木造京馬

びるしゃな如来のせいでどうにもこうにも、な木造京馬と旗姫。


「九月九日 滝川左近に仰せ付けられ、多芸谷国司の御殿を初めとして、悉く焼き払ひ、作毛を薙ぎ捨て、亡国にさせられ、城中は干殺しになさるべき御存分にて、御在陣候のところ、俄かに走入り候の者、既に端々餓死に及ぶに付いて、種々御侘言して、信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
 十月四日 大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城候ひしなり」
(信長公記)


 初夏の風薫る大河内谷。チチ、チチと山鳥の鳴き交わす声が聞こえるばかりの山林に、旗姫はひとり黙然と立ちすくんでいた。胸の前で両手を組み、祈るような不安げな眼を一方向にじっとそそいで。
 頭上をゆれる青葉のあいだから差しこむ朝のひかりが、着物と市女笠に金の縞となって幾重にもおちている。やや湿気を帯びて生ぬるい風が、うすくれないの被衣をはらりと吹きはらった。
 ──被衣からのぞくその姿の、なんという美しさ。黒い星のような瞳、すっと形よく通った鼻梁、ふっくらとした愛らしい唇、かすかなさくら色の滑らかな肌──あえかと形容してもまだ足りず、まるで優美で繊細な一個の細工物のようだ。
 春月のごとき清純のかがやきをはなっている姫君は、しかもなお、その身に浴びたまじないの効力もあらたかに全身にからみつくこの世のものとは思われぬ妖艶さ、なまめかしさが匂い立って、一帯の空気をすら濃密に感じさせるほどである。
 純真にして淫蕩、妖美にして清楚。「あらゆる男を悩殺せずんばやまざる女人」「男は、地上のほかの男を殺しつくしても、その女をおのれのものとしたいという心の業風に吹きどよもされる」──果心幻法びるしゃな如来。
 その姿を眼にした男をすべて、肉欲の地獄に引きずりこむ魔性の女人。が、おのが身に起きた怪異をいまだつまびらかには知らぬ旗姫さまは、凝ったように身じろぎもせず、ただひっそりと立ちつくしていた。


