江戸山四郎

ラブいシチュエーションなのに何やら薄暗い江戸山四郎と葛城太夫。


 「淀の川瀬の水ぐるま、
  たれを待つやら、くるくると」
 肌をさす寒風に流れて来る囃子は、鉦や太鼓や、笛、三味線も交えて陽気に浮かれ、まるでここだけひと足はやく春が来たかのようだ。
 それにのせて、女たちの美しい唄声がきこえる。
 「わが恋は、
  月にむらくも、
  花に風とよ」
 群衆でごった返し、喧騒と享楽にあふれる江戸葭原の一劃に並ぶ、興行用の小屋。夕空にはためく何本もの幟には「葛城太夫一座」とある。
 去年の秋からこの場所で長期興行をしている、女かぶきの一座の名である。
 しかし、囃子と唄声は、舞台ではなく小屋の裏手からきこえていた。興行がはねたあとにも、裏手の空地で囃子方と踊子たちが熱心に練習をかさねているのであった。


 その葛城太夫一座の小屋の一室に、ふたりの人間が相対して坐っていた。
 ひとりは、一見したところ役者にしてもおかしくない端整な青年。細面の優男だが、横顔はいかにも芸術家的な神経質さを感じさせる。
 一座の振付師、演出家、作曲家まで兼ねる狂言師で、名を江戸山四郎という。
 もうひとりは、一座数十人の踊子をひきいる頭、葛城太夫。
 或いは艶麗、或いは優婉、顔だち姿態は千差万別ながら、いずれ劣らぬ美女ぞろいの一座の中でも、その肉感的な美貌は抜きん出ている。
 紅梅の小袖に金襴羽織をつけた舞台衣装のままの葛城太夫は、殺風景な部屋のなかにあってもまばゆいばかりの美しさで、咲きほこる一輪の牡丹の花を思わせた。
「──では、小篠おざさは明日の舞台には立たぬと申すのだな?」
 文机に片肘ついて、江戸山四郎は不機嫌な声をあげた。葛城太夫はうなずいて、
「はい。今日の失敗を恥じて、舞台にあがる自信をなくしたとやら。小篠はまだ、遊芸の道に入って日も浅い身ゆえ、いろいろと迷いも多いのでございましょう。もはや山四郎どのに顔向けできない、明日は代役を立てて欲しいと、先ほどわたしに泣きながら頼んで参りました」
 と、こたえた。
 小篠とはひと月ばかり前に一座に加えた娘である。今日の興行で初舞台をふませたものの、緊張のあまり踊りは間違え、唄声はかすれ、不出来を見かねた山四郎が途中で楽屋に下がらせたのであった。
 話をきいているのかどうか──無表情におし黙っている山四郎に、葛城太夫はこのときなぜか、寂しげに微笑みかけた。
「……おわかりになりませぬか? あれも女です。もし、山四郎どのから気遣いのひとつでもかけられれば、きっと踊りにのぞむ意気ももち直すでありましょう」
 おだやかにそういった葛城太夫に、感情のない冷たい一瞥をくれて、山四郎は吐き捨てた。
「左様な甘ッたれた根性ならば、よし、あの女、いますぐ田舎にでも帰らせろ。踊れぬ踊子など、必要ない。一座においておく価値もないやつ」
 なさけ容赦のない、厳しい叱咤にさすがに葛城太夫の顔色が変わったが、山四郎はかまわず、
「いや、そもそも女など要らぬ。おれが欲するのは、ただおれが求めるままに動き、跳び、舞う、おれが望んでやまぬ完璧なるかぶき踊りをこの世にえがいてみせる、完璧なる踊子だけだ。いってみれば、人形だ」
 と、にべもなくいった。やさしげな風貌に似あわぬ冷酷な声と、冷酷な言葉である。
 無言のまま、葛城はじっと山四郎の顔を見つめた。──しだいに、瞳が奇妙なひかりを帯びて、驕慢なところのある彼女にしてはめずらしいほど真剣な表情に変わってきた。ただならぬその様子に山四郎が怪訝に眉をひそめると、ふいに彼女は両腕を彼のくびにまきつけて身を投げかけてきた。
 思いがけず咄嗟のことに驚愕して、押しつけられた柔らかい肌の感触と近ぢかと寄せられたかがやく黒い双眸に、しかし山四郎は一瞬、眩惑されそうになる。
 熱い、匂やかな息が頬に吹きかかったと思うと、彼は五月の薫風にゆれる大輪の牡丹に鼻口をふさがれた気がした。
「山四郎どの! 山四郎どのの望みとは、まこと、かぶきの芸のみでございますか? ほんとうは、誰か、ふかく想いをかけるおひとがあって……それを忘れるためにおまえさまは芸にうちこみなさるのではありますまいか?」
 山四郎の唇から唇を離して、葛城はあえいだ。
「おまえさまが望むなら、わたしは、いいえ、わたしたちはよろこんで人形になります。名も、心も、捨てて惜しゅうありませぬ。けれど──」
 葛城の哀切きわまる声とすがりつく必死のまなざしは、はねのけようとした山四郎を縛った。
 名状しがたい、異様な気迫をすら漂わせて、葛城はひしと山四郎に抱きついた。
「けれど、わたしたちがおまえさまの人形であるあいだだけは、わたしたちだけを見ておくれ。わたしたちとして見ておくれ。おまえさまのために、かぶきを踊るだけの人形となれても、ここにはいない誰かの代わりにはなれませぬ。それは、あまりにむごい。──そんなものには、なりとうもない!」
 耳朶をうつ葛城の悲痛なさけびにわれに返った山四郎は、ようやく彼女のからだをひき離した。
 肩で息をしつつ、眼には涙をいっぱいにたたえて、それでも葛城は凄艶ともいえる微笑を浮かべた。
「葛城と、葛城太夫一座の踊子すべての願いは、ただそれだけでござりまする」
 茫然とした面持ちの山四郎の前に両手をついて一礼すると、しずかに立ちあがって、部屋を出ていった。普段の落ちつきと貫禄をとり戻した、座長葛城太夫の姿で。今しがたの狂乱のふるまいとは別人のように。


