地図に目を凝らす。店長が指さしているのは、地図中央の一番街、その一等地にあたる区画だ。
「このお店って、たしか──」
 下唇に指をあてて思案していると、店長が笑いかけてきた。
「クラブ『ナルキッソス』。長年、常連のお得意様だから、くれぐれもよろしくね!」
 ──ナルキッソス、か。ホストクラブには最高にぴったり──
 宰子は頬をひきつらせて、微笑と見えなくもない表情を返した。仕事であるからには、行くしかない。だが、ひどい疲れと目的地の名のイメージとによって、気が乗らないことおびただしかった。


 すべては偶然だった。
 そのイヴの夜、歌舞伎町に名をとどろかせる一流ホストクラブ『ナルキッソス』を初めて訪れたことも。そこのバックヤードで、ラベルに「シアン化カリウム」と印字された小瓶をもったホストとすれ違ったことも。別名「青酸カリ」とも呼ばれるその小瓶の中身が混ぜられた栄養ドリンクを、何も知らないもう一人のホストが一気飲みするのを見てしまったことも。
 それらすべてが偶然だったからこそ。たまたまその場に居あわせたからこそ。自分とは無関係の人間だと思って、一回限りの人助けのつもりで、毒殺される運命にあったホストを“キス”で救おうと決心した。
 正直にいえばそれは、親切や慈悲の心だけではなく──わが身に宿る呪われた“力”を他人の救済に使えば、背負った罪の重さからいっときでも気がまぎれるかも、という偽善でもあった。
 栄養ドリンクを飲んだ直後、ホストはひっきりなしに歓声や手拍子がとび交う騒がしいフロアに背を向けると、店内奥の男性トイレへと歩いていった。気取られぬよう、こっそりあとを追う。行き先は女性の宰子が入るには非常に抵抗のある場所だったが、確実に致死量の毒物を飲まされた彼を救うためには躊躇していられなかった。
 トイレの出入り口からもっとも近い個室に音もなくすべりこんで、そっとドアを閉め、ただし、ほんのわずかな隙間をあけて視界を確保する。用も足さず一直線に洗面台の前へ進んだホストのようすを、弱い照明をたよりに隙間からうかがった。
 ホストがもって来ていたグラスの赤ワインをふくみ、だが、飲まずに口をゆすいだだけで手洗いボウルに吐きだしたのが見えた。ふしぎな行動の意味がわからず、宰子は首をかしげた。……あのひと、何してるんだろ?
 その時。鏡に映る自身を見つめて念入りに髪型を整えていた彼が、
「──百億で人生を変えてやる」
 と、つぶやいた声が聞こえた。
 百億という途方もない数字が何を指しているのか、見当もつかない。いや、それよりも、声だ。謎の数字より彼女が興味をひかれたのは、彼の声。長身ながら線がほそく中性的な容貌をした彼のそれが存外ひくく男性的で、さらに、聞く者の鼓膜をしびれさせる艶めかしい色香もまとっていた驚き。
 たったひと言を耳にしただけでぞくりと肌が粟だつ感覚におそわれて、そして思い出した。この店の階段ホールの壁掛けスクリーンに流れていた、キャスト紹介のプロモーション映像を。
 通りすがりに何気なくながめた画面のなかで「下半期ランキング No.1」の賛辞とともに微笑んでいたのは、このホストだった。──
 相手が歌舞伎町随一のホストクラブのナンバーワンと知って、いまさらながら怖気づいた。けれど、深呼吸をひとつ。おのれをはげまし、思いきって、宰子は個室のドアをあけた。幸いにも今、男性トイレ室内には件のホストと自分以外、誰もいない。“キス”をするには絶好の、そしておそらく唯一のチャンスだった。
 気配が伝わるように、わざと彼の前の鏡に映りこむ位置に立つ。……と、彼は鏡越しに宰子を見つけて、ナンバーワンの色男らしからぬうわずった情けない悲鳴をあげた。幽霊か化け物でも見たような形相でふり返り、「ビックリした!」とのけぞった。
「ご、ご、ごめんなさい」
 宰子は怖がらせてしまったことを詫びたが、生来の小声とどもり癖に加えてマスクをつけていたせいで、彼には届かなかったらしく、
「……え? ……なに?」
 おずおずと訊き返された。
 仕方なくマスクを外す。彼のおかれている状況への警告と、これから起こる(起こす)事態の説明をしようとしたが、うまく言葉がまとまらない。まとめる時間もない。
「あ、あなた……“死ぬ”」
 これ以上、できるだけ怖がらせないよう、精いっぱいの笑顔を作ってみせるのがやっとだった。
 ──が。
 ホストは恐怖の極致の相となった。目を泳がせ、かぼそい声で、
「……女子トイレは隣だよ」
 と、現実逃避したせりふを吐いた。芸能人にもめずらしいレベルの端整な美形が、気の毒なくらい蒼ざめている。高価そうだが派手で品に欠けるスーツの肩が、小刻みにふるえている。見て、宰子はもう一刻の猶予もないと判断した。
 ……症状が出はじめてる。青酸カリってほんとうに、ドラマや小説の通りに即効性なんだ。死んじゃう前に、今すぐ“キス”すれば助けられる!