「……姫さま! 旗姫さま!」
 いつからそこでそうしていたかわからなくなるほどの、半刻が永遠にも感じる静寂のなか、遠くから自分を呼びたてる声をかすかに耳にとらえて、旗姫は憂わしげな顔をあげた。
「旗姫さま!」
「おう、京馬!」
 近づいて来るその声を待ち望んだ相手のものと知って、旗姫の表情がぱっとかがやいた。と、見まもっていた前方の熊笹の茂みをがさがさとかきわけて、郷士風の精悍な若者が息せき切ってあらわれた。
「京馬、よう無事で……おまえにもしもの事があったらと、旗はそればかりが心配でした」
 安堵の笑顔で駆け寄った旗姫を、これも笑顔で迎えかけた木造京馬はふいに顔をひきつらせて、ぽうんと二、三間も飛びずさった。磁石の同極を合わせたみたいに敏捷なその動きに、旗姫はたたらを踏んで立ち止まった。びっくりして見張った眼に、ありありと傷ついた色が浮かんだのを見て、京馬は心中に、しまった! とさけんだ。
 旗姫さまが、じぶんの顔かたちが何か恐ろしい、厭わしいものに変わっているのではないかという疑いをお抱きなされているいま、そのことを気取られるような行動はひかえるべきところを、まったくもってうかつであった。
 安心させようとあわてて、それでもぎりぎり十歩の圏外まで姫の傍へ寄り、大手をひろげて微笑みかけた。
「お待たせいたしました。林崎は拙者がなんとか追い返しましたれば、ご安心下されませ」
「…………」
「しかし、きゃつ、まだ執念深く姫のおいのちを狙って追跡して来るやもしれず。このまま留まっていては危のうござります。早く、一足でも遠くへ逃げなければ……姫、いざ参りましょう。……」
「…………」
 旗姫は黙って、哀しみをたたえた瞳でじいっと京馬を見つめている。参りましょう、とうながしたものの、旗姫が動かないので京馬もまた、その場に突っ立ったきり動けずにいる。
 不安を与えぬために無理に笑みこそ浮かべてはいるが、この間にも背後から林崎甚助が、もしくは片山伯耆守が、いや、かの大剣士十二人が一斉に迫り来る跫音の幻聴に髪も逆立つような思いの京馬は、旗姫の手をひいて駆け出したい衝動にかられた。──が、いかんせんびるしゃな如来によって物理的に近づくこともままならず、また心理的にも軽々しくお手に触れるなどゆるされない、主君の御息女、旗姫さまである。
 ふっと旗姫の眼が京馬の左手にとまった。
「……手を、どうしやった」
「──は?」
 いわれて左手を見て、はじめてその手が血まみれになっているのに気がついた。どうやら林崎甚助と対峙した際の綱飛びの荒技で、掌の皮膚を破いたらしい。京馬は苦笑して、左手を背後にかくした。
「あいや、技の未熟にて、少々傷を負ったようで……お恥ずかしい限りでござる。それよりも、旗姫さま、早くお逃げなされませぬと……」
 焦燥をにじませた京馬の口ぶりにかまわず、旗姫は心配そうな顔で、背にまわした彼の左手をのぞきこもうとする。
「少々といっても、ひどい出血ではないか。まさかおまえ、林崎に斬られたのではないかえ? その手を見せやれ」
 旗姫が一歩近づく。
「さ、左様なことではございませぬ。これはただのかすり傷にて……」
 京馬が一歩あとずさる。
「何でもよい、ともかく傷の手当てをせねば。……京馬、なぜ逃げやる。寄りゃ」
 旗姫がさらに二歩近づく。
「ご、ご、ご心配は御無用にございまする──いえ! 姫さまのお気遣いは、拙者ごときにあまりにもったいのうござりまする。まこと、何ともありませぬゆえ、ど、どうぞ、お構い下さらず──」
 京馬がさらに二歩あとずさる。
 怯えとしか見えぬ蒼白の顔いろで、自分とのあいだに正確に十歩の距離をおいて移動する京馬に、ふいに旗姫はべそをかいた子供のような表情になった。被衣をおさえた白い手がかすかにふるえて、
「…………おまえは、そんなにわたしが嫌いか」
 雨にぬれる花のように寂しげな声で、ひくくつぶやいた。その眼にひかる涙に京馬ははっと吐胸をつかれて、とみには言葉を発せられず、全身固まったみたいに立ちすくみ──と、旗姫はくるっと踵をかえして、山路へと続く斜面へスタスタとあるき出した。
「──京馬、ゆこう。林崎やら、織田家の付人やらが、わたしを追うて来るのであろ」
「……は、はいっ」
 あともふりかえらず、凛とした語韻の旗姫さまの声であった。呪縛から解かれて、よろめく足どりで京馬は彼女を追いかけた。姫の華奢な背に万感のこもった視線を投げつつ、彼の耳に主君、北畠具教の言葉がふとよみがえった。
「於旗はの、京馬、お前が好きじゃと申した。さればこそ、いつぞやの自分の運命、京馬の心にまかすと申した」……
 いまでも、あれはほんとうに現実のやり取りであったろうか、と思う。夢幻の精にもひとしい存在である旗姫さまが、賤しい一介の忍者たる自分に好意をお持ちになるなど、あまりにも恐れおおくて想像を絶している。──
 昨夜、太の御所をともにぬけ出してから、旗姫がときに向ける熱っぽくうるんだまなざしと、語りかける声音の甘い響きに実際に触れてもなお、半信半疑のていたらくである。むしろ、旗姫さまの銀の鈴をふるうように透きとおった声で名を呼ばれるたびに、魂もしびれるほどの歓喜と光栄にうちふるえているのは京馬の方だった。
 一見粛々として、しかし内心は、旗姫のいじらしさに対する哀憐の情と、悲しませてしまった申し訳なさと、ひとまずこの場はやり過ごせた安堵とが入り交じって、実に京馬の胸中は複雑きわまりない。……


