犬塚信乃

或る約束を交わす犬塚信乃(小信乃)と村雨のおん方。


 慶長十六年春。安房国。
 根子屋山にそびえる館山城の中庭を、ひとりの女人があるいていた。
 いや、正確には少女というべきか。あかるい春日の下、その姿は陽射しよりもなおかがやき、あでやかな雛のように愛くるしくて、女人というにはまだあまりに稚なく、清麗ですらある。
 安房九万二千石の大守里見安房守忠義の妻、村雨のおん方であった。


 シトシトと中庭の隅まで歩んできた村雨のおん方は、一本の桜の古木の前で立ち止まり、頭上をふりあおいだ。
「小信乃」
 銀鈴をふるような声で呼びかけると、上から狼狽した、もうひとつの声がふってきた。
「お、お、奥方さま!」
 ざざっ、と葉ずれの音とともに、枝のあいだから人影が舞いおりた。そのまま、がばとひれ伏す。
「い、いかがなされましたか。かような場所へ、奥方さまおひとりで──」
「そなたをさがしていました。現五に問うたら、ここにいるのではないかと申したゆえ。顔をあげなさい」
 村雨の言葉に、足もとに平伏していた男がおそるおそる顔をあげた。
 まだ若い。十五をいくつも過ぎていないだろう。色白で幼さの残る顔だちは、燦々たる瞳、花びらのごとく赤い唇、女にもめずらしい美貌である。
「拙者を?」
「大膳からききました。犬塚、そなたら、明日、甲賀の卍谷とやらへ修行に出るそうですね。甲賀国はここより百五十里。長くけわしい旅になるであろ。そのうえ、いつ戻るかもしれぬという。だから、わたしからみなに──」
 そういって微笑む村雨に、犬塚小信乃はみるみる頬を染めたが、彼女はそれには気づかず、
「この半年、そなたらはよく仕えてくれ、わたしを慰めてくれました。礼をいいます。甲賀へ行っても、息災ですごすのですよ」
「も、もったいないお言葉にございます!」
 感きわまった震え声でさけぶと、ふたたび地面に額をこすりつけんばかりにひれ伏した小信乃を困ったような笑顔で見ていた村雨は、ふと、古木に眼を戻した。
「そなた、この上でなにをしていたのです?」
「──はっ」
 小信乃は頭をかいてやや口ごもった。
「その──出立の前に、もう一度この安房の景色をよく見ておきたくなりまして──」
「ああ、それは悪いことをしました。ゆるしてたも」
「いえ。──」
 ふかく感じいったようすの村雨を見て、小信乃はそれ以上言葉が続かず、口をもぐもぐさせた。
 ほんとうのところはそんな感傷的な気分などではなく、単にいつものごとく樹上で高いびきをかきながら昼寝していただけだから、それで感動されては良心も痛む。──
 例年にない春の長雨のせいで、七分咲きのうちに花の多くを落とした桜の大樹はいまはみごとな葉桜となって、午後のやわらかいひかりをうけ青々と輝いている。
 先ほどの小信乃のでまかせではないが、まるでその風景を眼に焼きつけるかのようにじっと頭上をあおいでいる村雨に、小信乃はたずねた。
「──村雨さまは桜がお好きでございますか」
「ええ」
 と、桜を見あげたまま、村雨はひどくしずかな声でこたえた。
「今年は雨続きのせいで花見のひまもなく散ってしまい、さぞ残念でございましょう。しかし、南総の花は桜だけではありませぬ。奥方さまのお眼を愉しませるものは、他にもたんとございますれば」
「南総の花。……」
 村雨はどこか遠いまなざしで、ぽつりといった。
「たしかに、わたしの見たこともない花がここには数えきれぬほどある。豊かな、すばらしい、極楽のような国とも思う。……でも、わたしはやはり桜が一番好きじゃ。桜だけは、どこもかわらず、同じように美しい。──」
 そのわずかに沈んだ声音と寂しさの翳をひいた横顔で、小信乃ははっと気がついた。いま村雨がひたと見つめているのは、目の前の桜ではなく、故郷の桜であるということに。