 実際はまだ毒の影響ではなく、暗がりで不気味に笑うサンタクロース姿の女の異様さにおびえただけの可能性もあったのだが。
 ともかく、彼女は覚悟をきめて、“人命救助”を決行した。
 ところが。──
 たいした度胸というか根性というか負けん気というか、異常事態にあっても彼が実力を遺憾なく発揮してきたのには驚いた。さすがはナンバーワンホストである。気が急くあまり襲いかかって唇を奪うかたちとなった彼女の方が逆に、彼に唇を奪われている錯覚におちいってしまった。
 めくるめく“キス”はおそろしく刺激的で甘美で、そのうえ、舌から舌へとうつされた華やかなワインの香りと後味に身も心も酔いしれるようで、“人命救助”もどこへやら、宰子は驚愕と戦慄と混乱と恍惚をまとめて同時に味わうはめとなった。
 頭の芯が熱くてなにも考えられないまま過ぎた時間は、数秒どころか数瞬だったのだろうが、やけに長いものに感じられた。
 ──やがて。先に“死の接吻”の効果である喘鳴と痙攣をあらわした彼が、ひざからくずれ落ちて床に倒れた。
 ここでようやくわれに返って、さっきの洗面台での行動の意味がわかった。……どんなターゲットを「落とす」予定だったか知らないが、せっかくの作戦を無駄にしてしまい申し訳なく思う。それはそれとして、こんな手管を使いこなすこの男はクズだな、とも思う。
 そうこうしているうちに、こちらの息苦しさも手の痺れもどんどん強くなってきて、宰子はあわてて、よろめく脚で先ほど潜んでいた個室に駆けこんだ。
 ──私なんかが相手で不本意でしょうけど、命を救ってあげたんだから我慢してください。だけど、二度とこんなことしたくないから、“次”はあなたが自力でなんとかしてね──
 はげしい動悸と呼吸困難の苦しみに意識が朦朧とするなか、すぐそばの、扉一枚をへだてた場所で“死んで”いる男の顔が脳裡をよぎった。ナルキッソス、という単語のイメージが最高にぴったりの顔が。
(人生を変えてやる)
 ……ナンバーワンなだけあってすごく格好いいひとだった……でもやっぱりホストらしくかなりのクズっぽかった……それになんとなく……どこかで見憶えがあるような……と、思考がいくつか火花みたいにはじけた次の瞬間、宰子の世界は暗転した。


 はじめからすべては偶然だった。
 偶然のはず、だった。


二 ────


 はじめからすべては偶然だったはずなのに。
 何の因果か、“最初の”クリスマスイヴに命を救ってそれっきりになるはずだったホストとは、“二度目”のイヴでも同じ事態をくり返す始末となった。はらはらしながら彼の身辺を警戒して彼の行動を注視していた宰子の努力もむなしく、彼はふたたび毒入りドリンクを飲んでしまったからだ。
 やむなく、また“キス”を交わした。
 “三度目”のイヴをどうにか無事に乗りきった彼を見届けて、ここで手をひいておけばよかったものを、やはり気にかかって見守りをつづけてみたのが運の尽き。心やさしい宰子を天が見こんだかのように、七日後に配達先でまたもや命を狙われた彼の危機に立ちあってしまった。
 余儀なく、またまた“キス”を交わした。
 つづいた偶然もこれで三度目の正直となって欲しい、もう彼とは金輪際かかわりたくない、と願ったのだが……。
 “二度目”の十二月三十一日。大晦日。『ナイトデリバリーサービス』での宰子の担当である得意先『並樹乗馬倶楽部』の、カウントダウンパーティー。
 その夜、宰子にとっての“偶然”は“必然”となった。


 間一髪で、車に轢かれる“はず”だった幼い男の子を救うことができた。
 “前回”の大晦日では、なすすべもなく目の前でこの子がはね飛ばされる光景を見ているだけしかできなかった。だが、“今回”の大晦日は、悲劇を阻止できた。
 男の子に駆けよった母親から涙声で礼をくり返されて、宰子は安堵とともに喜びもおぼえた。……罪の証である“タイムリープ”はもしかしたら、使い方によっては、ひとを救える“奇蹟”のスイッチなのかもしれない。
 深夜の交差点から救急車ではなく自身の脚で去ってゆく母子の姿を見送って、達成感と充実感がこみあげる。こんな私でも誰かの役にたてた、という実感が何よりも嬉しかった。と、そこに、息せききって一人の男が駆けつけてきた。
