Fortuna

「Fortuna」(フォルトゥナ)は目隠しをし、幸福と不幸の繰り返しを司る車輪(船の舵輪)を操る運命の女神の名前。


 いつ見ても辛気くさい顔(愛想よくニコニコすれば多少は見られそうなのに、出逢ってから今までにあいつの笑った顔なんて……いや、待て。俺を襲う時はニヤついてたっけ……まんまホラー映画の不気味さだったな……)。
 自宅と職場を往復するだけの毎日で、うちこむような趣味もなく、連絡を取りあう友人も見当たらない。彼氏の存在なんて、言わずもがな。
 身体のラインをひた隠しに隠す不必要にでかくて長い服は、ほとんど黒かグレー。ファッションセンスなし、化粧っ気なし、アクセサリーなし。女らしさのかけらもなし。
 豪華な紅い薔薇の花束にも、流行りの高級外車にもなびかない。好きそうなものといったら、俺からすればガラクタにしか見えない、チマチマフワフワした雑貨。あと、スイーツ。それもとにかく甘そうなやつ。フルーツならイチゴ。
 ──売り上げに貢献してくれるわけでもなく(そもそもあいつは客ですらない)、儲け度外視でも落としたい好みのタイプとも真逆の女を、なぜ、この俺がここまでリサーチしてアタックしなきゃならないんだよ。しかも、なぜ、この俺がことごとくフラれて逃げられて、追いかけ回さなきゃならないんだよ。
 くそっ、調子にのりやがって! いいか、キス女、俺がおまえに構うのはな──おまえが“神の力”を持つ女神サマだから、ただそれだけだ!


「あなたは全部真っ黒。自分のことしか考えていない」
 と、キス女──佐藤宰子は言った。軽蔑と嫌悪が絶妙に混ざった表情というオプション付きで。
 俺は小さく口笛を吹いた。いつもオドオドして口ごもってばかりの、陰気と挙動不審が服を着て歩いてるみたいなこの女が、面と向かってこうもはっきり罵ってくるとは予想外だった。予想外すぎて、感心した。結構、言うねえ。
 一月十八日の夜。いかな不夜の歓楽街、歌舞伎町といえども、一歩外へ出れば吐く息も凍りそうなほどに寒い。それが吹きさらしのビルの屋上ともなれば、なおさらだ。一秒ごとに頬の皮膚を削いでいくような冷たさのビル風に歯を鳴らしながら、俺は内心ちょっと後悔していた。……やばい。寒すぎ。今後の予定を見すえて、あえて“自殺”しやすい場所と時間を選んだけど、ミスチョイスだったかも……。
 けど、自分から呼び出しておいて寒さに震えてるなんて、女の子に見せられるか。格好悪い。精いっぱいに余裕の笑みを作って、俺は目の前の宰子をながめた。
 無言で様子をうかがっている、いつもの辛気くさい顔。ナルキッソス=美青年の前に現れる女神サマなら、もっと、こう、スタイル抜群の美女にでもならないもんかね?
 デリバリーサービスの制服だけで上に何も羽織っていないのに、寒がるそぶりも見せず平然とこっちを見返している。……こいつ、よく平気でいられるな。時々ロボットみたいな変な動きをするとは思ってたけど、まさか本物のロボットだったりして? それにしても……普段の私服だって黒っぽいのばっかなのに、制服のウインドブレーカーまで黒ときてんだから……ここまでおしゃれに無頓着な色気のない女、初めて見た。
 地上を歩く時は容赦なくどぎつい色と光を浴びせてくるネオン街の灯りも、五階建てビルの屋上へは幾分やわらかな光量と明滅となって届く。淡いオレンジやピンク、ブルーの光が瞬くたびに宰子の顔が仄白く浮かびあがるのを見て、ふと、宰子ってずいぶん色白なんだな、などと思った。
 齢は俺と同じくらいだろうに、こいつの妙な落ち着きというか、達観というか、どこか人生に対する諦め──愉しみや喜びを放棄しているような態度が、俺はどうにも気にくわない。幸せがいらない、なんて、そんなバカな。誰も真似できないスゲェ“力”を持っていながら、宰子は何をためらって立ち止まってるんだ? 前に進めばいいじゃねえか。生きていれば、生きてさえいれば、人生は変えられるのに。だって、そうじゃなきゃ──
 ──生き残った意味が無いだろ。
「まぁ、誰だって自分が一番かわいいよ。けど……」
 心の奥底からせり上がってきた苦い何かが、言葉となってのどから吐き出された。しゃべりながら、いっそ必死な気分にすらなるのは、彼女を諭したくてか、自分をなだめたくてか、どっちだろう?
