犬村角太郎

やる気も緊張感もゼロのしょーもない三馬鹿=犬村角太郎と犬川壮助ともう一人。


一 ────


 江戸第一と世人の評判に高い軍学者小幡勘兵衛景憲の屋敷は、外桜田の紀尾井坂にある。
 門弟三千といわれ、小幡屋敷をおとずれる各藩の家来、旗本の弟子は、日々おびただしい数にのぼる。門をたたく受講希望者、聴講しに通ってくる弟子たち、人の出入りはひきもきらず、さしずめここは軍師を志すインテリ青年たちのサロンとでもいおうか。
 この冬からあるじの景憲が不在にしているにもかかわらず、ちょうど濠をへだてた真向いにある大老井伊掃部頭の屋敷よりも活気がある道場であった。


 慶長十九年二月下旬。
 吹きそよぐ風も日に日に春めく陽気に浮かれがちな小幡屋敷では、このところ、と或る女人の噂でもちきりである。景憲の留守中に代講をつとめている高弟の犬村角太郎が先日つれてきた女人だ。
 年は十七、名は浜路。
 犬村角太郎自身も居候でありながら、師の屋敷の上等な一室にその女人を住まわせ、身のまわりの世話を彼みずから買って出ている。紹介によればなんでも、彼のむかしの主人筋の御息女であるらしい。
 顔も体つきも性格さえも四角四面の、イヤになるほど論理的でカタくるしい気難し屋の角太郎が、浜路に対しては常とは正反対に素直に、従順に、うやうやしくお仕えしているものだから、その豹変ぶりに周囲はあっけにとられた。
 が、もっと驚いたのは、浜路という少女の、実にこの世のものとは思われないほどの美貌であった。眉、瞳、唇、いずれも名工の描いたように美しい顔だち。みどりの黒髪は絹糸のごとく、肌の白さは雪にもまさる。優雅と気品と、さらにある種の威厳をもそなえたおちついた挙止は、高貴な容易ならぬ身分をうかがわせるが、珠をまろばすような声で笑うといかにも十七歳らしい愛らしさ、清浄さで、まるで咲きめた桜の精かともみえるほどにういういしい。
 ──ただでさえ家人も客も男が多い軍学者の家にあって、うら若い娘が、それも世にまれな美少女が同じ屋根の下に存在しているとあっては、次第に彼女を熱っぽく見つめる眼が増えてきたのもむべなるかな。
「あの浜路どのはいずれさまの姫君でござるか」
 何やら思いつめたようなようすで角太郎に問いかける者も十指にあまるほどいたが、そんな時、角太郎は四角な顔をいっそう荘重に固めて重々しくうなずくのみで決して口を開かない。しつこく問いつめても頑として黙り通す。ふだんから口をきくと損をするようなむずかしい顔をしている男だから、ことさらめずらしい態度ではないが、それでもこれはやはり尋常でない厳重警戒である。
 小幡道場の奥深くには、天から降りてきたかぐや姫がおわす。──深刻な恋わずらいから発したうわごとにあまたの興味本位の流言がくわわって、ますます噂はかまびすしくなった。
 さて。当人としては甚だ不本意なことに「竹取の翁」と揶揄されるようになった犬村角太郎はというと。──