 ──宰子が三回“キス”して救った、あのホストだった。
 時刻はまもなく日付が、年が変わる頃合い。しかし、都市部からはだいぶ離れた郊外の交差点は人出もなく、しんと静まりかえっておごそかに新年を迎えようとしている。静寂のなか、痛みを感じるほどに冷たい夜気にさらされながら、そのホストと向かいあった。
「まだ、生きてたんだ」
 宰子はそうつぶやくと、ほんのすこし口角をあげた。
 “最初の”クリスマスイヴから数えて、計三回、瀕死の状態となっていた彼を救った。勘は鈍くなさそうなのに、たしか「カズマ」という源氏名の後輩ホストの殺意にいつまでも気づかない彼がもどかしくて心配だったが、それは別として、行く先々で死にかけている彼と遭遇するのに慣れてきていた可笑しさが無意識に口元をほころばせた。
 つい微笑を浮かべた宰子に、なぜかホストは、泣き出しそうなかすれ声でこたえた。
「おまえの方こそ……生きてた」
 せりふの意味がわからない。失くした大切な宝物をやっと探しあてた子供みたいに、潤んでゆれている眼も理解できない。彼から向けられた想定外の種類の感情に、とまどいと不審がわいた。
「知ってるよ。おまえのことはよく知ってるよ。“キス”で時間を戻して、俺を助けてくれてたんだろ?」
 やさしく語りかけられた。勘は鈍くなさそうだとは思っていたが、早くも“キス”の真意に気づくとは。だけど、それならどうして「カズマ」の犯行を見破れないのか? ……
 眉根をよせた彼女を彼は、そうするのが当然であたりまえという動きで抱きよせようとした。
 だから、彼女はとびのいて逃げた。たかが三回“キス”した程度で、他人も同然。お互いのことを何も知らない同士。当然であたりまえだった。
 当惑とおびえとおまけに不快もはっきりこめた拒絶をした宰子を見て、ホストが硬直した。ガラス玉に似た透明な双眸を見ひらいて、呆然自失としか表現できない表情で立ちすくんだ。
 宰子としては不審者から身を守っただけであって、そこまであからさまに傷ついた態度をとられるいわれはない。……それなのに。
 “他人”の彼がありありと浮かべた失意と悲哀の色が、言いようもない鋭さと強さで胸をついたのは、なぜだろう?
 そのあとのことは──まるで夢のなかの出来事のようだった。
「おまえは男を見る目がなさすぎる」から始まった、ホストの長広舌。それはこれまでの陰ながらの救助だけでなく、“キス”と“タイムリープ”の秘密も、十二年間背負いつづけてきた罪悪感も、ずっとあきらめていたほのかな願望も、宰子の何もかもを言い当て、ほどいて溶かして、前に進めと背中を押してくれるものだった。
 ──(気をつけろよ。クズみたいな男がその“力”に気づいたら、きっとおまえを利用すると思う)──(おまえなら、いつか、そのキスを受けいれてくれるひとに出逢えると思う)──(罰があたっただなんて、今は思ってるかもしれないけど。そんなことないからな)──(おまえはもっともっと、幸せになれんだよ)──
 こぼれてしまいそうな涙をたたえた瞳で。途切れてしまいそうな切々とした口調で。ホストが語るひとつひとつの言葉が心にひびく。沁み込む。真冬の深夜にふれたそれらは、春の陽だまりよりもあたたかかった。
 いつからか、涙が両の頬を濡らしていたことに宰子は気づいた。気づいたが、ぬぐうことも忘れて彼に惹きつけられていた。
 ──(好きな男ができたら、遠慮なんかすんな。ガンガン行け)──(俺みたいなクズだけは好きになるな)──(二度とおまえには逢わない。これで本当にさよならだ。──宰子)──(ありがとう。今までありがとう)──
 親身の助言と、不可解な忠告と、哀切きわまる決別と、心からのふかい感謝と。ホストは一方的に言いたい放題に伝えてきて、あげく、最後は自分勝手に宰子の前から立ち去った。その背を追えず、ひきとめられず、声すらかけられずにとり残された宰子は、ただ悟ることしかできなかった。
 自分が救ったはずの彼に、自分の方こそ救われたのだと。──
