耳をつんざく大音量のベルが、深刻なトラブルの発生と早急な避難の必要を告げていることは、十歳の少年である旺太郎にもすぐに理解できた。
本物の音を聞くのは初めてだ。だが、万が一、乗船時にスピーカーからこのような音が流れてきた時は、それは生命の危機にかかわる非常事態だから必ず船長の指示に従って行動するように、と父の旺から日常的にくり返し指導されていた経験が役にたった。
「な、なにがあったの? 怖い……」
かろうじて理性でパニックをおさえこんでいる旺太郎とは違って、七歳の光太にはさすがに、父の教えを思い出して実行にうつす冷静さはまだなかった。途切れることなく鳴りひびく不気味な警報と波の影響とは別次元の激しさの船の揺れによって、危険にさらされている実感だけはあっても、では何をするべきなのか想像もつかず途方にくれた幼い眼が旺太郎の眼を見上げ、怯えてわななく小さな掌が旺太郎の掌にすがりついてきた。
今にも涙がこぼれ落ちそうな弟の両目を前にしては、自分も泣きたい心細さを必死に我慢するしかない。
──光太は絶対におれが守る! だって、父ちゃんも母ちゃんもいつも言ってたじゃないか、『お兄ちゃん、頼りにしてるよ』って──
「大丈夫。父ちゃんのところに行こう」
旺太郎は、だいぶ不自然ながら笑顔と言えなくもない表情で光太の手をにぎり返した。兄としての使命感と、小学四年生男子らしい虚勢──笑顔を維持する原動力はこの二点だけだった。
……おちつけ、旺太郎。「船長のシジにしたがって行動する」だろ。
胸のうちで復唱して、この大型クルーズ船『プロメテウス』の船長である父のもとを目指そうと決意した。──ついでに、父に内緒で(しかも弟まで巻きこんで)『プロメテウス』のクリスマスクルーズに忍びこんだいたずらへの叱責も、この事態によってうやむやになるかも、と期待もした。
パイプが縦横にはしり、スイッチやランプがあちこちに付いている、機械類がむき出しの狭い通路を弟の手をひいて進む。ついさっきまではSFゲームのダンジョンとして探検家気分をかきたててくれたのに、今はひたすら硬質で冷厳で恐ろしさしか感じられない。面白半分に入りこんだその場所が機関室そばの船倉部分だとは、旺太郎は知る由もなかった。
すぐ近くから、何かが爆発したとしか思えない重低音がした。さらに地震のような振動がつづいた。ぐらりと大きく船体が傾いて、旺太郎はとっさに床に両ひざをついた。
「痛い!」
引っぱられるかたちとなって一緒に倒れこんだ光太が悲鳴をあげた。うずくまってべそをかいているのを助け起こし、はげます。
「ごめん。……光太、行くよ。がんばって。兄ちゃんから離れるなよ」
旺太郎は恐怖にガクガクふるえる両脚で、それでも懸命に、警報音のひびきわたるうす暗い道の先へと踏みだした。
通路の幾度目かの曲がり角で、少しひらけた空間に出た。明滅する電灯が、そこにぽつねんと横たわっている人影を照らしだして、急いでいた旺太郎の脚が止まった。
「……?」
人影は、顔は反対側を向いているが、体型はさほど自分と変わらない。おそらく、年齢も同じくらい。ただし──地味な色のワンピースと黒いおかっぱ頭と、妙に目をひく真っ赤なポシェットをななめ掛けしているから、あれはきっと女の子だろう。
そこまで判断したところで、反対向きの頭部のあたりにかなり大きな血だまりが広がっているのに気づいて、旺太郎の心臓がどくんと波打った。
「大丈夫!?」
船の揺れにもかまわず、光太の手も離して、あわてて女の子に駆けよる。のぞきこみ、華奢な肩に手をまわして抱きあげる。
「ねえ、大丈夫?」
かるく揺さぶると、女の子は閉じていた目をうっすらと開けた。
──その子の睫毛がとても長いことが、瞳の黒がやけに濃いことが、さらに信じられないくらいに額も頬も頸も白くて唇が紅いことが、旺太郎の意識に何よりも鮮烈に刻まれた。
この場合に、なかばうわ言のような、夢みるような声で旺太郎はその少女に語りかけた。
「──助けてあげるから、いっしょにここから出ようよ──」
少女の鮮紅色の唇が、かすかに動いた。しかし、そこから発せられた音を聞きとる前に、旺太郎の青いフリースの袖が強くひかれた。
「嘘つき」
光太だった。
「嘘つき。お兄ちゃんの嘘つき」