 大久保相模守忠隣の孫である彼女は、半年前、海の彼方の相模国からここ安房国の里見家に輿入れしてきた。むろん、政略結婚である。
 大名の息女に生まれ、大名の妻となるべく育てられた村雨姫ではあるが、おんとしわずかに十四。日頃は気丈にふるまっていても、ふとしたはずみにホームシックにかられるのは当然で、小信乃はおのれのうかつさを呪いたくなった。
 奥方さま、などとお呼びするのが不思議なほど可憐で心細げな姿の村雨である。このあどけない、かよわい姫君が政略の道具としてつかわれるとは、なんとむごい──と、小信乃の胸はいたましさでいっぱいになった。
「村雨さま。村雨さまは、拙者どもが甲賀へ何しに参るか、御存知でござりましょうや」
 あえて気楽な声と顔をつくり、小信乃は村雨に話しかけた。村雨は夢からさめたような表情で小信乃に視線を向けると、小首をかしげた。
「さ、それは。大膳は修行としか申さなんだけれど……」
「さてこそ。なんとなれば、お家存続、安房九万二千石泰平のための重大事でございますからな」
 やけに重々しい口調でうなずく小信乃に、村雨は眼を丸くして身をのり出した。
「──とはえ?」
「拙者どもは、甲賀卍谷に忍びの術、忍法の修行に参りまする」
 といって、小信乃はにっといたずらッ子のような笑みを浮かべた。村雨はキョトンとしてききかえした。
「忍法?」
「関ヶ原の戦より十年。世は一見平安と見えまするが、その実、駿府の家康公は大坂の豊臣を疎んじているとのもっぱらの噂でございます。ちかく、ふたたび戦乱となるは必定にて、一刻をも争う時勢じゃ、里見家も安穏と坐してはいられぬ、さればその方らは忍びとしての修行を積み、こと起きたるときには馳せ参じて身命をもってお家に尽くせよ──、との御家老どのよりの御厳命にござりまする」
「まあ! そなたらがそのような大命をうけていたとは知らなんだ」
 国家老正木大膳の口ぶりを真似つつわざとらしくもったいぶった小信乃の説明を疑いもせず、村雨は素直に感嘆の声をあげた。
 しかし、いまの小信乃の台詞はもちろん大げさで、半分は当たっているが半分は外れである。世評はたしかに駿府の家康と大坂の秀頼との不和を伝えているが、すぐに戦が起きるほどの切迫した事態ではまだない。もし開戦となるにしても、早くてもあと三四年は後のことであろう。
 そして、小信乃の他七人の若者が甲賀卍谷へ行くのはたしかに忍法修行のためだが、それは彼らの怠惰で不真面目な性格を矯正すべく彼らの父親である里見家の家臣老八犬士たちが、なかば追い出すようにして強引に決めたことであった。八犬士の伜たちは伜たちで、口うるさい父親の監視から逃げられるもっけのさいわい、とばかりに浮かれて、修行どころかちょっとした物見遊山気分でいた。
 大命もなにをかいわんや、である。軽口のつもりで大風呂敷をひろげたものの、村雨の無邪気な反応にさすがの小信乃もちょっとバツの悪そうな顔をした。
 ──けれど。甲賀行きにはもっと大きな、ほんとうの理由が、もうひとつあった。


 七人の仲間たちの誰とも、そのことについて話をしたことはない。それでも小信乃は、他の連中みながじぶんと同じ想いを胸のうちに抱えていることがわかっていたし、じぶんの想いが他の連中みなに知られていることもわかっていた。
 彼らは、八人全員が、あるひとりの女人に恋をしていた。
 主君里見忠義の奥方。村雨のおん方である。──
 恋というにもあたらないかもしれない。彼らにしてみれば村雨さまは天上の月輪にもひとしい、この世のものならぬ別世界の女性であった。軽はずみな恋情を抱くなど恐れおおい高貴のお方、ただ仰ぎ見るだけで満足する崇拝の対象であった。
 ただ──はるかな夜空にかかる月と違って村雨さまは、この城内でお暮らしなされている。
 里見家の家臣である八人はあるときは遠くから、またあるときは間近で、そのお姿を眼にし、そのお声を耳にする機会が常にある。それは、なまじ身近で現実感があるだけに、八人にとってこの上ない幸福であり、気が狂うほどの苦しみでもあった。──決して手のとどかぬ神聖な存在でありながら、彼女が里見安房守の幼妻であるというのもまた現実なのだから。
 卍谷で忍法修行、などという得体のしれない命令に八人が唯々諾々と従ったのも、この甘美な地獄に耐えられなくなったからであり、彼らは一日でもはやく館山から、村雨さまのお傍からはなれたかったのである。──


 いま、手をのばせば触れられる距離で、その村雨さまが笑っている。
 彼女には、彼女にだけは、じぶんの心を知られてはならない。知らせることはゆるされない。むろん伝えるつもりもない。
 わかりきったことだ。それでも、ともすれば涙が出そうになるのを懸命にこらえて、小信乃は笑顔をかえした。
「きくところによれば忍法とやらは、水に立ったり壁を走ったり、まことに奇態な術であるそうな。それならば桜を意のままに咲かせることなど、忍法をもってすればたやすいことでございましょう。村雨さま、この犬塚小信乃、きっと術を身につけて、あなたさまのおん前でこの庭中の桜を満開にしてごらんに入れまする」
 と、小信乃が胸をたたくと村雨は眼をきらきらさせて歓声をあげた。
「小信乃、それはまことか? 忍法とはそれほどに不可思議なことができるのかや?」
「忍法になければ、拙者があたらしく術を編み出しまする」
「いつ? いつそなたは帰ってくるのかえ? かならず見せてくれると、わたしと約束してたもれ。忘れてはいやですよ」
 好奇心にあふれてはしゃぐ村雨の姿は、十四歳の童女そのものであった。
 こんどは、無理をしたつくり笑顔ではなく心からの笑顔で彼女を見つめながら、小信乃は思った。
 この村雨さまこそ、おれの御主君さまだ。このおん方の幸せのためになら、おれは何だってできる。代わりに何を失ったって構いやしない。親父たちがことある毎に伏姫の珠をもち出して長々と説く仁義礼智忠信孝悌にはウンザリだし、ましてやお家への忠義心もさらさらない。里見の八犬士など願い下げだ、そんなくだらんものは犬にでも喰わせるがいい。
 だけど……もし、もしいつか、何かを護るためにおれがいのちをかけるときが来るとすれば……それは決して里見家でもなく、人道八行などにでもなく……。
 ──この村雨のおん方、ただおひとりにだ。


「約束ですよ、小信乃」
「はい、村雨さま」
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