 真夜中の交差点にたった独りで立ちつくす宰子の耳を、波濤のごとく鳴らしてやまない謎めいた声。中性的な容姿にしてはひくく男性的な、さらに、聞く者の胸をしめつける悲愁と孤独もまとっていた、あの声。
(キスは、本当の愛を見つけるためにするもんなんだよ)
 この夜、宰子にとっての“必然”は“運命”となった。


三 ────


 “運命”の大晦日から十日後。一月十日。
 早、松の内もすぎて、『ナイトデリバリーサービス』もすっかり通常の仕事量に落ち着いてきていた。
 その日。夕方五時までの日勤でシフトが終わった宰子は、配達先から店へ戻る前に、こっそりホストクラブ『ナルキッソス』にたち寄った。この十日間、ずっと気にかかって頭から離れなかった、あのホストについておしえてもらうために。十日間ものあいだ、薄れるどころか強まる一方の、ふしぎな喪失感の原因をたしかめるために。
 開店前の掃除をしていた『ナルキッソス』の店長は、訪れた宰子を気さくにバックヤードに入れてくれた。馴染みの出入り業者の制服を着ているのもあるが、そもそも、クリスマスイヴに担当者の代理として配達に来た彼女の顔を憶えていたらしい。
 宰子はうるさい鼓動を刻む左胸をおさえながら、たしか源氏名を「エイト」といったホストについて質問をした。
 ……質問をしようとしたのだが。
 辻と名乗った店長から返ってきたのは、エイトが一月三日付けですでに『ナルキッソス』を退職した、との回答だけだった。
(今度、店に行っても、俺はもういない。二度とおまえには逢わない。これで本当にさよならだ。──宰子)
 この宣言通りに行動したわけだ。有言実行のホストが憎らしくもあり、切なくもあった。
「あ、あの……ちょっとおしえて欲しいんですが……そのエイトさんは、ほ、本名は何ていうひとだったんですか?」
 落胆も失望もおおっぴらに態度にあらわした宰子が、それでもあきらめきれずにくいさがると、辻は同情を見せながらもきっぱりと首を左右にふった。
「本名? いやいや、それは個人情報だから。保護しなきゃ。いくら元雇用主だからって、むやみにおしえられるわけないでしょ」
 もっともである。がっかりしたが納得した。──と、あきらめかけたところで、口が勝手にうごいた。
「実は……わ、私……今の仕事を辞めて、キャバ嬢に転職を考えてるんです」
「君がキャバ嬢? …………マジで?」
「は、はい。マジで」
 なぜか辻に絶句されたがともかく、大きくうなずいてみせる。口が動くままにまかせてみたら、われながらとんでもないことを言いだした。
「うーん……わるくはないんだけど……あ、でも、あんまりいないタイプだから、もの珍しさで逆にウケる可能性も……」
 露骨な品定めの眼つきでながめまわされた。恥ずかしさがわきあがるのをこらえて、
「……それで、その……源氏名ってどうやって決めるのかな、って思って。やっぱり、本名からとるひとが多いんですか? た、たとえば……さっきのエイトさんだったら、八山とか、八田とか?」
 慣れぬ演技に苦戦しつつも、なるべく自然に、無邪気をよそおってカマをかけた。辻があっけらかんと応じてきた。
「そんなんじゃないよ。エイトはね、堂島旺太郎っていうちょっと変わった名前でね。あいつのはただ単に、うちが八店目だから」
 どうじま、おうたろう。
 宰子は胸のなかでつぶやいた。
 見た目は壮年の渋みと色気のある二枚目なのに中身はノリが軽くて口も軽い辻は、宰子の罠にひっかかってうっかり個人情報を漏洩したのを気づいていない。さらなる漏洩を期待して、何気なく訊き返す。
「八店目?」
 辻はニコニコとして、
「そう。あいつ、顔はいいのに性格も素行も悪くてトラブルメーカーでさあ。どこのホストクラブでも長続きしなくて、すぐに辞めたりクビになったり。で、そうやって七店渡りあるいてからの八店目が、ここ。だから『エイト』」
「……はぁ」
「安直でしょ。テキトーでしょ。普通はもうすこしこだわって源氏名つけるんだけど、金と権力以外は興味ないようなヤツだったしね」
 散々にこきおろす語調と表情は、しかし、ほがらかで親しみをにじませている。出来のわるい、けれど愛すべき弟か息子の自慢としか聞こえなかった。