ふり向いたすぐそばに立つ光太は、なぜか、頭から足先までずぶ濡れになっていた。ずぶ濡れで、真っ青な顔いろで、恨めしげに立ちつくしていた。
「事故の時、手を繋いでてくれなかったから、ぼくはこの船から逃げられなかった」
一切の光が消えてにごった虚ろな眼が、兄をにらみつける。紫色の唇からもれる弱々しく生気のない声が、兄を責める。
「いっしょに出ようって言ったくせに、ぼくだけが死んでお兄ちゃんは生きてる」
蒼ざめた顔が、どす黒く変じていく。
「光太……」
眼前の弟の絶望的なおぞましさに、のどがつまって声がかすれた。尻もちをついてあえぐ旺太郎の首に、後ろからほそい腕が巻きついた。
「嘘つき」
少女だった。
「嘘つき。大嘘つきのクズ」
旺太郎の耳元へささやいた少女の姿が、変化した。十歳ほどに見えた身長が急激に伸び、全身がしなやかさをおびて、胸と尻がふくらみを増した。
「あなたが周りのひと達の運命を狂わせたから、そのせいで私は罰をうけた」
彼女の頭からの出血は止まっている。代わりに、なぜか、左胸からおびただしい鮮血があふれている。
「“パートナー”だって言ったくせに、あなたは代償を払わず私だけがすべてを奪われた」
甲高い幼い声が、低く艶のあるものに変じていく。しがみついてきた身体は氷のように冷たく、まとった死臭が鼻をさす。
「宰子……」
背後の女の絶望的なおぞましさに、言葉を失って目を背けた。思わず両手で顔を覆い、覆った指の長さと骨ばった硬さに驚く。──そして、気づく。
彼女の名前が『宰子』だと知っている。知っていることで、これはいつもの「夢」だと確信できる。
現実の自分は、十歳の少年などではない。もう二十三歳になる、れっきとした大人だ。
けれど、「夢」のなかでは、三歳下の弟の光太は七歳のまま。同い年だった宰子も二十二歳のまま。二人は死んだ時の姿のまま変わらず、永遠に自分を恨み、呪いつづける。自分はそれをひき受けながら、鞭うたれながら、一人だけ歳を重ねて生きていかなければならない。それこそが二人への償いなのだから。
ホスト風の派手なスーツに身を包んだ二十三歳の旺太郎は、両手で顔を覆ったまま背を丸め、乾いた笑い声をたて始めた。笑いながら、今日こそはこの「夢」が死ぬまで覚めないで欲しい、と願った。このまま、「夢」より辛い「現実」に戻れなくなればいい、と望んだ。
……でも、どうせ覚めちゃうんだよな。わかってるよ。おまえらと一緒にここに居させて欲しいのに、俺が大嘘つきだから、赦してくれないんだろ。光太も、宰子も、護ってやれなかったクズだから、おまえらと同じところに行かせてくれないんだろ。そんなの、もう充分、わかってるんだよ。……
「誰も救えもしないのに『助ける』なんて。自分だけ生き残っておいて『一緒に』なんて」
「こんなにひどい嘘を二度もくり返した、最低で最悪なクズの中のクズ」
陰々たる光太と宰子の呪詛は、声をあわせて旺太郎の鼓膜と胸奥を刺しつづける。それは沈みゆく『プロメテウス』内にこだまする警報よりも強く、深く、いつまでも。──
二 ────
もうすぐだ。ちょろいな。
いわゆる「壁ドン」をしながら、旺太郎は内心ほくそ笑んだ。「壁ドン」をされている女が「落ちる」のは時間の問題と思われた。
「カウンターの端っこでかまわないからさ。これ、置いといてよ。いいでしょ?」
十枚ほどのチラシの束を、女の胸元に押しつける。一見すると強請ないし脅迫だが、そこは元ホスト、ソフトな甘い声音と微笑をセットにするのを怠らない。
この分野での旺太郎のテクニックはきわめて高く、たいていの女性がハラスメントとは感じないセクシャルアピールになっている。その証拠に、ピンクのミニのスーツがよく似合う、若いが夜の仕事のベテランと見える女が、まんざらでもない笑顔を浮かべた。
十二月二十三日。夜風が身に凍みる午後八時。新宿歌舞伎町にほど近い路地にたたずむクラブ『パンドラ』の、店舗裏口。
街灯の光も届きにくい奥まった暗い一劃で、壁際に追いこまれながらも、女はまだ余裕のある表情で鼻にかかった甘え声を出した。
「え~、悩む~。どうしよっかなぁ」
肩にかかった茶色と金色の中間の髪をひと房、指先でもてあそんでいるが、もう片手は動かずチラシを受けとろうとはしない。
