陽炎

陽炎開眼。


「わたしと交合したくないかえ」
 陽炎の言葉に、男はあっけにとられた顔で硬直した。意味のわからない、はじめてきく言語にとまどったように、きき直す。
「…………は? いま、何と?」
「だから、おまえ、わたしと交合したくはないかえ」
 陽炎はくり返した。感情のまったくない冷たい無表情であった。カビ臭く、ヒンヤリした水底のような冷気のこもった忍び蔵の内部に、そのけだるい声音は奇妙な反響をのこした。厚い壁に沿った棚には、用途の想像もつかない奇怪な形をした道具がずらっとならび、床にはたくさんの鎧櫃や長持がところ狭しと積みあげられている。
 男は、彼女を見あげ、見おろした。着物を押しあげている豊満な胸。おどろくほど細くくびれた胴。きれいな曲線をなしてむっちりと張った腰……。おぼえず、なめるような視線を陽炎のからだ中にそそぎ、みるみる頬を染めると一歩あとずさった。
「──な、な、なにを申されます。お嬢さま──お気はたしかでござりますか?」
「…………」
 黙って陽炎は一歩近づいた。ドギマギしたようすで男が眼をそらし、またそれを戻す。陽炎の唇が動いた。
「わたしはおまえと交合したい」
 けくっ、と男ののどが鳴った。
「お、おたわむれを……。勘弁して下さりませ……」
「たわむれてはおらぬ。おまえに陽炎をあげます。好きにしや」
 といって、陽炎は今しがた入って来たばかりの入り口へあるいていった。あけ放してあった扉をしめ、引戸に心張り棒をかって戻って来ると、あおのいて男をじいっと見つめる。台詞のみならず、行動でも要求を示しているのだ。
 棒立ちになっていた男のからだが瘧にかかったみたいにふるえ出した。恐怖からではない──薄暗い蔵の中でもはっきりとわかるほど眼が血ばしって、あきらかに肉欲による昂奮の相であった。
 ……しかし、たとえこの状況ではなくとも、この女にこんな風に見つめられて昂奮せぬ男が世にあるだろうか。華麗な顔だちはまるで大輪の牡丹のようで、大きくまっ黒な瞳がとりわけみずみずしくういういしく、しかも向かい合うと、男という男の脳髄をどろどろに溶かしてしまう魔魅の蠱惑を内側から醸し出す。地獄的な美の結晶。それが陽炎という女だった。
「……御当主さまも御承知なされたことですか」
 かすれた声で問われて、陽炎はゆっくりとかぶりをふった。
「いいえ。母上とは関わりない。むろん告げるつもりもありませぬ。このことは母上にも、誰にもいわぬ。わたしがゆるしているのです。──それとも、わたしがきらい?」
 男がちぎれんばかりに首をふった。喘鳴まじりでさけんだ。
「とっ、とんでもない! きらいどころか……おれは、ずッとお嬢さまが好きでありました! ……いいや、あなたに惚れない男がこの世にいるものか!」
「そう。だったら──さあ、お抱き」
 ぞっとするほどなまめかしい媚笑を浮かべて、陽炎が右手をさしのべた。妖しいまでに美しい──淫蕩きわまる官能の女神がそこにいた。男はぶるっと胴ぶるいすると、その手をつかんで引き寄せ、かぶりつくように口を吸った。次いで、陽炎の両肩を抱いて床へおし倒した。埃があたりに舞った。


 甲賀信楽の卍谷と、伊賀北部の鍔隠れの谷。
 この両谷は古くからの忍者の集落という共通性があり、土岐峠をはさんで隣り合った国に存在するという親近性もありながら、四百年にわたっての仇敵同士だった。源平のむかしより「千年の敵」として憎み合い、殺し合ってきた宿怨の間柄だった。永きにわたる深刻な不和のもとが何であったのか、知る者はもはや双方にもほとんどいないというのに、激烈な敵愾心だけは星霜とともにふくれあがり続けてきた。それはいまや、理由などなくとも甲賀者は伊賀者を、伊賀者は甲賀者を、姿を見ればたがいに相手の息の根をとめるまでたたかわずにはおれない本能にまでなっている。
 数かぎりもなくくり返されるこの酷烈無惨の争いを見るに見かねたのが、伊賀甲賀の忍者すべてを支配下におく宗家たる服部家の主、先代服部半蔵であった。さんぬる年、先代半蔵は江戸麹町の服部屋敷に卍谷と鍔隠れの両首領を呼び出すと、ひとつの誓約を二人に申しつけた。
 両門争闘の禁制である。
 先代半蔵の厳命によって、卍谷と鍔隠れの忍者は、公私にかかわらずあいたたかうことをいっさい禁じられた。──しかし、この約定によって二族の和睦が実現したかというと、そうはならなかった。むしろ禁制されたがゆえに、怨恨はいっそう根深く陰湿になったといってもいい。甲賀卍谷、伊賀鍔隠れ、ともに不倶戴天の関係は硬化しても軟化することはなかった。
 ──伊賀者を殺したい! ──われらが忍法をもって、鍔隠れの者どもことごとく血泡をふかせてやりたい!
