Persephone

「Persephone」(ペルセポネー)は水仙に心を奪われさらわれて冥府の女王となった、春を呼ぶ女神の名前。
別名「Kore」(コレー)=「乙女」


 一月二十日。午後三時半。
 老人ホームで祖母の見舞いをすませた後、タクシーで自宅まで送ってもらい、さてマンションに着いてそこでバイバイかと思いきや、当然のごとく部屋まで上がりこんできたエイトに宰子はびっくりした。
 びっくりしたが、わざわざ送ってもらった手前、また、一方的にタイムリープさせてしまった引け目と祖母に逢うため勇気づけてくれた感謝もあって、拒否することはできなかった──というより、拒否する気にはならなかった。
 で、現在。──
 まるでこの部屋のもとからの住人みたいな顔をしたエイトが、宰子のダイニングチェアに逆向きに腰かけ背もたれに寄りかかっている。
 まだ知り合って間もない他人の家で、しかも独り暮らしの女性の部屋で堂々とくつろげる神経にはちょっと呆れたものの、ふしぎとそれほど嫌な気分はわいてこなかった。来客など年にあるかないかのめずらしさだというのに、とくに抵抗なく彼を“そういう間柄”と受け入れかけている自分に宰子は内心、首をひねる。エイトの、こちらが気づかないうちにぐっと距離を詰めている速さとごく自然にパーソナルスペースに入りこむテクニックはさすが、歌舞伎町ナンバーワンホストの肩書きは伊達ではないと今さらではあるが認めざるを得ない。
 招いたわけじゃないとはいえ、一応「お客さん」としてカウントして紅茶とお菓子は出した。エイトは紅茶のカップには儀礼的に一回口をつけただけで、お茶菓子として小皿に盛った柿ピーと海苔あられには一切手をつけていない。──取り合わせがおかしくて手が出せない、という可能性に思いいたらない宰子は、甘いものの方が好きなのかな、大福でも買っておけば良かったかな、などとやはりずれた考えに悶々としていた。


「──でさ、百億ちゃんがガバッと抱きついてきて『もっとおしえて、旺太郎のこと』なんて言ってくれちゃってさ! いやー、マジでちょろすぎ、あの箱入りお嬢」
 得意げに親指を立てたエイトにふぅんと気のない相づちを小声でうつと、宰子はぬるくなり始めている紅茶をすすった。聞いていて気持ち良くはない自慢話のせいで、お気に入りの茶葉の味もよくわからなかった。
 個人資産百億の女、縮めて百億。並樹美尊をエイトはそう呼ぶ。あれは狩りの獲物だと、ゲームのトロフィーだと、そう断言する。並樹乗馬倶楽部で逢った彼女は清楚で気品たかく、際立って美人だったのに、彼には彼女がブラックカードか金塊の山にしか見えないようだ。
 大企業の社長令嬢に対してあまりにもストレートに下品な呼び名に宰子が眉をひそめると、にらみつけられた。
「何だよその顔。何か文句あんの?」
「……別に」
 まだグチグチと「言いたいことがあれば言えば?」とか何とかからんでくるのを聞こえないふりをして、再度紅茶をすすった。砂糖をかなり入れたはずなのに、甘さが足りない気がするのはどうしてだろう。
 不機嫌をあらわにしていたエイトの顔が、またニヤニヤとゆるんできた。
「あれもう八割方、俺に落ちてるし。次期社長に王手待ったなしだし。ほんと、まさかここまで楽勝に攻略できるとは……俺の成り上がりもいよいよラストステージだな!」
 愉快で愉快でたまらない、と言わんばかりに片方の口角を思いっきり吊り上げるエイト。
 ……すごい、なんて腐った性根……綺麗な顔してるのにもったいない……天は二物を与えないのね……。
 宰子は、世にいう「ドン引き」の心情を満面で表現しながら、とんでもない男に眼をつけられてしまった御令嬢に心底同情した。
 と、エイトが突然居ずまいを正すと、わざとらしく咳ばらいをした。
「──で、だな。ここからが本題なんだけどさ。今夜、百億のパパが眼を覚ます。眼を覚ましたら、俺を紹介してもらうことになってる。友達か、彼氏か、百億がどう紹介するつもりかはわかんねえけど、どうせなら……」
 ひと息、区切ってから、こぶしを握りしめた。
「フィアンセまでもちこみたい」
「……フィアンセ」
 抑揚のない調子でオウム返しをした宰子の方へ身をのり出して、
「そう、フィアンセ! 婚約者! プロポーズっぽい真似はとっくにしてあるけど、ここで改めて正式に結婚を申し込んで俺の地位を不動のものにしてから、パパとご対面したい! ……つーか、もう面倒くさいからさっさと次回で勝負を決めたい!」
 熱意があるんだか、投げやりなんだか……エイトの精神状態の理解に苦しみながら、それでも宰子はうなずいてあげた。
「あ、そう。がんばってね。……」
 すると、エイトがキッと宰子を見すえた。
「勝手に話を終わらせるな! 本題って言ったろ! ──そこで宰子に相談があるんだ。百億のハートをガッチリつかむような、女心を虜にするようなプランを一緒に考えてくんない? 次のデートで完全にモノにしたいんだよ。……あ、クラシックのコンサートは眠くて地獄だったからパスね」
 予想だにしなかった相談をいきなりもちかけられて、あぜんとした。とっさに声も出せない。……デート、プラン? ……私が?