予想より粘るな、そういえば『ナルキッソス』でもこいつは細客だったっけ、と思い出して、旺太郎も負けず劣らずの猫なで声で頼みこむ。
「ねえ、お願い、リナちゃん。君と俺の仲じゃない」
女──リナは、去年まで「エイト」の常連客だったホステスである。常連ではあるものの同業者ゆえに要求も多く採点も厳しく、そのくせ金遣いは渋かったから、彼は当時、さして好印象ではなかった。
だが、そんな相手でも営業先として選り好みしていられないほど、事務所の経営状態は現在火の車だ。金のためなら多少の我慢は仕方ない、と旺太郎は肚をきめていた。
「『ナルキッソス』辞めてから一度も連絡くれなかったくせに、よく言うわ」
リナは口をとがらせてから、意味深な上目遣いを向けてきた。
「──だったらさぁ、ひさしぶりに『エイト』と遊びたいなぁ。そしたら、頼みを聞いてあげても」
言い終えるのを待たず、旺太郎はこれもいわゆる「顎クイ」をすると、
「だからもう『エイト』じゃないの。そういうサービスはもうしてないから。遊びたいんなら、よそのホストのところに行って。──けど、そうだな。君は特別だから」
彼女の鼻と自身の鼻がくっつきそうな近さまでせまり、
「お店にチラシ置かせてよ。それと、リナちゃんから個人的に仕事の依頼もしてくれたら、俺も個人的にオプションのサービスを検討してあげる」
この世の女性の九割をしびれさせそうな流し目でささやいた。強引かつ大胆に性的な誘いをほのめかすせりふと行為は、相当な上位と世間に認められる「イケメン」にしか許されない所業だが、自分のルックスはそこに分類されると自負している旺太郎はためらいもなく実行する。そして、その自負はひとりよがりな思い込みではなく、世間に通用する純然たる事実であった。
意味深に見つめ返されたリナが、勢いこんでチラシの束をひったくった。
「ホント!? する、する!」
が、すぐに眉をよせて、
「……やっぱり、こういうの、あたしだけで決められないよ。ママさんを通してからにしてよ」
身を離した旺太郎も渋面になった。
「アヤコさんか……。苦手なんだよなあ、あの人」
嘆息を聞いてリナが首をかしげる。
「なんで? 超やさしくていい人じゃん」
「女の子にはね。アヤコさんて、俺ら男にはすっげえ当たりが強いんだよ。もうね、ドS。鬼ババ」
「ウケるー! でも、たしかにママさん、男に恨みでもあるのかって態度の時あるよね」
「でしょ! 野郎と見たら誰彼かまわず八つ当たりしてきて、あれ、更年期に片足つっこんで……」
リナとはしゃいで笑いあっていた旺太郎の頭が、後ろからはたかれた。小気味いい音が周囲にひびいた。
「痛ぇ!」
後頭部をおさえてふり返った旺太郎は、おのれの軽率さを心から呪った。
「誰が更年期の鬼ババだって?」
背後で、ひとりの女が腕を組んで仁王立ちしていた。
年齢は三十代半ばだろうか。東南アジア系のくっきりした華麗な目鼻だちで、女性にしては背が高く大柄な、しかも抜群のプロポーションの持ち主。グレーの大判ストールを羽織った下の黒いロングドレスは、大きくひらいた襟が豊満な胸の谷間を目立たせているし、深く切りこまれたスリットからのぞく太腿の白さが夜目にも煽情的だった。
クラブ『パンドラ』のママ、アヤコ。本名は不明。真偽の定かでない噂では四度の離婚経験があるという、破滅的な魔性の雰囲気をもつ美女である。
アヤコの切れ長の美しい眼ににらまれ、旺太郎はヘビを前にしたカエルの心境になった。
「うちの大事なリナをたぶらかすんじゃないよ、このエロガキ」
「……すみません」
流暢だが、どこかかすかに異国訛りの混じるハスキーボイスで釘をさしたアヤコは、顔をひきつらせて固まっているリナの持つ紙束を取りあげた。目を通し、胡乱そうに読みあげる。
「ふん、『秘密厳守。素行調査、浮気調査、なんでも承ります。人間関係や恋愛関係のトラブル解決、おまかせください』ねぇ。山ほどトラブル起こしてたあんたが今は解決する側やってるなんて、世も末だね」
「……すみません」
辛辣にきり捨てた感想に、ひたすら頭をさげるしかない旺太郎である。──実際、浮気調査とほぼ同数、浮気をでっちあげて慰謝料をふんだくるハニートラップも請けおっているのだから(しかもこの方が得意ときては)、反論しようがない。
