Clotho

「Clotho」(クロト)は人間の運命を司る三姉妹の長女で、糸巻き棒から運命の糸を紡ぎ出す(自らの手で人生を選び取る)女神の名前。


一 ────


 一流シェフによるフレンチのフルコースに未練はまったくなかった。イチゴひと粒しか食べられなかったチョコレートファウンテンだけには正直、後ろ髪をひかれたものの、それより、こんな場所にこんな相手と一緒にいる方がよほど耐えがたかった。
 加えて、高級レストランで豪華なディナーを思い思いに楽しんでいた店内の空気を凍りつかせた元凶は、まぎれもなく自分である。目もくらむほどの怒りと不快感と、穴があれば入りたい恥ずかしさと後悔にかられた宰子は、その場から逃げだそうとした。
 駆けだす直前、背後から右腕をつかまれた。強くひき止められてふり返ると、約二十センチ上からひどく冷ややかな視線が向けられていて、その鋭さにドキリとした。
「自分だけまくしたてて帰るのはずるいだろ。──次は俺の番だよ」
 不満を伝える声は、これもひどく冷淡で乾いている。宰子と接する時のエイトはたいてい、斜に構えて軽口をたたくか、ふざけておちょくるか、余裕ぶって見くだすか、がほとんどだ。そんな享楽的で軽薄で傲岸不遜な彼が、彼女に初めて見せた態度だった。
 宰子は、右腕をつかんだ力が強まってくる感触に恐怖をおぼえて、
「……怒ってる、の?」
 ひきつってうまく動かないのどから、やっとの思いでそれだけをしぼり出したが、
「怒ってない。怒ってないけど、悲劇のヒロインぶってるのがむかついただけ」
 本気のような冗談のような低音で返されて当惑する。……何よ、それ。やっぱり怒ってるじゃない。……
 不穏な雰囲気に首をすくめた彼女を見下ろして、エイトが片方の口角をもち上げた。
「君って、世の中で自分が一番不幸だとか思ってない?」
 唐突に質問を投げてきた。そこにあきらかにふくまれた揶揄のひびきと、周囲の客からの訝しげな注視が、宰子の動悸をはげしくさせた。
「人間、生きてれば辛い経験くらい誰でもしてる。それは誰だって……俺だって同じだ。君の過去のトラウマを笑うつもりはないし、傷ついた気持ちには同情する。でも、だからって自分だけを不幸ぶるなよ。──“普通”とひき換えに“力”を手にしておいてさ」
 いっぱしに講釈をたれてきた。そこに隠しきれずにじんだ嫉妬のひびきと、店中にひそひそと流れるさざめきが、はげしい動悸を強い憤りに変えた。
「こんな“力”……欲しくなかった! “宝”なんかじゃないって言ったでしょう!」
 感情の昂ぶりとともにまた涙がこみあげてくる。視界がゆがむ。鼻の奥も痛い。──それでも、言われ放題のまま泣いて屈するのだけは我慢がならなかった。反論できないなどと見くびられたくなかった。
「もう私にかかわらないで! 踏みこまないで! “同じ”だなんて簡単に言わないで! あ、あなたに何がわかるの!?」
 ふるえるこぶしを握りしめ、必死ににらみ上げる。──と、エイトはただよわせたうす笑いに奇妙な親しみを混ぜて、ややかがんで目線をあわせた。
「わからない。わからないから、知りたくなった」
 たしかな熱がこめられた返答に、息をのんだ。ガラス玉みたいに澄んだ眼に、思考が止まった。
 そのかん、およそ三秒。
 ──三秒後、われに返って、ホストの十八番おはこ だろう口説き文句に惚けてしまった自身を猛烈に恥じた。
「か、か、帰る! 離して!」
 背こそ高いものの体格はかなり痩せ型のエイトだが、やはり男性の握力、焦って身もだえしても宰子の細腕では拘束をふりほどけない。
「ごめん。わるいけど、まだ帰せない。ついてきて。話があるんだ。どうしても聞いて欲しい、大事な話」
 思いがけなく真剣な口ぶりはどこか切実さをおびていて、それに気づいた彼女は抵抗をやめた。ようやく解放された右腕をかばいながら、不審もあらわに上目遣いで見やる。