 無茶言わないで、と笑いとばそうとしたが、期待をこめた双眸が自分の返答を待ちかまえているのを見てしまうと、優しい性格の宰子はつき放すことができなくなる。
「えっと……遊園地、とか? 映画とか? ……ドライブとかは?」
 混乱しまくりの頭をどうにかフル回転させて浮かんできた選択肢を律儀に並べてあげたのに、はあーっと聞こえよがしなため息をつかれた。
「あのなあ、並樹グループっつったらセレブの中のセレブだぜ? そんじょそこらの女とは格が違うんだよ。仕上げはそんなありきたりの手段じゃなくて、こう、ほら、サプライズ的なトドメをだな……」
 セレブの中のセレブな女性をときめかせる方法など、ますます宰子とは縁遠い話だ。
「なあ、頼むよ、宰子ぉ。──ダメ、こんなことされたら好きになっちゃう! もうどうにでもして! ──って気分になるようなやつ、何かない?」
「し、知らない、そんなの」
 しなをつくってクネクネするエイトに宰子は冷たい一瞥をくれて、切り捨てた。ばかばかしくてもうまじめに悩む気もないが、たとえまじめに悩んだところで思いつくはずもない。
「……ンだよ、使えねえなぁ。おまえだって一応女だろ。コレ! っていうの、ひとつもないのかよ?」
 舌打ちされて、カチンときた。
「だったら、あ、あなたが考えればいい。……ホストなんだから、女のひとの気持ちは私よりもよくわかるでしょ?」
「え、俺?」と自分の顔を指さしてから天井に眼をやったエイトは、しばらくしてぽんと手を打った。
「──ホテル?」
「……バ、バ、バカじゃないの!?」
「そうだよなあ、まだ早いよなあ。なんたって相手は百億。いつも以上に念入りに手順をふまなきゃ。──せっかくここまでこぎつけたってのに、焦ってヘタうって逃げられでもしたら、俺、立ち直れないかも」
 今じゃない、ここじゃない、と腕組みしながらブツブツつぶやいている。問題なのはあくまで「時期」であって、「場所」ではないらしい。クズの面目躍如といったところだ。軽く頭痛を感じて、宰子は額をおさえた。
「あーあ、宰子ならいいアイディア出してくれると思ったんだけどなー」
 さも残念そうに嘆かれると、演技とわかっていても少し心が痛んでくる宰子は本当に性格が優しい。
「そんなこと言われても、わからない……。どうして、私に聞くの……?」
 そう声をかけると、エイトはふと笑いを消して、真剣な表情でこたえた。
「おまえもそんじょそこらの女とは違うから聞いてるんだよ」
 瞬間、ひとつ鼓動がはねた。それはマイナスの意味か、それともプラスの意味か、──つい出かかった問いをのどでのみくだす。訊くのが怖い気がしたし、訊いても仕方ない気もした。……
「ま、いいか。──ところで、宰子。──」
 急に声のトーンが落ちたかと思うと、すっと細めた眼で正面から見つめられた。その一瞬で、宰子の全身に緊張がはしった。エイトがこんな風な視線を宰子へ向ける時は、十中八九“キス”をねだる時だと、彼女は経験上もう知っている。
「おまえの願いごとは決まったのか?」
 反射的に身体を強ばらせてうつむいた宰子の耳に、思いがけないひと言が届いた。……? 願いごとって、何のこと?