「ここに通ってくださるお客はほとんど浮気目的だよ。こんな厭みったらしいチラシ、店の中に置けるもんか」
アヤコは旺太郎にチラシの束をつき返すと、リナに顎をしゃくった。
「リナちゃん、ご指名。このバカに妊娠させられないうちに戻りなさい」
「ひでえな、アヤコさん! 俺を何だと思ってんの!?」
憤然とする旺太郎を一瞥だけして、
「油断も隙もないエロガキ。──ほら、早くテーブルにつきなさい」
「はぁい。また来てねー、エイト、じゃなくて旺太郎」
ぞんざいに手をふって、リナはそそくさと裏口から店内へと入った。
──冴え冴えとした冷気に満ちた真冬の夜。人通りの多い表通りとは反対の寂れた路地裏。新宿という大都会のなかで、この場だけは妙に森閑とした空気を醸している気がする。壁に据えつけられた屋外灯の弱い光のなかでアヤコと二人きりでいるうち、なんとなく息のつまる思いがしてきて、旺太郎はダウンジャケットの首に巻いたマフラーをややゆるめた。
退散する機を逸してしまい手持ち無沙汰で緊張している彼をよそに、アヤコは悠然と、左手に持っていた小さなポーチから煙草の箱とライターをとり出した。箱から一本抜き、真紅のルージュをひいた唇にくわえる。同じ色のマニキュアが塗られた人差し指と中指ではさみ、ライターで火を点ける。そして、豊かな胸をゆっくり上下させて、ふうっと煙を吐きだした。
ながめながら、旺太郎は「この色っぽい女にこんなに色っぽく吸われて、あの煙草も本望だろう」などとくだらないことを考えた。
「聞いたよ。水商売から足を洗ったんだってね」
「ええ」
ただよう紫煙は、やがて、満月というには少々
「あんたなら当分、ナンバーワンも安泰だったろうに。ずいぶん思いきった決断をしたのは、何か理由でも?」
探るような視線をうけて、思わず目をそらす。
「いろいろ、ありまして」
「ふぅん。……“いろいろ”、ねえ」
納得したかしないかわからないつぶやきのみを残して、彼女は煙草を吸っている。説明を重ねるべきか迷った末、旺太郎も無言をつづけることにした。
──と。
くわえ煙草でアヤコが一歩、近づいた。旺太郎の手にあるチラシをとん、とつつくと、
「それにしたって……どうせ転職するならもっとまともな仕事を選びなさいよ。まっとうに会社勤めしたら、どう? まだ若いんだし、いくらでもやり直しがきくでしょう」
夜の街の女王と呼ぶにふさわしい姿の彼女から、まるで母親みたいな苦言を呈された。予想外に気遣われて虚をつかれると同時に、嬉しさもこみあげた。
「サラリーマンなんてガラじゃないですよ」
半分はおどけて、もう半分は照れ隠しで肩をすくめた彼を、しかし彼女は深沈たる眼で見すえる。それこそ、聞きわけのない息子を諭す母の口調で問いかけてきた。
「ホストが天職みたいだったあんたが、キレイさっぱり全部捨てたんだ。もしかして──女を喰いモノにする人生のままじゃ顔向けできないひとができたから、とかじゃないの? それで、そのひとに対して恥じない生き方をしたくなったんじゃないの?」
──なんでもお見通しかよ。これだから、この人、苦手なんだっつうの──
投げられた問いは、鋭い刃となって胸の奥をえぐった。えぐられた痛みは懐かしさや悔恨や愛しさや諦めや、さまざまな想いとごちゃ混ぜになって混沌とした感情の渦を巻き、そのなかにひとりの女の面影が浮かんだ。
旺太郎は動揺をおし隠し、生涯忘れられないだろう面影を渦の底へと沈めてから、作り笑いをした。
「ご想像におまかせします。──でも、さすがアヤコさん。言葉に重みっつーか、深みがありますね。これが年の功とか、老婆心とかってやつ?」
「あんたはいつも、ひと言余計」
強がってひねり出した軽口を、相手は整った眉を片方もちあげただけでいなした。
「まあ、いいわ。精々がんばりなさい」
ポーチから出した携帯灰皿に煙草をつぶし、
「うまくいかなくて借金まみれで首が回らなくなったら、吊る前にうちにおいでよ。皿洗いに雇ってあげる」
「縁起でもないお節介、どうも。自分のケツは自分で拭けるんで、その親心だけで充分ですよ」
アヤコのすこし厚めの唇が、きゅっと紅い弧を描いた。