「そ、そうなんですか。……それで、そのひとは、今は何を?」
「さあねぇ? 水商売からは足を洗うって言ってたけど、エイトのことだから案外、どっかの店でまたしれっとホストやってたりして。『初めまして。ナインです』 ──なんちゃって!」
 つかんでいたモップの柄に片ひじ乗せて前髪をかきあげながらのモノマネがそこそこ似ていて、宰子は思わず吹きだしてしまった。
「あれっ、君、笑うとすごくかわいいね! キャバ嬢、結構いけるんじゃない!?」
 本気で転職したいならいつでも相談にのるよ、と調子づく辻に深々と頭を下げてから、再度、胸のなかでつぶやいた。
 どうじま、おうたろう。
 たった一つの手がかりを忘れぬよう、心の奥に大切にしまいこんだ。忘れなければ、憶えていれば──いつかまた逢えると望みをかけて。


 それから十日後。一月二十日。
 祖母が他界した。
 出勤前に、祖母の入居している特別養護老人ホーム『はなえみの里』から、危篤の連絡をうけた。宰子はすぐに休みをもらい、とるものもとりあえず施設に駆けつけたのだが、間にあわなかった。
 施設からの説明によると、祖母は昨夜までは普段と変わらず、夕食後も入居者同士の談笑に加わっていたのだが、今朝、モーニングケアの訪室中に急変したとのことだった。
 一〇四号室のベッドで、ただ眠っているだけに見える安らかな顔をした祖母と対面した。眠っているだけに見える祖母がもう話さない、動かない、笑いかけてくれない事実をうけとめきれず、こちらまで魂が抜けたように凝然と立ちつくしている宰子に、担当職員が聞かせてくれた。
 自身の死期を悟っていたのだろうか、この一週間ほど、祖母がしきりにくり返していたという言葉を。挨拶よりも数多く口にしていたという、孫の将来を案ずる言葉を。
(苦労した分、宰子には幸せになって欲しい──)
(あの子は、私がいなくなったあとでも隣にいてくれるひとを見つけられてるかしら──)
 沈痛な面持ちの職員を介して祖母の真心にふれて、宰子はようやく、自分はこの世界で独りぼっちになったのだと実感できた。ベッドに横たわる唯一の肉親にとりすがって、人目もはばからず号泣した。


 翌日。『はなえみの里』からひきとった祖母の私物は、段ボールひと箱でおさまった。祖母がこの世に生きた証は、宰子が両手で抱えられる程度の量しか残らなかった。
 葬儀の手配の合間をぬって、わずかな遺品と数えきれない思い出をともに自宅マンションに連れ帰った。昼すぎに帰宅したのだが、ひざに段ボール箱を置いたままベッドに腰かけていてふと気づくと、窓の外は夕暮れになっていた。
 暖房も照明もつけず冷えきった部屋に、これだけはあたたかいオレンジ色をした夕陽がレースカーテンを通して射しこんでいる。──ああ、もうすぐ夜になるんだな、とぼんやり思った。それ以外、何も思わなかった。
 昨日からまともに食事もとっていないが、空腹をまったく感じない。ただひたすら、重たい疲れと哀感が泥みたいに身体中にまとわりついている。段ボール箱をひざから床へおろし、蓋に手をかけた。遺品整理にとりかかった、というより、その中にまだ祖母のぬくもりが残っているかも、とすがりたくなったからだった。
 衣類。靴。洗面用具。写真立て。……のろのろと箱から中身をとり出していた宰子の手が、ある物にたどりついてピタリと止まった。
 片方だけの、子供用の白いスニーカー。
 インソールに黒の油性ペンで大きく書かれた『光太』の文字を無意識に、そっと指先でなぞる。なぞったと同時に、鈍い頭痛と軽いめまいをともなって、あのクリスマスイヴの記憶がフラッシュバックした。
(──お兄ちゃんにいつも『オトコはカンタンに泣くな』って言われてるもん)
(──それ、サイズが大きすぎて危ないって母ちゃんも心配してただろ)
 幾重にもエコーがかかって耳朶にひびく、幼い兄弟の声。
(──このお姉ちゃんが、靴、ひろってくれたの)
(──ありがとう)
 急に強くなった頭痛とめまい。音をたてて早鐘をうちだした心臓のせいで、息が苦しい。手も痺れる。
(──大丈夫? ねえ、大丈夫?)