二 ────


 犬村角太郎はすこぶる機嫌がよくない。
 浜路さま──と偽名をよそおった村雨さまを手許におあずかりして、十数日。花に集まる虫のようにはらってもはらっても彼女に寄ってくる門弟たちをあしらい、牽制する毎日に、いいかげん厭き厭きしていた。……とはタテマエで、角太郎は内心、現状をおおいに愉しんでいた。
 といっても、邪魔者を追っぱらって──彼としては大事な奥方さまを護衛しているだけのつもりなのだが──さて犬村角太郎が村雨さまをどうかするという気は毛ほどもない。そんなことは思いもよらない。彼は、自分が村雨さまの最もおそばにいる、村雨さまをじぶんだけが独占している、この優越感だけで心から満足してよろこびにひたっていた。
 しかし、そういった「適度に快適な煩わしさ」ではすまない相手が一人いて、目下角太郎の悩みの種は、その人物への対処について。
 ──小幡屋敷の一劃にある離れ座敷。
 同座は三人。中央正面に村雨のおん方が、対して角太郎と、件の人物──八犬士の一人である犬川壮助が並んで粛然と坐っている。
 これは、本多佐渡守と服部組の動向を探って得た情報を角太郎が村雨さまに御報告している最中にやってきたもので、角太郎はただいまは取り込み中だとして早々に追いかえそうとしたのだが、当の村雨さまに「よいところへ参った。犬川の話もききたいし、顔が見たい。通しゃ」と命じられて、渋々ながら呼び入れたのである。
「村雨さまには御機嫌うるわしゅう。御尊顔を拝したてまつり、恐悦しごくに存じまする」
「そなたも、健勝そうで何よりです」
 ……壮助の挨拶にこたえる村雨さまのお声が、嬉しげにはずんで聞こえるのは気のせいだろうか。……壮助を見まもるまなざしがまた、好もしげにやさしく見えるのは思いすごしだろうか。……
 こういう具合で、犬村角太郎はすこぶる機嫌がよくない。要するにヤキモチなんである。
 もともと角太郎は以前から壮助に反感をおぼえていた。八犬士の仲間たちはろくでもない奴らばかりだが、中でもこの犬川壮助は気にいらない。腐っても武士の身でありながらくだらぬかぶき踊りに熱をあげ、賤しき芸人におちぶれて、江戸山四郎などと名乗ってフラフラと怠惰な暮しをおくっているときく。素性もしれない女達をまわりにおいて悦に入っているところ、だらしなさは女衒の走狗となっていた犬飼現八と双璧だろう。
 用もないのに二日とあけずに葭原から通いつめては、兵法のしろうとの分際で、角太郎が一応は作戦を練っている伏姫の珠奪還計画に口出しをしてくるのも癪にさわる。水もたれるような優男の容姿さえ、決して醜男ではないが見た目も中身もストイックな角太郎からしてみれば軽蔑の一因だ。なんじゃ、男のくせにナヨナヨとしおって、面も性根も軽薄な奴め……。
 道場の同輩らと同じように適当に追っぱらってしまえばせいせいするのだが、まあ多少は幼なじみの情がないではないし、現在はともかくも数少ない「味方」の人間ではあるし、なにより村雨さまが「忠義者」として信用なさっておいでだから、彼女の前であまり無下にあつかうこともできかねる。これらのジレンマときたら相当なもので、かくて角太郎の苛だちは募る一方。
 ──もっとも、犬川壮助以上に気にいらない男はいる。犬塚信乃だ。