「大事な? ……よく知りもしない、信用もできないひとが、私にどんな話?」
 エイトがみじかく口笛を吹いてニッとした。
「意外と言うねえ。じゃあ訊くけど、なんでさっき、あんなに長々と本音をうち明けてくれたんだ? よく知りもしない、信用もできない俺なんかに」
「…………」
 唇を噛んで無言をつらぬく宰子へ、ぐっと顔を近づける。
「さっきのあれって、挨拶代わりの自己紹介? 言いたくなったら誰にでもすぐぶちまけるのか? ──そうじゃないよなぁ」
 歌舞伎町でトップクラスと名高いホストクラブ『ナルキッソス』のナンバーワンを勝ちとった容姿は、『神の手による芸術品』と形容したい美貌である。互いの鼻が触れそうな距離までせまられて、呼吸も忘れてドギマギした。身体が熱くなった。
「相手が『俺』だからだろ。もしかして──運命感じちゃった?」
 鼓膜をなでて心奥をしびれさせるささやきは、そよぐ風のようにやさしく、香る花の蜜のように甘い。──それは、身体どころか、魂までも蕩かしかねない魔魅の誘惑だった。
「……かっ、感じてない! そ、そんなの、あるわけない!」
 堕ちかけて、けれどかろうじて踏みとどまった宰子に、蠱惑の唇が接吻寸前の近さで問いかける。
「そうかな? 本当に? 俺は運命を感じた。君しかいないと思った」
 まぶしくかがやく透明な瞳が宰子をとらえて閉じこめる。
「宰子のことをもっと知りたい。それに、俺のことも知って欲しい。なあ、俺達二人なら、足りないものを──」
 彼女の耳には説得ではなく懇願に聞こえる、切実さを増してつむがれた彼の言葉は、途中でぴしゃりとさえぎられた。
「申しわけございません。お客様」
 毅然とした声の主は、いつの間にかすぐそばに立っていた中年のギャルソンだった。ミシュラン掲載の有名店のスタッフにふさわしい丁寧な物腰で、しかしきびしい表情で二人のあいだに割って入る。
「ほかのお客様にご迷惑となりますので、控えていただけませんか」
「ああ、すみません」
 素直に謝ったエイトはスーツの内ポケットから札入れをとり出し、中身を無造作に抜きとった。
「チェックをお願いします。釣りはいらない。迷惑料にとっておいて」
 十枚ほどの万札を手渡されたギャルソンが、まとっていた警戒をすっと解いた。
「ごちそうさま。いい店ですね、さすが二つ星だ」
「恐れいります」
「今日はこれで失礼するけど、次はちゃんと料理も堪能させてもらうから。またよろしく」
「ありがとうございます。ぜひ。お待ちしております」
 落ち着いた品のいい言葉遣いと、スマートな大人びたふるまい。場慣れした、優雅とすら感じさせるエイトの応対は、宰子がこれまで見てきた奔放かつ直情的な彼の言動とはかけ離れていた。
 ギャップの大きさにあ然とするとともに、ナンバーワンと謳われるだけある社交術に舌を巻く。詐欺師もはだしのこの二面性。あがり症で口下手な彼女では太刀打ちできず、毎度、彼のペースに巻きこまれて翻弄されるのは無理もない。
 ……「俺のことも知って欲しい」なんて、結局は演技派のホストのせりふだ、“本当の彼”は私には理解できないくらい複雑で不可解で危険な人間なのかも……と宰子は考えた。
 トラブルが収まったと察した周りのテーブルではなごやかなディナーが再開されつつあったが、宰子だけは、とどろく胸をおさえて平静をよそおうのに苦労していた。早鐘をうつ心臓は羞恥と反感のせいだと決めつけたいのに、それだけではない気がするのが悩ましかった。
 ギャルソンに続いてフロアを後にしようとしたエイトが足を止めて、ふり向いた。とまどい立ちつくす宰子に手をさし出し、
「おいで、宰子。“本当の俺”を見せてあげる。特別に、おまえだけにね」
 誘う笑顔はまるで、とてつもなく貴重な宝物を見つけたように嬉しそうに──または、途方もなくばかげたイタズラをひらめいたように愉しそうに──宰子には見えた。