(──助けてあげるから、いっしょにここから出ようよ)
 生涯背負っていくと決めた後悔、自責、諦念。ともするとおし潰されそうな重さの十字架を、傍から伸びてきた手がふわりともちあげた。
(キスは、本当の愛を見つけるためにするもんなんだよ)
(ありがとう。今までありがとう)
 ──カチッ、と。どこかで時計の針音が鳴った。
 悲鳴に似た短いさけび声をあげて、宰子はベッドから立ちあがった。玄関のたたき近くに放り出していたショルダーバッグに走りよると、中にしまっていたスマホをひっつかんだ。
 ……まさか……まさかそんなことがあるわけが……だけど……それならどうしてあのひとは“力”を知っていたの? 明かしていない私の名前を呼んでくれたの? ……まさか……まさかあのひとは……!
 検索アプリをひらき、ふるえる指で入力する。
〈プロメテウス〉
 脳内にも体内にも灼熱の風が吹きめぐるようで、ますます指がふるえてうまく動かせない。一度、ぎゅうっと目をつぶって深呼吸してから、検索窓に追加する。
〈クルーズ船〉
 即座にサジェストが表示された。
〈プロメテウス クルーズ船 海難事故〉
 文字列を見ただけで、あの夜の恐怖と絶望が強烈によみがえって吐き気におそわれた。が、歯をくいしばって耐える。……これは十二年分のツケだ。もう目を背けてはいけない。逃げてはいけない。向きあわなければならないタイミングは、今この時をおいてほかになかった。
 唾をのみこみ、最初に目に飛びこんできたサジェストをタップした次の瞬間──。
 宰子が十二年もの間、目を背けて逃げつづけてきた“現実”が、画面いっぱいにずらりと並んだ。
〈クリスマスイヴの東京湾でクルーズ船座礁 大きな被害〉
〈並樹グループ主催の慈善パーティーが一転 3人死亡、1人行方不明の惨事に〉
〈『プロメテウス』号沈没事故 原因は制御システムのトラブルか〉
 高熱にうかされたような悪寒を全身でおぼえながら、ページの各記事を次々にひらいては、その文章に目をはしらせていく。
〈……12月24日東京湾沖で大型クルーズ船『プロメテウス』号が沈没した事故で、警視庁は業務上過失致死の疑いで船長の堂島旺容疑者を逮捕……〉
〈……罪に問われている裁判で、元船長の過失責任は重大だとして検察は禁錮5年を求刑し……〉
〈……『プロメテウス』号には堂島被告の小学生の子供2人も乗船しており、兄の旺太郎さん(10)は現場で救助されたが弟の光太さん(7)は依然行方不明……乗船名簿に2人の記載がなかったことから捜索活動に遅れが生じたものと……〉
 堂島旺太郎。
 宰子は身じろぎもまばたきもせず、呼吸さえも忘れて、その五文字を凝視しつづけた。何十秒か、何分か、どれだけの時間が経過したかもわからなかった。
『ナルキッソス』の辻店長が、こう言っていた。「ちょっと変わった名前」だと。ちょっと変わった、ありふれてはいないめずらしさの同姓同名。当時十歳。三歳下の弟は『光太』。──
 もはや疑うべくもなかった。エイトは、“あの子”だ。
 十二年前の聖夜、海の上で出逢った初恋の相手。人類を創造し死と再生をくり返す神の名を冠する船とともに、海の底へ喪ったとあきらめていた命の恩人。“あの子”が、生きていてくれた……!!
 “奇蹟”を目の当たりにした感動が、歓びが、どっと胸におしよせた。あらためて、快哉と呼べる短いさけび声をあげようとして、宰子ははっとした。……光太くんは? 弟の光太くんは!?
 憑かれたかのごとく必死に、検索結果のページが尽きるまで探した。そうして得られた、行方不明の堂島光太に関する最後の情報は。
 ──本人はおろか所持品の一つさえ発見できず、事故から七日後に捜索がうちきられた、というものだった。
 宰子は糸が切れた人形のようにその場にへたりこんだ。差しこんだひと筋の光はかき消えて跡形もなく、深まったのはもとの暗闇の濃さだけだった。……結局、私の“罰”は“罰”のままだ。旺太郎さんが生きていてくれても、光太くんを犠牲にしてしまった私の罪は変わらない。……
 暗闇へと戻りかけた彼女を、その時、男性的なひくい声がひきとめた。
(キスで時間を戻して、俺を助けてくれてたんだろ?)