 しばし、あっけにとられた顔で惚けていた山四郎の片頬にやがて、苦い笑いが浮かんだ。
「誰かの代わり──わしもいまはじめて悟った気分だが、いわれてみれば、なるほど、そうであったかもしれぬなあ。──いや、さすがは天下の葛城太夫、たいした鋭さだ。あれが女の勘というものか。ふ、ふ」
 と、自嘲的につぶやいて苦笑こそすれ、その白い顔に哀感がさざ波のごとくゆれた。
 山四郎とて木石ではない。葛城太夫と一座の踊子たちが自分に向ける視線に、遊芸の師へ対する域をこえた思慕──ひとりの男へ対する愛情が込められているのに感づいている。女の園ともいうべき一座にあって、これまで自分の存在があらそいの火種とならなかったのは、ひとえに彼女たちの恋愛感情に関心をしめさず、それどころか異性であることすら念頭にない、冷淡ともみえる態度で接して来たことによるのも知っている。
 かといって、無理に気持ちを抑えているわけではなく、事実、彼女たちのひたむきなまごころを可憐に思うときもあったが、それは決して「女」を認識してではなかった。いうなれば、足もとにすり寄って来た犬猫に対して感じる憐憫の情のようなものである。それだけに、
「ふかく想いをかけるおひとがあって、それを忘れるために芸にうちこむのではないか?」
 葛城太夫の投げたこの問いは、鋭利な錐となって山四郎の胸をえぐった。
 あの女たちを不憫とも、いたましいとも思うのは、かなわぬ恋に身を焦がしながら、なんら見返りを求めるでもなく、ただ相手のために自らのすべてをさし出しているからだ。
 ──だが、それは自分も同じではないか? 得られぬものの幻のみにすがって、死ぬまで手をのばし続けるであろう自分と。あの女たちとこのおれと、一体どこに違いがあるというのか?


 いまの自分の立場には何らの不満もない。芸術の世界で高みを目指すことに、何ものにも替えがたい生甲斐を感じている。葛城太夫一座の狂言作者として、理想のかぶき踊りの創造に夢と情熱を燃やすこの生活こそ、おれが求めていた「自由で有意義な人生」のはずだ。
 ただ。──
 遠い故郷館山におわす、ある女人を思い出すと、その充実感も満足感も沫みたいに消えうせて、ひどく寂しい、空しい思いにとらわれることがある。
 故郷をはなれて三年。望郷の念にかられたことなどついぞないが、かの女人の春霞にけぶるような笑顔を瞼のうらにえがくときのみ、言いようのない痛みに胸をしめつけられる。
 あのお方に逢えずして、何が「自由な生活」か。あのお方にお仕えせずして、何が「有意義な人生」か。──
 いみじくも葛城太夫の指摘した通り、江戸山四郎がひたすらに女かぶきに傾ける熱情は、単なる芸術的才能からばかりではなかった。一座の仕事に全精魂を集中することで、はるか彼方の存在となってもなお心を領しているひとりの少女の面影から、わずかでも逃れたいという無意識のはたらきもたしかにあったのである。……


 ぼんやりと、昏い底なし沼のような思考に沈んでいた山四郎は、何者かの気配にふと顔をあげた。
 いつの間にそんなところまで入ってきたものか、二メートルほどはなれた部屋の隅に、白い巨大な犬が一匹、うっそりと坐っていた。
「……八房」
 犬飼現五──いまは現八と名乗っている仲間が先日連れていた犬かと思って呼びかけ、次の瞬間、違う、こいつは「おれの八房」だと気がついた。
 ちらと不審の翳がきざしたが、同時に、ははあ、さてはこれが、あのとき現八の言っていた「召集」かと得心した。すると、まるで心を読んだみたいに、八房は尾を二三度ふって山四郎のそばに寄り、もの言いたげに見あげた。口に巻紙ようのものを横ぐわえにしている。
「やっぱり、おれのところにも来たか」
 かろく頭をなでてやり、しかし憮然とした顔で八房のくわえている巻紙を取って、ひらいた。ぶきみに黒ずんだ書状に眼をおとす。
「父の血をもてかきのこし申し候。里見家に大難来り候。……」
 陰鬱に読みあげる。
「……今日ただいまより犬川壮助の名を相伝申し候」
 巻紙のあいだからころがり出た一個の白玉をつまんで、障子越しの冬の日差しにすかして見る。
 館山にいた頃、父親から説教をうけるたびに何遍となく拝まされた伏姫の珠とよく似ているが、まったくの別物だ。なぜなら、父が護持していた珠は「義」であったが、この珠には異なる文字が浮かんでいた。
 「光明遍照、十方世界、
  念仏衆生、摂取不捨、
  なむあみだぶつ、なむあみだ」
 外のあかるい女声の合唱とは対照に、この一室には無限の静寂がおちているようであった。
 果たして、父親の壮絶な死の報が息子にどれだけの反響を与えたか。それとも、与えなかったか。
 江戸山四郎──犬川壮助は、哀しむでもなく憤るでもなく、むしろ、おのれを憐れむかのような虚無的表情で偽の珠をかざしてのぞきこんだ。
 晃たるひかりをはなつ珠に浮き出ているのは、ただ一字。
 ──「戯」
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