 つつじやしゃくなげの群落があちこち咲きゆれている山道を、旗姫はうなだれがちにゆっくりと歩をすすめる。時折ふり向いては、十歩以上離れてついて来る京馬を無言で見つめる。その心細げで頼りなげな顔は、寄る辺ない幼子じみて、京馬の胸がキリキリと痛んだ。
 いますぐ駆け寄って、か細い肩を抱きしめたい気持ちをぐっとこらえる。もし、われを忘れて姫に近づけば、あさましい醜態をさらすことになるのだ。……その醜態を旗姫さまに見られる羞恥はもとより、それ以上に、旗姫さまの清らかなお眼を不浄のものでけがす、そのことの方が京馬は恐ろしかった。
 京馬はここにおりまする、ご安心召されませ。──口には出さねど、やさしく微笑んでわずかにうなずいてみせた。すると、旗姫もまた沈んでいた表情をわずかに明るませて眼だけでうなずき、あるき出した。まるで親鳥を頼りにし切った雛鳥のような様子である。
 その様子を、京馬は可憐と感じるより、心からいたましいと思う。なんの罪あって、この伊勢国の姫君が、おのれの領内の山をこうして漂泊される御艱難にお遭いなされなければならぬのか。……なんの罪あって? 然り、それは決して旗姫の罪ではない。旗姫自身にはひとかけらの罪もない。ふたりをしてこの状況におちいらせたそもそもの原因、すべての元凶は、別にいる。
 ──飯綱七郎太。
 かつては誰よりもふかく敬愛していた男の顔を脳裡にえがいて、京馬は眼もくらむほどの怒りに拳をふるわせた。旗姫さまをびるしゃな如来と化すため、おのれの片腕すら失った七郎太だ。姫への狂的な執着を思い合わせるにつけ、いずれこの旅の前途に、あの妖忍者が現れるだろうことは疑いない。
 もはや兄弟子とは思わぬ──きゃつ、必ずやこの手で討ち果さずにはおかぬ、憎むべき敵だ!
 と、脳髄も煮えたぎらせた憤怒が、水を浴びたようにすうと引いた。前途に現れるのは飯綱七郎太だけではない──かの剣士群も巨大な魔影となって立ちふさがるであろうことに想到したのだ。
 七郎太だけならば、むろんいのちをかけても討つ。討ってみせる。だが……あの剣士たちが、旗姫を奪うべく本気で襲いかかってくるとしたら、おのれの力でどこまで抗えようか?……
 ひとりひとりが万夫不当の剣豪たちである。しかも、剣の腕のみならず、心ばえも高潔で、相対した何ぴとにも畏怖と尊敬の念を抱かしめる人々であった。あの全員が、びるしゃな如来に魅入られ妄執にとりつかれて追って来るとは信じられないし、考えたくない。……
 しかし、事実として京馬はつい先刻、そのなかの林崎甚助と片山伯耆守に遭遇したばかりなのだ。渇するごとく血走って爛とひかる眼、全身から発する名状しがたいぶきみな妖気──「名剣士」とは別人のように変わっていた彼らを思い出すと、魔手から逃れたいまになっても戦慄を禁じ得ない。
 あのあと両人がどうなったか、京馬は知らない。対決の結果を見ずに逃げ出した。
 最悪、大剣士の全員が破戒の地獄に堕ちられたとして、十二人。よしや、林崎と片山両人が相撃ちしたとして、それでも十人。なかんずく、恐るべきは──
 上泉伊勢守、塚原卜伝の二大剣聖。
 総身の肌が粟立つような恐怖をおぼえて、京馬はわれ知らず身ぶるいした。……が、前をゆくあでやかで高貴な雛鳥を見まもって、萎えかけた意気を必死にふるい立たせる。
 ゆく手に何者が待ちうけていようとも、もはや引き返すことは出来ない。たとえこの身にかえても、旗姫さまを護らねばならぬ。もとのおからだにお戻りなされるまでこれから半年、お護り申しあげて──なんとしても無事に太の御所へおとどけいたさねばならぬ!
 太の御所へ……旗姫の花婿たる、織田茶筅丸のもとへ。
 いったんは晴朗と澄みわたった木造京馬の心を、暗澹たる雲でふたたび覆いつくしていくのは、そくそくと迫る飯綱七郎太と剣士群の影よりも、厳然として動かぬ現実のこの一事であった。──


 たがいに無言のまま、三間ほど離れてあるく若い男女に、あくまで明るくうららかな五月の陽光がふりそそぐ。
 青嵐そよぐ奥伊勢。古来深山谷と呼ばれた景観は、眼下に蒼く櫛田川をのぞみ、遠方に緑なす山々が連綿と続く。いたるところにつつじの真紅の花が咲きみだれていた。チチ、チチと小鳥が鳴いた。
 この先、血風のなかに次々とえがき出されてゆく修羅図と対を為すがごとく、それは夢のように美しく、平和な、一幅の風景画であった。
 世にも異常な、滑稽な、そして悲壮な同行二人旅。──
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