Narcissus

「Narcissus」(ナルキッソス)は絶世の美貌を持ちながら他者の愛を侮辱する自惚れにより、泉に映った自身に焦がれて溺死した青年の名前。
死後は水辺に咲く水仙の花と化したとされる。


 “三度目”の一月十二日の新聞は、私をひどく憂鬱にさせた。
『並樹グループ社長令嬢傷害事件』『手首に軽い怪我』──。一面記事におどる活字は“二度目”の時とほとんど同じだったけれど、活躍した人物の名前だけが“前回”とは変わっている。
『歌舞伎町ナンバーワンホスト暴漢撃退』──
 “今回”も軽い怪我で済んでよかった、という安堵を台無しにしかねない一文から眼を離せない。……これが、あのホストの望んだベストな未来なの? こんなことのために、私はあのひとに七回もキスをしたの?
 徒労感にこめかみをおさえながら、私は新聞の中の得意満面の笑顔を指先ではじいた。
「……クズのナンバーワン」
 そうつぶやいた時、玄関のチャイムが鳴った。


 ……その特殊能力はいつ身につけたのか、生まれつきかそれとも雷にうたれたのか、キスしたら君もタイムリープするのか、その前に君も一回死んでるのか、……矢継ぎばやに質問を投げかけてくるぺらぺらとよく動く唇──私が七回キスした唇──を、私は冷ややかに見つめつづけた。……本当によくしゃべる男。口から先に生まれた、って多分、こういうひとのためにできた表現なんだわ。
 まともに会話するのも数えるほどな相手にプライバシーをずけずけと詮索される不快さに、ここへ来てしまったことを心の底から後悔した。やっぱり、玄関でタクシーの運転手から「姫を晩餐会へお連れするように、と」なんて伝言を聞かされた時に、即座にドアを閉めてカギをかければよかった。運転手さんがあまりに誠実そうで冷たくあしらうのは気がひけて、ついタクシーに乗ってしまった自分がバカだった。
 それから一時間後の、今。
 私はフレンチの一流店と思しきこのレストランで、ホストのエイトこと堂島旺太郎からディナーをふるまわれるはめになった。プールでだましたお詫び、ではなくお礼だと言ってのけるところに、彼の人間性がよくあらわれている。……来たら来たで、店の内装も食器ももちろん料理もまぶしいくらいに綺麗だし、窓からのぞく新宿の夜景は宝石をちりばめたみたいに素敵だし、憧れのチョコレートファウンテンも体験できたし(イチゴひと粒しか食べられなかったけど)、そう悪いことばかりでもなかったけれど……それでも、早く家に帰りたい。
 私はこのひとの眼が、すごく苦手。ガラス玉のように透明にかがやくこの眼にまっすぐ見つめられると、その中に自分が映っているのを確認すると、胸の奥の方がザワザワとしてきて落ち着かなくなる。息苦しさまで感じてくる。だから、私は質問を無視して、彼の顔の下半分に意識を集中させることにひたすら専念した。
 黙ったままの私に業を煮やしたのか、彼は微笑(いわゆる営業スマイル)をすっと消して、口をとがらせた。
「少しぐらいこたえてくれてもいいだろ」
 おあいにくさま、こたえる義務なんてありません。
「──まぁ、見たところ、あんまり使ってなさそうだけど」
 語尾にからかいをふくんでいるのに気づいても、中性的な顔だちのわりに低めの彼の声はそんなせりふでも悔しいくらい耳に心地よくて、腹が立つより先に感心してしまう。──さすがナンバーワン。
 ──正直に認めちゃおう。高校以来ずっと眼を背けてきたおぞましい“キス”を、なけなしの勇気をふりしぼって試してみる気にさせたのは、最初に彼を見た時の第一印象だ。ありていに言えば、彼の容姿。このひとがもし死んでしまったら、泣いて哀しむ女性がたくさんいるだろうと思ったから(でも、美しい外見に反比例して中身はどうしようもないと知った今では、泣いて喜ぶ女性の方が多い気もする)。
 だって、それほどに、堂島旺太郎はルックスがいい。
 ホストを辞めて芸能人になったとしても充分やっていけるんじゃないかしら。実際、昨日、事務所に広げてあったヒロミさんの女性ファッション雑誌(ヒロミさんは最近いつもファッション誌を読んでいる。とても楽しそうにウキウキとして)の『今年ブレイク確実!!イケメン俳優特集』というページにも、彼を超える男性は載っていなかったし。
 そんな彼に強引にせまられて(壁ドン、というらしい)「どういう男がタイプなんだよ。もしかして──俺?」とささやかれた時なんて、思わず……違う違う違う絶対に違う! 私のタイプはこんなのじゃなくて! もっと穏やかで、やさしそうで、肩をかして助けてくれる頼りがいのある──
(ねえ──大丈夫?)
 遠く、あの男の子の声が聞こえた。まだ舌たらずなひびきの残る幼い声は、その幼さこそが私の胸をつき刺して、えぐる。
 ──私を助けてくれたあの子達は、きっと恋も知らずに亡くなった。この世で唯一、私を赦す権利をもつあの二人は、この世のどこにももういない。だから私は十字架をおろせない。おろしちゃいけない。恋なんてしていいはずがない。──
「俺達は、何度失敗しても百パーセント挽回できる人生を手に入れたんだぞ」
 熱をおびた、はずむような呼びかけが、昏い沼の底に沈んでいた私の思考をひき戻した。
「俺……達?」
 思いもよらない単語が耳について、つい視線を上げた瞬間、眼と眼があった。
「なあ──宰子、って呼んでもいい?」
 電流が背すじをかけぬけた気がした。生まれて初めてと言っていい激しさの感情の波が、頭をくらくらさせる。もしかしたらそうなのかも──と、なんとなく予感はしていたけれど、今はっきりと確信した。
 この男は、本物だ。本物の、正真正銘のクズだ。
 この上なく甘い声音とまなざしで、信じられないほどなれなれしく私の所有権を主張してきた男に吐き気をおぼえて、私は勢いよく椅子から立ち上がった。こんなところ、来るんじゃなかった! こんなヤツ、救うんじゃなかった!
 さっきまではそれなりに気分が浮きたつような空間だったはずの店内が、急にすべてが汚らしく見えてきた。なぜって、ここを提供した対価として彼が私に何を求めているのか、完全に理解したから。
 踵をかえして立ち去ろうとした私の脚を、低めの静かな声が床に縫いつけた。
「──最後に恋をしたのはいつだよ」
 動くこともふり返ることすらもできずにいる私の背後から、その静かな声はゆっくりと近づいてくる。
「恋をしたことはあるんだろ? じゃなきゃ、その“力”に気づかないもんな」
 ……やめてお願いやめて、その問いかけだけは私にしないでお願いだからそのこたえを私に言わせないで、あんな思いはもう二度と誰ともしたくない、ううん、する資格もないってわかってる、だからやめてもうやめて……声にならない必死の願いもむなしく、隣に立った彼は、クズのナンバーワンにふさわしいだめ押しをした。
「俺に言わせたらな、宝のもち腐れだよ」
 ──宝? これが? ──何も知らないくせに、わかったような口をきかないで! これは私が一生かけて背負っていかなければならない“罰”なのよ!
「……宝なんかじゃない! こんな“力”があるせいで……!」
 レストラン中にこだまする大声が自分ののどからほとばしったものだと気づくのに、数秒かかった。
 自分で自分に驚いたし、それ以上に驚いている彼のとまどい顔とお客さん達の奇異の視線が痛くないと言ったら、嘘になる。だけど、ひとたび決壊してしまった気持ちと言葉は、全部流しつくすまでは止められない。……もういい、構うもんか。どうせ、このひとにも、このひと達にも、もう逢うことはないのだから。
「……あなたとかかわったばっかりにこんなことになって! それでも、あなたを助けたことにはきっと意味があるんだって自分に言いきかせてみたけど……!」
 澱のように胸の底にたまって積みかさなっていた想いが、次から次へとあふれ出す。
「……静かに暮らしていた私の世界に、土足で上がりこもうとするのはやめて!」
 泣き顔なんか見せるのは癪なのに、どうしても視界がにじんでしまうのがわれながら情けない。
 しんと静まりかえった店内。静寂の原因が自分であることにいたたまれなさが頂点に達して、私はその場から駆けだそうとした。
 その時、腕をつかまれた。
「自分だけまくしたてて帰るのはずるいだろ。──次は俺の番だよ」