「生意気言うようになったじゃない。成長したわね、坊や」
軽くあしらわれてむくれた旺太郎に歩み寄ったアヤコが、ふいにその肉感的な唇を彼の右頬に押しあてた。
メンソール煙草の残り香と、薔薇に似た強めのパルファムと、頬にふれた感触とぬくもり。──歌舞伎町で名を馳せた元ナンバーワンホストが一瞬酔わされ、眩惑されかける。
「もうお外は真っ暗よ。いつまでもおイタしてないで、本物のママのところに帰りなさい」
艶麗きわまる微笑みを眼華として灼きつけて、『パンドラ』の女主人は悠々と店へ戻っていった。
寒空の下に一人とり残され、しばらくあっけにとられていた旺太郎だったが、
「……“坊や”を誘惑するなよ」
苦笑いをこぼしつつ、口づけられた頬をそっとぬぐった。……もったいない気もしたものの、ルージュの跡を見せびらかして歩くほど悪趣味ではない。
営業の成果は結局、挨拶代わりのキスひとつ。努力と見合わなくて、徒労感にため息をつく。狙う相手を間違えた……今日はツイてねえな……そういや夢見も悪かったし……と、心中で言いわけを連ねた。
昨夜の夢の内容はおぼろげだが、断片的な映像は苦い後味とふかい自責とともに胸にこびりついたままだ。──揺れるうす暗い船内。──すがりつく小さい掌。──横たわった小柄な人影。──眼を刺すあざやかさの鮮血。──
旺太郎は、ふたつの過ちを犯している。犯したと信じている。十三年前と、約一年前の、ふたつのその罪の記憶がブレンドされて生成された悪夢が、ここ半月ほど彼を苦しめていた。原因は、なんとなく思いあたる。──クリスマスイヴだ。
クリスマスイヴは旺太郎にとって、この国の一般の人々よりずっと大事な、重要な意味をもつ。イヴは光太を喪った日だった。そして、宰子と出逢い、再会した日でもあった。
だから、十二月二十四日が近づくにつれ二人が頻繁に夢に現れるようになって、罪悪感を思い出させてくれているのだろう。きっと、この先も一生、罪の深さを二人がおしえ続けてくれるのだろう。……
そう納得して、足元に置いていたリュックサックに手をのばす。
「疲れた。……帰ろ」
チラシの束をしまおうとした時、後ろから声をかけられた。
「すみません。そのチラシください」
「はい、喜んでー!」
愛嬌たっぷりに応じてふり向いた旺太郎は、瞬時に無表情となった。
「なんだ。長谷部か」
「『なんだ』とはなんだよ!?」
声を荒げた相手は、旺太郎と同年代の、背格好もよく似た青年だった。顔だちも同等に整っているが、やや垂れ気味の黒目がちで、色が白くふっくらした頬と不満を丸出しでとがらせた唇とが幼さを感じさせる。水商売で磨かれた旺太郎の美貌が妖しさをふくんで凄艶なのに対して、青年のどこか子犬めいた純朴な童顔には育ちの良さと素直さが見てとれた。
長谷部寛之。国内最大手のクルーズ会社『オーシャン・ロング・ヴァレー』の御曹司である。
「あいかわらず失礼なヤツだな! 腹たつなあ、その偉そうな態度!」
本来は(旺太郎の知る限りでは)下がっていることが多い眉をつりあげて怒る長谷部に、大げさに顔をしかめてみせた。
「おまえもあいかわらず犬みたいにキャンキャンうるせえなあ。で、何? 冷やかしなら丁重にお断りしたいんだけど」
それから、上下真っ黒のウインドブレーカーに空の配達用バッグを小脇に抱えた制服姿をしげしげとながめて、
「おまえ、まだ『ナイトデリバリーサービス』で働いてたの?」
たずねられた長谷部が、思いっきり不愉快そうにした。
「働いてて悪いか。それより、おまえおまえ、ってさっきからなれなれしいな。友達でもないくせに」
命を救うために何度も何度も奔走してやった「友達(仮)」から他人行儀に冷たくされて、歯がゆさをおぼえたものの、すぐに「そりゃそうか。“この長谷部”とまともに会話したのは二、三回だけだし」と気分をきりかえた。
「っていうか、どうして僕のバイト先を知ってるんだ?」
露骨に不審がられ、あわててとり繕う。
「あー……それは……その制服に見憶えがあってさ。その会社、俺のいたホストクラブの出入り業者だったから」
「──あっ! クラブ『ナルキッソス』か! 最近あんまり注文来ないから、忘れてた」