 敵意に満ちた呪詛は、卍谷に生まれた陽炎の耳朶にも絶えずひびいている。それは、彼女の身のうちを流れる四百年前の甲賀忍者の血の呼び声であった。
 ……ところで。陽炎は甲賀の血の奔騰にひたるほかに、もっと心をとらえられているものがあった。
 それは恋だ。彼女は物心ついたときからずっと、ある男の姿を眼で追い、その男の名を心奥で呼んでいた。すなわち、卍谷の頭領甲賀弾正の孫、弦之介。
 陽炎は少女の頃からいくたびも、甲賀弦之介の花嫁となる日のことを夢みた。ふつうならば頭目の跡継ぎに対して抱くべからざる恋情と妄想である。だが幸いなことに、彼女は卍谷で甲賀弾正家につぐ家柄の娘だった。血統においても容色においてもわたしほど弦之介さまの妻としてふさわしい者はいない、と彼女はひそかに自信をもっていた。
 甘い陶酔で胸を満たす、充分にかなう見込みのある夢はしかし、陽炎が十二になった年の一日いちじつに霧散した。その日、陽炎はおのれのある秘密を知った。秘密であると同時にそれは、弦之介と結ばれる可能性が万に一つもあり得ないおのれの宿命でもあった。──いかに家格が釣合おうとも。──いかに彼を愛していようとも。
 陽炎は絶望して、弦之介をあきらめた。なおかつ捨てきれぬ思慕をひた隠しに隠し、じらい、ただ彼の後ろ姿を心に刻むのみでせつなくも満足しつつ今日まで生きて来た。
 それなのに──。
 先刻、甲賀弦之介の婚約が調ったことを人づてにきいて、陽炎は脳天を鉄槌でうたれたような衝撃をうけた。足元が音をたててくずれ、どこまでも深く昏い奈落の底へ落ちてゆく気がした。
 弦之介さまはいずれ甲賀のしかるべき名家と縁組みをなさるだろう──それすら、想像しただけで五体を引き裂かれるにもひとしい苦痛を感じていたというのに──あろうことか、怨敵伊賀の娘を妻に迎えるなどとは!
 ちかい未来、甲賀弦之介は伊賀の女と祝言をあげる。悪夢よりもなお吐気をもよおすこの現実に、嫉妬と憎悪のどす黒い炎が陽炎の総身に燃えあがった。半年ばかり前、弦之介が伊賀へ見合いにゆくときいたときをはるかに超える猛烈さで。
 おなじ甲賀の女が選ばれると思えばこそ、それだけをせめてもの慰めとして弦之介さまへの想いをあきらめ、耐えて来たのだ。なのに、なのに。……断じてゆるせない! ゆるせるものかは!
 黒煙を吐く劫火は、だが弦之介ではなく、弦之介の許婚となった女を贄に求めた。会ったことはないが、名は知っている。
 鍔隠れの頭領伊賀のお幻の孫娘、朧。
 その名は陽炎の理性を灼きただらせた。──憎い! 憎い朧! このわたしがどれほど望んでもかなわなかった恋を、やわかうぬごときに奪われてなろうか!