「……けど、幸せになれるのはひと握りの金持ちだけだ」
 全部、真っ黒。いいじゃん。それのどこが悪い。全部真っ白に見せかけて腹の中はどす黒い欲望だらけに違いない尊氏より、よっぽど分かりやすくて好感もてるだろ?
 そう、誰だって自分が一番かわいいに決まってる。血が繋がっていないとはいえ、兄妹として一緒に育ってきた百億にぬけぬけとプロポーズした尊氏。それも、義父の危篤真っ最中という最悪の、かつ最高のタイミングで。あいつだってひと皮剥けば俺と同じクズ、日本のトップ企業並樹グループの社長の座に眼がくらんだ欲の塊だ。あのいけ好かないボンボンを出し抜いて、引きずり降ろしてやる。
 ──生まれながらに金も地位も手にしてる尊氏が、これ以上幸せになるのは許さない。幸せになれるのがひと握りの金持ちだけなんだったら、俺がその立ち位置を奪いとるまでだ。そのために──
「“神の力”があれば、そうなれる」
 なに一つ間違ったことは言っていない、という自信をもって、俺は宰子へ語りかけた。ふと、春海とかいったホームレスもといストリートミュージシャンのおどけて芝居がかった笑い声が、耳の奥でよみがえる。
(エイトにないものを持ってるかもよ。だから、お互い、足りないものを求めあうんだよ)
 ──ああ、そうだな。あんたの言う通りかもな。多分、宰子と俺は似た者同士で、お互いの欠けた部分を補えるんだ。きっと宰子なら俺を理解してくれる、うなずいてくれる。──そんな予感がした。
 無表情のまま、微動だにせず俺の話を聞いていた宰子の唇から、ため息のような声がもれた。
「……寂しいひと」
 聞いた瞬間、かっと頭に血がのぼった。
 似た類いのせりふを女に言われた経験は無数にある。舌打ちも罵倒も平手も散々くらってきた。だけど、その一言が──憐れみの感情しか込められていない、たった一言が──これまでに投げつけられたどんな罵声よりも冷酷に聞こえ、これまでにうちのめされたどんな失望よりも烈しく胸を灼いた。
 気がついた時には、口が勝手に動いていた。
「人の眼を避けて生きてきたヤツに言われたくねえよ!」
(自分が寂しい人間かどうかなんて、そんなことは自分で決める! そんなのは、自分が一番よく知ってる! おまえにとやかく言われる筋合いなんてねえんだよ!)
「愛とか友情とか、そんなもん信じてないのはおまえも同じだろ!」
(愛も友情もなくても、金さえあれば代わりのものはいくらでも手に入る! 幸せは金で買える! だから、俺は、何が何でも百億を落として幸せになってみせるんだ!)
 声に出せない、出しちゃいけない本音をぶちまけるのはさすがにこらえたが、思わず怒鳴りつけてしまってから、宰子の眼を見た途端、はっとした。俺がぶつけた激情を真正面から受け止めて、ありありと傷ついて哀しんでいる眼を見た途端。
 一瞬、鈍い痛みが胸にはしる。……いつだろう? こいつのこんな表情を前に見たような……。
(──それでも、あなたを助けたことにはきっと意味があるんだって自分に言いきかせてみたけど──)
 ふいに、両眼にあふれそうな涙をたたえた宰子の顔が脳裡をよぎった。……そうか、あの時か。
(──静かに暮らしていた私の世界に、土足で上がりこもうとするのはやめて!)
 頑なな拒絶。悲痛な懇願。言わせているのは俺なのに、うっかり同情しちまいそうになる、哀れっぽい叫び。
 今、わかったよ。おまえ、本当は何も諦められてなんかいないんだろ? 幸せを求めてる、生きる意味を探してる自分自身を、見て見ぬふりしてるだけなんだろ?