長谷部が腑におちた表情になったので、こっそり胸をなでおろす。こういう、“タイムリープ”後のつじつま合わせに苦労するのは、いつ以来だろうか。
……やっぱり、“この世界”でたった一人、俺だけが“異物”なんだな……
ひさしぶりに実感して、すこし切なくなった。
「ところで、ホストの方こそ、こんなところで何してるんだよ。副業か?」
今度は長谷部が、ワインカラーのショート丈ダウンジャケットに黒スキニーをあわせた私服姿をジロジロと見まわしてきた。
「残念でした。今はこれが本業。ホストは辞めたよ、とっくに。今の俺、こう見えて私立探偵やってまーす」
「探偵……」
ポーズをとってウインクした旺太郎を真顔でスルーして、長谷部は黙りこんだ。
スルーされた不服をのべようとしたその時、十五メートルほど離れた道路脇に停車している紺色のワンボックスカーが目に入った。車体の『Night Delivery Service』の文字と助手席にちらりと動いた人影が見えて、旺太郎はとっさに長谷部を盾にして身を隠した。
「な、なんだよ、いきなり。離れろよ」
困惑する長谷部へ語気鋭く、
「おまえ今、誰と組んでまわってる!? 女!?」
「え? ……駒沢さんと僕の二人だけど?」
初耳の名前だ。もしや、と頭をよぎったものとは別の名字でほっとした。
「駒沢……それって男?」
「うん。僕、女性とはほとんど組まされないし」
「そっか……」
「なんでそんなことを気にするんだ?」
旺太郎のようすに首をかしげていた長谷部が突然、大声をあげた。
「あ! ひょっとして、うちの女性スタッフも狙ってるのか!? また下品な手を使ってたらしこんで、金でもだましとるつもりなんだろ!」
「ンなわけあるか!」
「おまえなあ、悪行もいいかげんにしないと、店長に伝えて出禁にしてもらうぞ!」
「だから違うって!」
旺太郎の否定を信じる気はないらしい。これ以上、寒夜に屋外で低レベルの言い争いをつづけるのは、時間と体力の無駄だろう。
「もういい。配達中なんだろ、サボってんじゃねーよ。さっさと戻れ」
長谷部にシッシッ、と追いはらう仕草をした。が、彼は逆に、片手をさし出してきた。
「言われなくてもそうするよ。──その前に、それ」
「あぁ?」
「だから、チラシ。一枚くれないか」
「冷やかしはお断りっつったろ」
舌打ちしても、さし出された手は引っこまない。
「冷やかしじゃない。ホストが今は探偵やってるんなら、ちょうどいい。調べてもらいたいことがあるんだ」
真剣な口ぶりと面持ちだった。旺太郎もそれに倣い、真剣に確認する。
「──仕事の依頼?」
「そう」
「だったら、打ち合わせの場をもうけないとな」
「そっちの都合がつくなら、明日の昼休憩の時にくわしい話をしたいんだけど」
「明日ねえ……」
旺太郎がもったいぶって腕組みをすると、長谷部がニヤリとした。
「どうせイヴでも暇をもてあましてるんだろう。チラシ配りに精を出さなきゃいけないくらいに、さ。予定を入れてやるから感謝しろ」
皮肉が、長谷部にしては意外なほど切れ味がいい。旺太郎もニヤリとし返した。
「ありがたいね。感謝の気持ちだ、報酬額はクリスマスのサービス特価にしてやる。通常の倍でいいぜ。──けど、金持ち以外に取り柄のなかったお坊ちゃんが、なかなかの口きくようになって。すこしは社会勉強が身についたみたいだな」
「ああ、人生経験つんでるよ。去年、うさんくさいホストから『社会に出て揉まれろ』って、余計なお世話のアドバイスをもらったおかげでね」
厭みの応酬にも動じない余裕の笑みはたしかに、目元のあたりや顎まわりが以前よりシャープというか、精悍さが出てきたように見える。世間知らずのボンボンだとばかり思っていたが、この一年でこいつも成長したらしい、と旺太郎はちょっと瞠目した。
「うちの店の場所も知ってるのか?」
「もちろん」
「“もちろん”? ……ま、いいか」
長谷部は首をひねってから、気をとり直した風で、
「店の前の通りを駅に向かってまっすぐ行った交差点に、『ヘルメス』ってカフェがある。看板に竪琴のイラストが描いてある。そこで十二時に待ち合わせはどうかな?」
「了解。──ああ、それと」
チラシをしまったリュックサックを肩にかけると、旺太郎は上着のポケットから革製の名刺入れをとり出した。中から一枚ひき抜き、渡す。