 陽炎は激怒し、懊悩し、惑乱し、あやうく発狂までしそうであった。
 ──夢遊病者みたいな足どりで座敷からさまよい出た陽炎が、庭を掃いていた若い下男を呼びとめ、忍び蔵に連れこんで誘いをかけたのは、この激情と自暴自棄からきた破滅的衝動である。一度か二度、会話を交わしたことはあるが何らの印象もない、名前すら憶えていない男。だが、陽炎はその男にひきつけられるものを感じた。
 下僕の身にしては意外なほど品のある横顔が──かすかにどこか甲賀弦之介に似ていた。


 荒々しくのしかかって来た男の頭に両腕をまわし、ふくよかな乳房に埋れるほどに強く抱きしめる。男が苦しげにもがいたが、力を抜かなかった。相手の顔を見たくなかった。ただおのれの全身をまさぐる手と、重なり合う脚の感覚だけに没入したかった。
 眼をとじて陽炎はあえいだ。
 ──これは弦之介さまの腕。これは弦之介さまの脚。この肌も、この唇も、この息遣いも、弦之介さまのもの。──
 甲賀弦之介の、いつも何か深沈とした憂いをたたえた秀麗な容貌と、細身ながらもひきしまった筋肉のついた精悍な長身を、懸命に瞼に思いえがく。
 かつえたごとく胸を這いまわり、むさぼる舌──内腿にさしいれ、さらに奥を求めてくる指──自分を汚してゆく感触の一つひとつにふるえがとまらない。そのおののきが悪寒ゆえか、歓喜ゆえか、もうわからない。わかるのは──あの夜とおなじ、からだ中と頭の芯をとろかしてしびれさせる熱だけ。
「ああっ……弦之介さま!」
 昂ぶりにつきあげられて声がもれたが、夢中になっている男の耳にはとどかなかったようだ。狂的な愛撫に、陽炎は眼をとじたまま応えた。


 陽炎の母親は美しい女性だった。華麗さは緋牡丹のごとく、凛とした気品のなかにただよう濃艶さは芳しい花粉にむせる白百合を思わせた。彼女のゆくところ、その一挙一動に、男なら誰しもが視線を釘づけにされた。
 かがやくばかりの美貌と、女らしいやさしさと、礼儀作法への厳しさを持った母親は、陽炎の自慢であり目標でもあった。
 十二歳で陽炎が女のしるしをはじめて迎えた日、彼女の母親は、ふつうの親とおなじようによろこび祝福してくれた。……だが、その祝いとして娘に与えたものが、ふつうとは違っていた。
 その日の夜。母の寝所の隣の部屋で一晩をすごすよう命ぜられて、意図はわからないながらも陽炎は素直に命令に従った。そして、見た。
 男と交わる母を。──
 その行為の意味も知らず、生まれてはじめて見る男女の痴態と、生まれてはじめて見る母の淫らな姿にがたがたとふるえながら、しかし陽炎は襖の隙間から眼をはなすことができなかった。この場を逃げ出すことができなかった。どんな内容であれ、母親の命令は彼女にとって絶対であった。
 夜具の中で二匹の獣のごとくもつれあう肉体。鼓膜を打ちたたくはげしいあえぎと嬌声。──次第に、その光景も音響も朦朧とぼやけて遠くなり、──ただからだ中が、頭の芯が、病んだように熱い。
 恐ろしさのあまり歯をカチカチ鳴らしつつ、うなされたような眼つきでおのれの両肩を抱いていた陽炎は、しばらくして隣室からの物音がやんでいることに気がついた。はっとして隣をのぞくと、かぶさっていた男をふりおとして母が上体を起こすのが見えた。全裸の彼女は陽炎の方を向いて手招きした。陽炎は襖をひらき、糸に引かれたようにフラフラと彼女のもとへあゆみ寄った。
 陽炎をそばに坐らせると、母は傍らで倒れたままの男を見た。陽炎もぼんやりと男をながめた。短檠のあかりの下、かっと両眼をむいて絶命している。口の端から血を一筋たらし、日に焼けた浅黒い手足を鉛色にかえてゆくそれは……陽炎もよく知っている小者の若者だった。
 眼を陽炎に戻して、母が誇らかに笑った。
「これがわたしの力。──そして、そなたの力」