(自分の気持ちをおしころして、辛くてもいいなんて遠慮すんな)
 声は、なぜとも知れぬ懐かしさをかきたてる。それはひどくやさしく、やわらかくて、気がつけば宰子の両眼から大粒の涙がとめどなくあふれていた。
 …………もしかして。
 もしかして、彼はすべてを知っていたのだろうか。キスも。タイムリープも。十二年前から繋がっていた運命の糸も。……理由はわからないけれど、そうとしか考えられない。
 でも。だとしたら、彼にとって私は、大切な弟を奪ったにひとしい相手だ。憎んで、恨んで、ありとあらゆる罵声を浴びせても飽きたらない人間のはずだ。──それなのに。
 あのひとは大晦日の夜に、言ってくれた。
(罰があたっただなんて、今は思ってるかもしれないけど。そんなことないからな)
 決して赦されるはずのないひとから、赦しを与えてもらえたのはどうしてだろう?
 こらえきれずに嗚咽がもれた。スマホをとり落とし、無駄とは知りつつも両手で口をふさぐ。だが、やはりそんなものではもうおさえきれなかった。くしゃくしゃに顔をゆがめて、小さな子供みたいに泣きじゃくる宰子の耳に、誰よりも愛しい二人の声が重なって聴こえた。
(宰子には幸せになって欲しい)
(おまえはもっともっと、幸せになれんだよ)
(私がいなくなったあとでも隣にいてくれるひとを見つけられてるかしら)
(俺みたいなクズだけは好きになるな)
 無性に祖母に逢いたかった。祖母におしえてあげたかった。
「……おばあちゃん。ねえ、聞いて。私……私ね……」
 雪どけの心をぽつり、ぽつり、と声に出す。声に出せば、天国の祖母に届く気がした。
「“隣にいてくれるひと”は、まだ見つからない。でも……“隣にいたいと想うひと”は、見つけられたよ。……」
 瞼のうらで祖母が嬉しそうにうなずいた。
 宰子も泣きながらうなずいた。何度も、何度も。
 ──今、わかった。“偶然”や“必然”や“運命”なんかじゃなかった。救ったのも、追いかけたのも、また逢いたいと願っているのも、あのひとへと繋がるすべては──私の“意志”。
 これは二度目だ。私は初恋の相手に、二度目の恋をしている。


四 ────


 それから。
 目標は定まっても手段がなく宙ぶらりんとなった宰子の“意志”を置きざりにして、これまで通りの静かで平穏で退屈な日々がつづいた。何の変化も刺激もない毎日をあたりまえに過ごしてゆくうち、宰子は次第に慣れて、うけいれて、いつしか“意志”も薄れかけてきた。
 そして。約一年の月日が流れて。
 ──その日。足踏みしたまま眠っていた“意志”をゆり起こし、すくいあげて、行っておいでと送りだしてくれたのは、予想もしていなかった意外な人物だった。
 時は、十二月二十四日。今年もめぐってきたクリスマスイヴの夜。
 場所は、『ナイトデリバリーサービス』店舗内。稼ぎどきである大イベントの激務を乗りきり、まもなく閉店をむかえる時刻。


「あ、佐藤さん……お疲れさまです……」
「お、お疲れさまです。元気ないですね?」
「はい。元気ゼロです……」
「イヴでしたからね。でも、大晦日も元旦も同じくらい大変ですよ」
「仕事のせいじゃありません。ほかの理由です。──理由、聞いてくれますか? 佐藤さんなら聞いてくれますよね!」
「まあ……聞くだけなら……」
「実はですね、さっき、フラれたんです! 桜新町さんに!」
「……なるほど」
「思いきって告白したんですけど……去年のイヴから交際してるひとがいる、って。それと、もうすぐそのひとと結婚する、って」
「ご、ご愁傷さまです」
「桜新町さん、ほんとに幸せそうで……よかったです。僕も嬉しいです。でもやっぱり……二回連続の失恋はこたえるなあ……」
「二回連続?」
「この間、幼なじみの女の子が婚約したんですよ。僕、その子のことが、子供の頃からずぅーっと好きで。大人になったら僕のお嫁さんになって、なんて言ってて。……だけど、彼女の“運命の相手”は僕じゃなかった。相手ははじめから、彼女の隣にいた。いろんな辛いこともあったけど、やっと、あの二人は結ばれました」
「……長谷部さんはうらやましいとか、悔しいとか、その相手に思わないんですか?」