二 ────


『ナイトデリバリーサービス』では、イートインスペースで従業員が休憩をとるのが許可されている。この店の立地と営業形態上、店内で飲食する客はめずらしいのもあって(売り上げの六割は新宿歌舞伎町界隈の常連店への夜間デリバリー、三割は企業や個人が開催するパーティーへのケータリングサービスである)、混雑時でなければバックヤード以外に客席もスタッフが使用するのを認められている。
 なので宰子は、陽あたりのいい窓際のテーブル席で、二月十四日の清々しい青空をながめながら昼休憩を過ごしていた。
 だが──。
 くつろぎのひとときは突然、足音荒く店に駆けこんでくると断りもなく無遠慮に対面の椅子へ坐った(店内は閑散として空席だらけにもかかわらず)人物によって邪魔されることとなった。
「惨敗だよ! 百億は婚約しちゃったし……」
 さっきまで宰子が目を通していたテーブル上の写真週刊誌を、向かいから伸びてきた長い人差し指が苛立たしげにつつく。
「俺はひどい扱いだしさあ」
 ひらいていたページは、並樹グループの長女と元長男の婚約発表を伝えるゴシップ記事。そこに申しわけ程度に小さく『哀れ、捨てられたホスト』と解説された(ご丁寧に犯罪者まがいの目隠し線をひいた顔写真付き)エイトが、哀れさとはほど遠い不敵さでニヤリとした。
 自信満々で見つめられて、宰子はその自信の意味を汲みとって眉間にしわを寄せた。長谷部寛之の自殺の原因とはいえ、また、エイトの父親の冤罪にかかわるとはいえ、ビデオテープ一本のためだけに“四度目”の二月七日に“戻る”のは、いくら献身的な性格の彼女でもさすがにうんざりだった。
 ──それに、春海の残した「何度も同じ時間をくり返すと、もとの出来事が抵抗して自分に降りかかってくる」という予言とも忠告ともとれる不吉なひと言が、耳にこびりついて離れなかったせいもある。
「もう、いいかげんにして」
 拒絶を言葉と態度ではっきり示したら、鼻先に紙袋がつき出された。
「香港のお土産。渡しそびれたから持ってきた」
 広東語が印字された紙袋を前にして揺らぐ決意に、芝居がかって甘ったるい呼びかけが追いうちをかける。
「おいしいらしいぞ~。カワイイらしいぞ~」
「カワイイ」にあっけなく敗北した宰子が浮かせていた腰をもとの位置へ戻すと、エイトは眼を細めて頬杖をついた。
「仕事、何時まで?」
「五時」
「なら、五時に待ち合わせ、な。一緒に帰ろうぜ」
「……ひとりで帰れる。ついてこないで」
「これはどうするの?」
 おいしいらしくてカワイイらしい香港土産の袋が、左右に揺れる。
「今、もらう」
 伸ばした宰子の手から、袋がサッと逃げた。
「冷たいね。宰子が好きそうなお菓子を香港中探してきた健気なパートナーに、お茶の一杯ぐらいくれてもよくない?」
 ニヤニヤした目つきと含みのある物言いは、お茶とは違うモノをお礼に期待しているのが明白だ。宰子は頬をふくらませた。
「よく言う。キ、“キス”が目当てなだけでしょ」
「それだけじゃないよ。もちろん、それもあるけど」
 返事は予想を裏切らなかった。ほらね、やっぱり……と、そっとため息をこぼす。
「お土産なのに……物々交換みたい……」
 エイトはしたり顔で、
「この世のルールはギブアンドテイク。おまえのリクエストにこたえたんだから、俺のリクエストの方もよろしくな」
 納得いかないふくれっ面の宰子の肩をかるくたたいて、立ちあがった。宰子好みだというお菓子が隠された紙袋を手放さずに。
「それじゃ、また後で。……あ! 俺、もしかしたら五時より遅れるかもしれないけど、急いで来るから。ここで待ってて」
 下心はともかく、見た目だけは無邪気に爽やかに笑う。つられて、宰子も微笑を返していた。自然とうなずいていた。
「わかった。待ってる」
 そんなせりふも、用意するまでもなくすらすらと流れ出たのがふしぎだった。
「なるべく急いで来るから、待ってろよ!」
「わかったってば」
 念を押しながら店の出入り口へ歩いていく端整な長身を見つめて、想う。ガラス扉をあけて歌舞伎町へと去っていく颯爽たる後ろ姿を見おくって、悟る。自宅でも、プールでも、ビルの屋上でも、警察署でも、いつだって“キス”は「催促」止まりで「強要」ではなかったから、本気で拒もうとすればできたはずなのに。“キス”を交わせば交わすほど、後ろめたさと虚しさが深まるだけなのに。にもかかわらず、彼の要求を受けいれ続けてきた理由を。
 人命救助だから──乗りかかった船だから──“契約”を結ばされたから──と、次々に言いわけを変えては本心と向きあうことから逃げてきたが、あの笑顔ひとつでここまで胸があたたかくなるのだからもうどうしようもない。悔しくても認めるしかない。
 残念だけど、これは恋だ。あろうことか、私はあのクズのホストに恋をしてしまった。
(──運命感じちゃった?)
 いまだ鼓膜に刻まれたささやきは、天上の音色のようにやさしく、悪魔の睦言のように甘い。
(おいで、宰子)
 分岐点はきっと“三度目”の一月十二日。あの夜、目の前にさし伸べられた手に惹かれて自らの手を重ねたあの瞬間から、ひき返せない道に足を踏みいれていたに違いない。……ああ、もう、本当に残念で悔しい!
 宰子は人生最大の誤算に絶望した。そして、その後。
 真っ赤な顔を両手で覆ってテーブルに突っ伏したまま、残りの休憩時間を過ごすはめとなった。
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