「ちょうど犬村から話をきいていたところでした。服部屋敷での一件以来、本多佐渡も服部半蔵もなんのうごきもないとやら。何を思案しているかはわからないけれど、敵がただ手をこまぬいているとするなら、いまが好機、こちらからおしかけて伏姫のおん珠をとりもどし、すぐに安房の信乃を迎えにゆこう」
 と、村雨がせきたてるようにいった。
 また信乃か、と角太郎は渋面をつくると心中に舌打ちした。ちらっと壮助を見ると、彼もけげんな顔つきで見返してくる。村雨さまに気づかれぬよう、角太郎はほんのわずかに肩をすくめてみせた。
 犬塚信乃が安房館山へ行ってからというもの、村雨さまはなにかといえば信乃の身ばかりを案じておられる。信乃のことばかりを口にされる。ともすると、珠の所在よりも彼の安否の方が胸を占めていらっしゃるように感じる時すらあるほどだ。
(──きゃつ、少しばかり奥方さまがお目をかけて下さるからといって、調子にのって何を吹聴したやら知れたものではない。あのとき、奥方さまをこの屋敷へお送りするのをあいつにまかせたのは、いま思うと失敗だったかもしれぬな)
 先夜、服部組から救出した村雨を信乃に託し、ひと足先に小幡屋敷へ送りとどけさせたのだが、おくれて角太郎と壮助が屋敷に帰ってきたときには、もう信乃は安房へ発ったあとであった。かねて打ち合せておいた作戦にしたがい、ふたたび村雨の替玉として敵の探索をあざむきに行ったのである。
 その出発の光景を目撃した門弟によると、信乃は屋敷を去る際、
「犬塚、わたしはそなたを信じます。どうぞ犬村や犬川とも力を合わせて、きっと伏姫さまのおん珠をとりもどしてたも」
 と、ばかにあらたまって村雨さまにあたまを下げたという。その真率、その可憐、見る者の胸をうたずにおかぬほど哀憐な、迫真の芝居であったらしい。
「肉彫り」の忍法が、顔かたちのみならず精神にまで影響をおよぼしたものであろうか。とすると、さすがは甲賀卍谷秘伝の忍法、いやいや、それをふるったおれの腕前が抜群なればこそだ、と角太郎はひそかに鼻うごめかした。ちなみにいえば、あとになってそれをきいた壮助も苦笑まじりで「信乃のやつ、あの肉彫りのせいでどこやら少しおかしくなったのではないか。姿だけでなく心まですっかり奥方さまになりかわったつもりでおるようだの。──犬村、貴公の術だがな、あまり効きすぎるのも考えものだぞ」と、感にたえたようにいったものだ。
 日ごろから態度のふざけた男ではあるが、恐れ多くも村雨さまの真似事なぞしてみせた信乃が腹立たしい。が、もっと面白くないのは、肝心の村雨さまのご様子だ。安房へ発つ信乃を万感こめた表情で見つめ、道中どうか無事で、とか、八房によくいいきかせておいたので傍から離さぬように、とか、これまた哀切に声をつまらせて見送られたという。
 面白くない。まったくもって、面白くない。
「恐れながら、奥方さま、それはいささか無謀というものでございます。相手は本多佐渡どのと服部組でござる。しずまりかえっているように見えても、その実、いかなるたくらみをめぐらしておるか──向うの手のうちを知り、対策を講じる前に、うかつに噛みついてはかえって危い。きゃつらには万全を整えて挑まねばなりませぬ。それに犬塚も未熟とはいえ八犬士、小賢しさにかけてはちょっと比類ない奴なれば、見事ぬけぬけと化け通してみせるでありましょう。さいわい、まだ日はありまする。珠は期日の九月九日までに奪いかえせばよいのでござりまする。さればによって、これより智恵をしぼり、策に一工夫も二工夫も──」
 不機嫌を声ににじませた角太郎をさえぎり、村雨はきっとしていった。
「ええ、左様にいたずらに時をかけぬため、こうして江戸まで出てそなたらに頼っておるというのに。こたびの里見家の大難は、わたしがもとでふりかかったもの……だからこそ、坐して待つだけの日をすごすなど村雨はたえられぬ。一日も早う、お家の大難を救って、村……いえ、殿のお苦しみをのぞいて御安心させたいのです」
 そもそも伏姫の珠の盗難が、大久保家とつながりのある里見家をとりつぶすための謀事はかりごとなのだから、そのつながりの要因たる村雨が焦慮するのももっともだ。奥方さまこそご心痛はいかばかり……と、角太郎と壮助はそろって神妙にうなだれた。
「なんぞ、珠を奪う手だてはないか、角太郎」
「はっ、ただいま思案中でござります。それはいずれ──」
「壮助はどうじゃ」
「はっ、拙者も目下思案中でござります。それはいずれ──」
 もごもごと語尾を濁す両人を冷ややかにながめると、
「何をのうのうと。そなたらそれでも音にきこえた南総里見の八犬士かえ? ほんに、あてにならぬものどもよな」
「…………」
「…………」
 可愛らしい唇でなかなかに痛烈なせりふを吐く村雨だが、何といわれても二人は一言もない。
「いずれ、など悠長なことを申して間に合うのか。こうしている間にも信乃は……信乃は……」
 両腕をもみねじってあえぐような声を上げると、村雨は天井をふりあおいだ。──どうもヘンに芝居がかった仕草だが、奥方さまを神聖視している角太郎と壮助はまったく気づかない。奥方さまの眼になんと涙まで浮かんでいるのを見て、犬塚信乃が猛烈に妬ましくて悔しくて、いやに信乃にこだわる彼女を怪しむところまで思考が回らなくなるのだ。
「わたしの身代りとなってくれた信乃はいまごろどうしているか。館山城には大膳がいるとはいえ、どんなに心細いきもちであろう……もしやすると、とうに服部に見破られて捕らわれて、ひどい責めにおうているのでは……と、あれのことばかりがいつも気にかかるのです。離れているとつらい、苦しい。信乃を想うと、ああ、わたしは胸もつぶれるようじゃ……」
 角太郎は、一日でも一刻でも早く、服部半蔵が信乃の変装を看破してくれるよう願った。看破し、討ち果たしてくれるよう祈った。──信乃よ、さっさと死んでしまえ。
「信乃にもしものことがあったら角太郎、壮助、そなたらをゆるしませぬぞえ」
「へへっ」
 繊手で畳をたたかれ、二人は平蜘蛛みたいにひれ伏してしまった。