「全然。だってタカウジさんは──あ、婚約相手はタカウジさんっていって、そのひとも僕の幼なじみなんですけど──タカウジさんは昔も今もずっと、僕の憧れです。尊敬できる、立派なひとです。あのひとならミコトを一生護ってくれるし、あのひと以外にミコトはまかせられない。二人とも大好きだから、二人が幸せになった姿を見られて、僕も幸せなんです」
「…………」
「……でも。結局ミコトには、僕の気持ちを真剣に伝えることができなかった。それが心残りだったから、今日、勇気を出して桜新町さんに告白できてすっきりしました。フラれたけど、結果は別として、行動できた自分を後悔してないし自信もついたし」
「……長谷部さんは、強いですね」
「そ、そんなことないですよ! 今日の昼までは、女々しくて卑怯な考えばっかりしてたんで! ……だけど、言われたんです。『伝えなきゃ、何も届かない』って」
「伝えなきゃ、何も届かない……?」
「『素直な気持ちを伝えろ』って。『すべてはそれからだ』って」
「素直な気持ち……? ……そう、そうよ……伝えなくちゃ届かない……なにも始まらない……」
「佐藤さん?」
「──決めました。私も出してみます、勇気。つ、伝えるために、探してみます」
「よくわかりませんけど、勇気が出たんならよかったです。堂島に相談した甲斐があったかな」
「…………どうじま?」
「知り合いです。っていっても、それほどよく知らないんですけどね。歌舞伎町でホストやってたヤツで……店の名前なんだったっけ? えっと、ほら、最近あんまり注文来ない、あの」
「『ナルキッソス』!?」
「そう、そこ! ──あれ? ひょっとして佐藤さん、堂島を知ってます?」
「は、はい! でも、それほどよく知らないですけど。そ、それで、そのひとは今、ど、どこに!?」
「ちょ、ちょっと待ってください。たしか名刺が……ここかな……あっ、あった。これ」
「……『ナイン探偵事務所』……ほんとに『ナイン』だ……」
「そういえば堂島にやたら佐藤さんのことを訊かれたなあ。気をつけてくださいね。佐藤さん、真面目でおとなしそうに見えるから、詐欺のカモか何かに目をつけられてるんじゃないですか? あいつ、相当なクズだし」
「……私のことを? ……あのひとが?」
「それでね、僕、ビシッと言ってやったんです。『佐藤さんには好きな男がいるんだぞ』って」
「…………え!?」
「だって、この前、片想いしてるひとがいるって話してたじゃないですか。すごくやさしくて素敵なひとなんですよね?」
「話しました!? わ、私、長谷部さんに話しました!?」
「聞かされましたよ。用賀さんの送別会で、からまれて。もしかして、かなり酔ってたから憶えてません?」
「…………憶えてません」
「意外と酒癖わるいんですね……。まあ、だから安心してください。しっかり牽制しておきましたから。『おまえなんかがちょっかいかけたって相手にされるもんか』って。そしたら、あいつ、なんでか知らないけどすごいビックリしてて。──いや、違うな。あれはビックリしたっていうより、落ちこんで──」
「ええぇぇ~!?」
「わっ!? ビックリした!」
「なな、なんでそんなこと! い、言っちゃったんですかっ!」
「ぼ、僕、何かまずいことしました?」
「まずいっていうか……ど、ど、どうしよう……もう本人に伝わっちゃった……」
「え? 本人? …………えぇー!? 佐藤さんが片想いしてるのってまさか、あんなの!?」
「あ、あ、『あんなの』でわるい!?」
「いえ、わるくはないですけど。たしかに顔だけはいいもんな、あいつ。けど、佐藤さんて結構、変わった趣味してるんですね。────ん?」
「?」
「陰気で──仏頂面で──ガキっぽい見た目──」
「な、なんですか、いきなり。直球の悪口ならべて」
「違います。僕の意見じゃないです。……へぇ~、そういうことかぁ~」
「どうして笑ってるんですか?」
「内緒です。その名刺、どうぞ。クリスマスプレゼントです。──僕は残念な結果でしたけど、佐藤さんはがんばってくださいね! 健闘を祈ります!」
「……? ありがとうございます。が、がんばります」
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