 宰子、おまえと俺は、確かによく似てる。お互いをお互いで埋めあえる。俺の幸せの実現には、おまえの“力”が絶対に必要だ。そして、おまえのこれからの人生を変える“力”は、俺が土足で上がりこんで与えてやる。俺を救ったことを意味のあるものにしたいんだったら、俺の手をとれ。俺達が手を組めば、何だって、何度だって、挽回できるんだから。
 だから──二人で幸せを手に入れないか。
「何でこんなクズ助けちゃったんだろう、って後悔しても、もう遅い」
 わざと悪どくニヤリと笑ってみせてから、俺は宰子に背を向けて、屋上の端へゆっくりと歩いた。今時のビル管理の常識からしたら信じられないほど低い鉄柵(なんと膝までの高さもないんだぜ! 築五十年超えのボロビルとはいえ、投身自殺の推奨物件としか思えねえ!)を軽々とまたいで、外側のせり出したわずかな足場にどうにか両靴底をおさめる。またいだ拍子に眼に飛びこんできた光景に、めまいがした。……高ぇ。マジ高ぇ。眼下二十メートルはあろうかという先は狭い路地とパーキングだったが、とめた車と行き交う人間のサイズがまるでレゴ……。
 これは、頭からいったら確実にアウトだ。脚から落ちれば……即死はしないかも。多分。しないで欲しい。つーか、ひと目で命に別状ないとわかる程度じゃ宰子はキスしてくれないよな。ここは、即死外しの瀕死狙いで。……いや、これ、覚悟はしてきたつもりだけど、実際に見てみると結構な無理ゲーじゃね? うまく死なずに済んだとしても、死ぬほど痛いに決まってんだろ。──でも、まあ、どっちみち最後は“死ぬ”んだし、いくら痛いっつっても──。
 光太が味わった痛みと苦しみに比べたら、どうってことない。
 ……泥水の中でもがくようなこれまでの人生、ただ生きていくだけであまりに辛くて心が折れかけた時、いつも立ち上がる気力をくれたこの想い。生き抜くための拠りどころだったはずが、“自殺”するための勇気にもなるなんて……こんな皮肉、そうそうないぜ。
 なんだか妙に笑えてきた。踏みしめたコンクリートがやたらとグニャグニャして面白い──違う、俺の脚がふるえっぱなしのせいだ。制御不能なハイテンションがわき上がってくる一方、頭の隅ではへんに冷静に「通行人を巻き添えにしないよう気をつけなきゃ」なんて考えながら、俺は宰子の方へ向きなおった。
「あ」とも「え」ともつかない形にぽかんと口を開けて、宰子は俺を見つめていた。リップも塗っていないのにやけに鮮やかに紅い唇と、長い睫毛をひろげて大きくみはった瞳が、意外にどちらも形がいいことを知って、不覚にも(本当に不覚にも)俺は気づいてしまった。──この女、こんなかわいい顔してたんだ。
「な、な、な、何するつもり……?」
 これ以上ないくらいに動揺した、うわずりまくった声。俺は確信した。この状況で、この声を出す女なら、必ず俺を見捨てたりしない。必ず“神の奇蹟”を起こしてくれるだろう。
「死ぬ前にキスしてくれ」
(わるいけど、当分おまえを手放す気はないよ。宰子)
「おまえはきっとまた俺を救う」
(だって、そうだろ? 幸せになるなら二人で、って決めたんだ)
「俺はおまえを信じてる」
(似てるからこそ、わかるんだよ。おまえの心も、願いもな)
 二十メートルの空中へ後ろざまに飛び降りる直前、俺は『ナルキッソス』でピンドンオーダーした客にしか見せない、ナンバーワンとっておきの極上笑顔を浮かべてやった。──感謝しろよ。おまえなんかは一生、拝む機会もないだろう十万円相当のスマイルだぞ。ま、より良い未来(過去?)への投資と思えば、全然安いもんだけどさ。


 このクソみたいな人生を、おまえのキスが変えてくれるって信じてる。
 だから、なあ、頼んだぜ。期待にこたえてくれよな。
 地味で野暮ったいけど、よく見りゃ案外わるくない──俺の運命の女神。
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