「ホストホスト、ってさっきからうっとうしいんだよ。とっくに辞めたって言ったろ」
うけとった長谷部が、名刺と旺太郎とを交互に見やって、あきれた声をもらした。
「……『エイト』の次だから?」
流れるように優雅に会釈した旺太郎は、妖艶な──並みのホストとは比較にならない、圧倒的に妖艶な──キメ顔を見せた。
「『ナイン探偵事務所』所長、堂島旺太郎です。よろしく」
三 ────
翌日、十二月二十四日。正午。
待ち合わせ場所に指定された喫茶店『ヘルメス』は、歌舞伎町のすぐ近くなのがふしぎなほど上品な、落ち着いた趣きのある店だった。天然木を基調とした洗練されながらも温かみのある内装と、マスターこだわりの豆から挽いたコーヒーの芳醇な香りが心地よくて、旺太郎は「さすがセレブのセンス」と感心した。
ランチメニューのAセット『アボカドとシュリンプのチーズサンドウィッチ』を(旺太郎から「意識高い系がドヤ顔で食う定番メニュー」だとからかわれながら)食べ終えた長谷部が、食後のカフェオレを味わっているタイミングで、旺太郎は口をひらいた。
「要するに、その女の身辺調査ってことか?」
中身が半分まで減ったコーヒーカップ(ちなみに二杯目)を雑にソーサーに戻す。陶器同士がぶつかったカチャン、という高い音が、店内の静謐を演出していたやわらかなクラシックに不協和音として加わって、長谷部が眉をひそめた。
「『女』じゃなくて『女性』って言えよ。本当に失礼で下品だな」
「はいはい、どーもすいません」
旺太郎とは正反対の丁寧な手つきでカフェオレのカップを置くと、組みあわせた両手の指をモジモジさせはじめた。
「身辺調査なんていうほどプライバシーの侵害をしたいわけじゃないんだ。ただ……ほんのちょっと……休日の過ごし方、とか。普段の交友関係とその友達の素性、とか。……こ、交際してる人はいるのかな、交際してなくても、す、好きな人はいるんじゃないか、とか。そんな、ちょっとした情報を知りたいなー、って」
「それを調べるのを身辺調査っていうんだけど」
頬を赤らめてつっかえつっかえ話す長谷部に、旺太郎は冷たくツッコミをいれた。
店の最奥のボックス席を陣取り男二人向かいあって、密談よろしくもちかけられた依頼がどんな重大案件かと期待したのだが、蓋をあけてみれば何のことはない、「片想い相手のプライベートを知りたい」ときた。こちらはブラック二杯のみでランチタイムにつきあってやったというのに、聞かせられた詳細がくだらなくて落胆を禁じ得ない。
……そんなもん、直接その女と話せばいいだろうが。わざわざ探偵を雇おうとか、こいつはバカか。ストーカーか。二十二にもなって、気になる女をデートにも誘えないのかよ、この根性なし。……
胸中で毒づきながら、隣のガラス窓に目を向けた。きれいに磨かれた大きな窓から見える新宿の雑踏は聖夜の到来を喜び、にぎわい、いつも以上に華やいでいる。眼前の長谷部も窓の外の人々も、のんきに浮かれているとしか思えなくて、旺太郎はうんざりした。
「それで、どうなんだ? 依頼をうけてくれるの?」
せっつかれて、不機嫌な顔を正面へと戻す。
「こっちとしちゃ、単なるビジネスだからな。金さえ払ってくれるなら、正当な仕事として請けおうさ」
ぱっと喜色を浮かべた長谷部を、しかし、眼でおさえた。
「だけどな、考えてみろよ。おまえが相手の女だったとして、ろくなアプローチもしてこないで、他人の力を借りて陰でコソコソと自分の周囲を嗅ぎまわるような男に好感をもつか?」
一旦かがやいた長谷部の表情が、みるみる曇っていく。
「それは……」
旺太郎は、淡々としながらも、ややきびしい口調でつづける。
「予防線をはってからじゃなきゃ、行動を起こせないのかよ。なあ、長谷部。男だったら、当たって砕けろで一発、惚れた女に真正面から告白してみな」
「…………」
「外堀埋める小細工ばっか考えてないで、まずは、おまえの素直な気持ちを伝えろ。すべてはそれからだよ。──伝えなきゃ、何も届かないぞ」
自然にあふれてきた言葉は、長谷部を説得するためのものだ。だがそこに、かつて別の人間を説得した言葉が混ざりあって聴こえた。