「もうよい。わかりました。いつまでもここにいても、埒があかぬ。角太郎が頼りにならぬなら、──壮助、そなたのところへわたしを連れていっておくれ」
 歓喜に顔をかがやかせた壮助がうなずくよりも早く、壮助をつきとばしかねまじき勢いで身を乗り出した角太郎が、
「おっ、奥方さま! まず、まず、まずお待ち下されまし。なにとぞ、いましばらく、この犬村角太郎をお信じ下されまし」
 がっぱと両手をついて、
「小幡先生より学んだ武田流兵法、さらに孫子流、孔明流、楠流、以って一丸とした軍略で、日をおかずして必ずや残りの珠すべて奪い返し、犬塚信乃も無事に救い出してみせますれば!」
「ほんとう?」
「信乃めはどうあれ……あいや、それがひいては奥方さまのおん為とあれば、拙者の命にかえましても!」
 村雨は手をたたき、
「うれしい、さすがは犬村角太郎。それじゃあ、げんまん」
 命にかえても、という相手に「げんまん」とはひどいようだが、さし出された村雨のほっそりした小指へ反射的におのれの指をからめると、それだけで角太郎はたちまち、お日さまにあたった雪みたいにグニャグニャになってしまう。
 安房にいた頃にはあり得ない奥方さまとのスキンシップに天にも昇るような倖せはもとより、傍らで歯ぎしりせんばかりな犬川壮助の嫉妬と羨望の視線がいよいよたまらない。
(見ろ見ろ、おれは奥方さまからかくも絶大なご信頼をお寄せいただいておるのだ。物欲しげな面をして、おまえごときの出る幕ではない、負け犬は尻尾を巻いてとっとと失せろ)
 態度だけは泰然自若として、しかし、これはもうどうしようもなく倣岸に勝ち誇った笑みをライバルへ投げかける。
 が、──童女のようにあどけなく清らかに微笑む村雨さまのお顔を見ると、そんな見栄もかき消えて、ただ胸いっぱいに春の陽ざしのようなあたたかさが満ちてくるのがふしぎだ。
 だいたい角太郎はほかの連中みたいに、簡単におのれの命を捨てるつもりはなかった。公儀相手に死を賭してまで戦うつもりは全然なかった。……あいつらの死はまったく無意味でばかばかしいと思う。おれはあいつらとは違う、あんな風に犬死する気は毛頭ない。何も死ぬ必要などないのだ。伏姫の珠さえ奪い返せばいいのだ。珠をぜんぶ奪い返し、奥方さまに元どおりの平穏をお戻しさしあげたら、おれもまたいままでと変らぬ日々を生きてゆく。それでいいではないか。……
 彼がこれまで心血そそいで軍学を学んできたのは、自己の立身という野心からであった。高名な小幡勘兵衛に師事し、師の兵法、兵論を吸収してあまさず究め、いずれは小幡道場をついで、さらにゆくゆくは犬村軍学を樹立して世にひろめるという未来への夢であった。それが、犬村角太郎として唯一無二の「生き甲斐」だと信じていた。
 しかし。──
 こうして村雨のおん方を前にしていると、そのかがやかしい未来も壮大な野心もかすんでうすれてゆくのはどうしたことだろう?
 村雨さまの存在に比べれば、そんなものにどれほどの価値があろうか。このお方の笑顔をお護りする、そのためならばたとえこの身を捨てたとて何の悔いあらん。むしろ、男として本望本懐のいたりだ。命がけで護るべき大切なものこそ、ほんとうの「生き甲斐」に値するのではないか? ──そう、この笑顔のためだけに。
 それが自分へ向けられるのが、ほんの一瞬だとしても。
 先を争い服部組に特攻をかけて死んでいった仲間たちを見ているうちに、彼らの憑きものがうつりかけたのかも知れない。ガラにもなく悲壮な感傷を抱いて角太郎は微笑して村雨を見つめた。