 顔を上げる。と、肩もひき寄せられず頬もつかまれず、ただニコニコとして見まもっているだけのエイトがいた。
「……え?」
「何? 忘れたの? 俺が望んだ時にキスしてくれたら、宰子の願いをひとつ叶えるって“契約”だろ? ビジネスパートナーはウィンウィンの関係、ってのが今は常識だぜ。だから、俺達が目指すゴールは『俺の幸せはおまえの幸せ』。これな。俺を幸せにしてくれたら、おまえを幸せにしてやるよ」
 すばらしく爽やかな笑顔でおそろしく押しつけがましいことを言う。──が、それを自分勝手だと憤る気持ちはなぜか、以前よりも宰子の胸からうすれていた。
 好きも嫌いもない“キスの契約”。宰子としてははっきり拒絶した記憶があっても、しっかり承諾した憶えがなくても、どうやら彼の中では契約成立しているようだ。その姿に迷惑を感じるより、安堵をおぼえている自分自身の心のふしぎさといったら──。
 ……それに、それに……今のせりふって、まるで……まるで……。
 プロポーズみたい。
 あっけらかんとして能天気な感じさえある口ぶりと顔つきからは、エイトがそんな意味合いを微塵も意識していないのは明らかだが、思慮深い宰子はいろんなことで頭がぐるぐるしてきて心拍数がやたらと上がってしまった。
「欲しい物ある? どっか行きたい場所とか、やりたいことは? 希望は何でもいいよ。つき合ってやる」
 めずらしくやわらかい笑みを見せられて胸の高鳴りを感じたのもつかの間、すぐにそれも消えていった。華やかで人目をひく容姿のエイトと共に出歩いて注目を浴びるのはかなり精神的ハードルが高い、と自覚したからだ。
「でも、あなたと並んだら……つり合わないし……」
 蚊のなくような声で、やっとそれだけをしぼり出した。聞いて、数瞬、ぽかんとしていたエイトは、ひらひらと片手を振ると大きな笑い声をたてた。
「バカか、おまえ……恋人でもあるまいし、つり合う必要ないだろ! 余計な気ィまわすなって!」
 肯定された……そんなことないと否定されなかった……決して期待していたわけではないけど、百パーセント予想通りに返された反応に、それでもちょっと傷ついてしまう宰子だった。
 恥ずかしさと情けなさに眼を伏せて、
「私は、別に、何も……」
 消え入りそうなつぶやきは、やや強い口調でぴしっとさえぎられた。
「何もいらない、は却下。言っただろ、宰子には幸せになる資格があるって」
 迷いなく言いきられたその言葉。どこか怒ったような話し方ながら、心に伝わって沁み込んでくる感情はどこまでもあたたかい。
 すぐそばで微笑むエイトの声と、ホームで手を握ってくれた祖母の声が、同じ音量でぴたりと重なって鼓膜に鳴った。
(俺達は幸せになれるんだよ)
(宰子、幸せになってね)
 なぜだか涙がこぼれてきそうになって、ただじっと見つめ返すことしかできないでいると、エイトがふっと眼をそらした。そらした先は、チェストの上に置いた目覚まし時計。午後四時。
「……と、とにかく、遠慮なんかしないで考えておけよ。叶えて欲しい願いを、さ」
 妙に早口で明るくそう言うと、あわてたような様子で立ち上がる。
「俺もいそがしいから、じゃあな」
 またな、と手を振って、帰っていった。


 夕暮れの近づきがカーテンのすき間から見える、突然に静寂のおちた自分の部屋。元の、いつもの静けさに戻っただけのはずなのに、ひどく寂しくてもの哀しい気持ちをかきたてられる。……こんな気持ちになるのなら、やっぱり「お客さん」なんて来なくていい、と宰子は嘆息した。
(俺達は幸せになれるんだよ)
 再び耳にひびくその声へ、心のうちで問いかける。……本当に? 本当に、そう思う? そう思ってみてもいいの?
(宰子、幸せになってね)
 幸せになることは赦されない私だけど、彼が幸せをつかむその日までなら──みじかい期間限定のうえでなら──幸せに似た何かを感じることをあの子達は眼をつぶってくれる?
 今、人気のある場所ってどこなんだろう。明日、本屋へ行って雑誌でも見てみようかな。それから……少しだけ明るい色の服でも買ってみようかな。──そんなことを考えながら、宰子は冷めきった紅茶をひと口飲んだ。
 カップの底に溶け残っていた砂糖は、思ったよりずっと甘かった。
Page Top
inserted by FC2 system