(美尊さんの幸せを心から願うなら、養子だとか、過去の秘密だとか、そんなもん全部とっぱらって、彼女に素直な気持ちを伝えてやれ。それが彼女の幸せのためだよ。──伝えなきゃ、何も届かないぞ)
無意識のままに動いたのどが、ふるえた耳朶が、うずいた心が、去年の大晦日の光景を瞼によみがえらせた。
「素直な気持ち……」
長谷部はなにやら思案していたが、ややあって、深くうなずき破顔した。
「わかった。僕、勇気を出して告白する!」
長谷部の明るい笑顔には、やはり子犬を思わせる天真爛漫さがある。一歳下の彼が見せた幼さに、一瞬、弟の面輪が重なった。重ねてしまった自身に驚いた。
「おまえの言う通りだよ。得体のしれないホストくずれの探偵に頼ろうとするなんて、僕は浅はかで卑怯だった」
「……なんかスゲーむかつく反省の弁だけど、勇気が出たんならよかったな。その意気でぶつかって来い。健闘を祈る」
つい兄貴ぶったエールをおくってから、ふと、思う。──長谷部寛之にも、並樹尊氏にも、俺なんかが偉そうに言えた立場じゃねえよな。──
うすく自嘲の笑みを浮かべた。
「──なんてね。実をいうと、俺はそれができなかった。おまえに説教する資格なんてないんだけどさ」
ひくいつぶやきの寂しさに気づいたか、長谷部が怪訝そうにした。
「堂島?」
旺太郎は声のトーンを高くして、場の空気と感傷とをごまかした。
「……まあ、とにかく! ここからは依頼じゃなく相談として、話だけは聞いてやるよ。で? 相手はどこの誰?」
勇気が出たはずの長谷部が、おどおどと視線をさまよわせる。
「えぇと……その……なんていうか……つまり……」
旺太郎はふたたび手にしたコーヒーカップを前後にかるくふりながら、先をうながした。
「面倒くせえな。長谷部のくせに、いっちょまえに照れてんなよ。早く言え」
「う、うるさい! …………職場の、せ、先輩」
うながす手が止まった。
「…………職場の?」
半分残っていたコーヒーを一気に飲み干し、ゆっくりと(やたらゆっくりと)カップを置いた。ある予感を抱いて、長谷部を見つめる。
「名前はまだ言わないで」
「どうして?」
「どうしても!!」
異様な気迫で相手が鼻白むのもかまわず、質問する。
「その女って、どんな性格?」
「性格? そうだなぁ……やさしくて、もの静かで、奥ゆかしくて、大和撫子を絵に描いたような」
「陰気な雰囲気で?」
「そう。陰気っていうか、控えめで口数が少ないからあまり会話もしたことないけど、時々、はっとするような新鮮な発言をするのが意外で印象的で」
「いつも仏頂面で?」
「そう! 仏頂面っていうか、無表情が多くて感情を読みづらいんだけど、その分、めずらしく笑った顔を見られた時なんかはこっちまで嬉しくなったりして」
「ガキっぽい見た目の?」
「そうそう! 子供っぽいっていうか、素朴。純粋。メイクもうすいしファッションも地味だから目立たないけど、でもよく見たら元々の顔だちがすごく綺麗なひとなんだ。色白で、黒髪が清楚でさ──」
──ビンゴ。
予感が確信に変わった。
旺太郎は重たい絶望感におし潰され、しかも妙な清々しさにも包まれた。万感の思いをこめて長谷部の肩をたたいた。
「長谷部。すまん。正直、俺はおまえをナメてた。でも、見直したよ。まさかホントにあいつを選ぶなんて……あいつの魅力がわかるなんて……。おまえの女を見る目は確かだ。自信をもて」
「なんだよ、急に。気持ち悪いな。……いや、それより!」
長谷部は後ろに身をひきかけてから、前へ身をのり出してきた。
「何その上から目線!? 『あいつ』って、おまえ、彼女の何なんだよ!?」
「それはな、話せば長くなるから、話さない」
と、すげなく一蹴すると、
「おまえは頼りなくて情けないけど金だけはもってるし、バカがつくほど単純で真っすぐないいヤツだし、浮気して女を泣かせる甲斐性もなさそうだし、安心してあいつをまかせられる。頼んだぞ」
「やめろ、その父親目線! しかも褒めてるようでけなしてるし!」
顔を真っ赤にした長谷部が両手でテーブルをたたいて、立ちあがった。
「堂島、おしえろよ! 桜新町さんとどういう関係!?」
「そう、桜新町。…………桜新町?」
旺太郎はうつむいて目頭をおさえていたが、数秒間停止したあと、キョトンとして見あげた。
「それ、誰?」