 ねえ、堂島旺太郎。
 あなたなんか、あなたにぴったりの名前のあの店で、偽りで造った愛をふりまいてお金で造られた愛を受けとって、それで周りのすべてを見下しているのがお似合いよ。美しいのに傲慢で、計算高いのに浅はかな、クズのナンバーワンのままでいればいい。それなのに──。
 それなのに、どうして私に、あんな姿を見せたのよ。
 あなたの職業がホストなのは知っている。きっとあれも、お金をしぼり取れる財布とふんだ相手か利用価値のある道具と認めた相手なら誰にでも使う、手管のひとつに過ぎないんでしょう? そして決して前者ではありえない私は、後者としてターゲットになっただけなんでしょう?
 ──そう言いきかせてるのに。まるで、失くした何かと出逢ったような、すがる寄る辺を見つけたような、あの時の瞳が瞼から消えない。寂しさと辛さに膝をかかえてうずくまる子供のような、あの時の表情が心から離れない。
(ねえ──大丈夫?)
 ──あの日、あの船で、私は誰かにこの言葉をかけてもらえた。だから──次は、私が誰かにこの言葉をかけてあげる番なのだろうか?
(ねえ、大丈夫? 助けてあげるから、いっしょにここから出ようよ)
 もう逢わないと決めたけれど。……もしも、もしも……もう一度、手をさし出されて「二人で幸せを手に入れないか」と笑いかけられたら……私はどうこたえればいいのだろう?
 ねえ、お願い、おしえてよ。──世にも綺麗な姿をもちながら、よどんだ泉から抜け出せないナルキッソス。
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