 ……情欲が胸に燃えたったとき、法悦のあえぎが死の息吹、毒気と変じて相手を殺す。わが一族の女は、代々、類いまれなる美貌とともにこの能力を血に秘めて誕生する。これこそが当家相伝の忍法。余人の及ばぬ、くノ一としての必殺の武器なのである……。託宣を告げる巫女のようにおごそかに母親は語った。茫乎としてそれをききながら、陽炎は、幼い頃より抱いていたいくつかの疑問の答えを知った。
 父親はまだ若く健康であったはずなのに、母親と祝言をあげた夜に原因不明の急死をとげたのはなぜなのか。屋敷に奉公する小者の中でとくに見目のよい青年が、何の前触れもなく姿を消すことがまれにあるのはなぜなのか。また、卍谷の男たちが自分を見るときの眼に、渇望と忌避と好奇と恐怖がまじり合ったような異様な色が浮かぶのはどうしてか──。
 さらに──将来、甲賀一党を束ねることが定められた貴い身分の男と、決して結ばれ得ないおのが宿命も理解した。
 この夜から、陽炎の魂は地獄に堕ちた。


 痛みと快美とがせめぎあった灼熱の衝撃に陽炎は小さく悲鳴をあげた。杏の花の香りに似た、甘い吐息の悲鳴だった。露にぬれてひらいた花弁のようなその唇へ、誘いこまれた虫のように男が吸いつく。一息か、二息か──突如、男の面上に名状しがたい波がはしり、
「……ぐうっ」
 と、うめき声をたててのけぞった。それまでとは違う種類の痙攣が全身にわたった。水晶のような双眸を見ひらいて凝視している陽炎の眼前で、男は鼻口を両手でおさえ、数瞬固まって、ふいにぐたりと突っ伏した。
 ややあって、陽炎は自分の上で動かなくなった男を無造作におしのけ、立ちあがった。髪はくずれて肩も太腿もむき出しになった惨麗とも形容すべき半裸の姿が、蔵の高い窓から金網越しにさしこむ光線に白く浮かびあがった。
 額と頬に汗でねばりついた髪の毛をはらい、荒い息をつきながら、じいっと見おろす。みだれた襟と裾をかき合わせるとそっと片足をのばして、うつ伏している男の肩を蹴った。
 ごろっとからだが転がって、顔がこちらを向いた。──飛び出した両の眼球、口角からふいた唾液の泡、ダラリとたれた紫色の舌。猛毒による苦悶のあらわな形相であった。
 その死顔を見つめているうち、徐々に、徐々に、陽炎の口元に笑みがひろがってきた。
「……これが、わたしの力……」
 さも愉しげに陽炎はクスクス笑いはじめた。最初、低かったしのび笑いはやがて、堪えきれず高まって哄笑となった。
「──あはゝ、あはゝはゝは!」
 憎しみも怨みもない無辜の人間を殺したことへの罪悪感は一片も湧いてこなかった。彼女の心を占めているのは、ただ、武器も用いず殺意すら感じさせず相手の命を奪ったおのが能力に対する満足感だけだった。──陽炎は、忍者の家に生まれた娘であった。
 身をよじり涙までにじませてけらけらと笑う陽炎には、リフレインのごとくくり返す声がきこえていた。
(──あなたに惚れない男がこの世にいるものか!)
 わたしに惚れぬ男はこの世にいない。この力があれば、あのひとも、きっとこんな風に。──
 もういちど、陽炎は足元の男を見た。すでに土気色にかわってきた無惨な死顔は生前の面影をとどめていなかったが、陽炎にはなぜかそれが、甲賀弦之介の顔そっくりに見えた。彼がそこに横たわっているかのような錯覚までおぼえた。
 彼女は膝をつき、その弦之介の頭を抱えあげて胸に抱きしめた。先刻そうしたよりもっと強く、もっと恍惚として。
「弦之介さま」
 頬ずりしながら、ささやく。
「弦之介さま……いとしい弦之介さま……誰にもわたさない……あなたはわたしだけのもの……」
 屍骸の顔面に唇を這わせ、甘い吐息を吹きかける。かぎりなくやさしい声で陽炎はつぶやき続けた。
 母親と酷似した──緋牡丹のように華麗で、白百合のように濃艶な笑顔で。
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