「誓いまする。必ず、村雨さまのおん為に、力を尽しまする」
「…………」
 そのしずかな微笑をしばしじっと凝視していた村雨は、不安げに何かいいかけたが、思いなおした風で口をとじた。どこか気まずげに眼をそらすと、繋いだままだった小指をほどいて、
「ありがとう。苦労をかけます。……けれど、くれぐれも無理はせぬように」
 とつぶやくと、すっと立ちあがった。
「そちたちの忠義は、村雨、身にしみてありがたく思うています。ずっとわたしを助けてくれているのに、つい気がたって、ひどいことをいってすまなんだ。──すこし、疲れました。湯浴みをして休もうかと思うが、──そうじゃ、犬川、一緒に来て手伝ってたも」
「……は?」
「……へ?」
 犬川壮助と犬村角太郎はぽかんとした。……村雨さまは、いま、何とおっしゃられた?
 村雨がくり返した。
「壮助、来や」
 茫然としていた壮助は村雨を仰ぎ見た。と、彼女と視線が合うや、ぶるぶるとはげしく首をふった。
「……や! で、ですが……そのっ、いや、しかし……しかし……」
 あまり唐突で、どう答えていいのか判断を絶したようで、ばかみたいにひたすら首をふり続ける。端整な容姿に似げなく、狼狽動顛、泡をふきそうな態だ。頬が火のついたように赤い。
 壮助以上にびっくり仰天したのは角太郎である。これはむしろ蒼ざめた必死の形相で、
「……む、む、村雨さま! そのような御用は下女にお申しつけ下され! はやまられまするな。こやつを信用されてはなりませぬ。万一、間違いが起ってからでは遅うござりまするぞ! 屋敷の女どもがお気に召されぬというなら、こ、この角太郎が代って……」
 混乱してとんでもないことを口走ったが、角太郎は真剣そのものであった。
 座敷を出かかっていた村雨は、足を止め、ふりかえった。冷然たる表情で見下ろすと、
「犬村は油断がならぬゆえ犬川に頼むのです。……壁の覗き穴を気にしながらでは、おちついて湯につかっていられぬ」
 ふくみ笑いしつつ、しかも氷の鈴をふるような声であった。
 唐紙がピシャリとしめられ、村雨さまの足音が遠ざかって消えるまで、角太郎は面をあげられずにいた。
 ……しばらくの沈黙のあと、犬川壮助は犬村角太郎をじろっとにらみつけた。
「先刻の奥方さまのお言葉はどういう意味だ? 犬村」
 異様に声がひくい。眼つきが実に剣呑だ。背に冷や汗を感じながら、角太郎はおどおどといった。
「ど、どういう意味と申して……。つ、つまり……」
「奥方さまは、壁の覗き穴、と仰せられたなあ。……よもや、おまえ、御入浴中の村雨さまを……」
「ば、ばかをぬかせ……ひともあろうに奥方さまに、な、なんでわしが、左様な大それた、愚かなふるまいをするものかよ……」
「ほんとうか? ほんとうか、犬村? おい、しっかりとこちらを向け。おれの眼を見て、もういちど答えてもらおうではないか。──先刻の奥方さまのお言葉はどういう意味だ? 角太郎」
「ど、どういう意味と申して……。つ、つまり……」


 二人はむろん、唐紙をへだててきき耳をたてた村雨が──村雨の姿をした「彼」が──いまにも爆発しそうな笑いをこらえるのにおそろしく往生しているのを知らない。


 本多佐渡守様御興行、伊賀甲賀珠とりの忍法争い。千秋楽は三月三日。
 上巳の御祝まで──あと七日。
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