犬田小文吾

意外とロマンチストな犬田小文吾(大文吾)と、親友をカモる気満々の犬塚信乃(小信乃)。


 七月もとうになかばを過ぎたというのに酷暑はおさまらないが、さすがに朝まだきはだいぶ過ごしやすく、日蔭に入れば涼しさも感じる。昼ちかくなるとうるさいほど鳴きしきる蝉も、いまごろはまだ主張がおとなしい。
 早朝の夏のひかりに一面白く霞む、安房館山城の中庭。
 その庭の隅に、ふとい枝を蒼穹へひろげ、豊かに繁った青葉をおだやかな風になびかせた桜の古木が立っていた。ほかの、中庭に植えられた並みの桜の木と比べても、高さも枝ぶりもひときわみごとな堂々たる大樹であった。


 ……耳元で、天女もかくやとばかりにきれいな声がじぶんの名を呼んでいる。
 はてな、おれはたしか、城の中庭の桜の上でひと眠りしておったはずだが──天女さまのお迎えとなると──もしや、気づかぬうちに極楽浄土へ迷いこみでもしたものか? ──そうだとすれば、これはまずい、のんきに寝ている場合ではないだろう──だけど、起きたくっても、もう死んでしまっているならどうしようもないしなあ? さあて、こまったなあ──。


「──犬田。おい、大文吾!」
 にわかに、天女の声がいらだった調子になった。と、さらに乱暴に肩をゆすぶられて、夢うつつの境にいた犬田大文吾はようやく覚醒した。
 のろのろと瞼をもちあげると、すぐそばの枝にはっとするほどの美少女が腰かけていた。──いや、顔立ちは少女としか見えないが、麻の単衣に小倉の袴をはいて、これはれっきとした少年だ。大文吾の友人の犬塚小信乃であった。
「おや、犬塚か。どうした」
「やっと起きたか。なかなか目を覚まさんから、一発殴ってみようかと思うていたところだぞ。下を通りかかったら妙な音をきいて、気になってのぼってのぞいてみれば……。どうした、はこっちの台詞だ。なんでおぬし、かようなところで鼻ちょうちんをふくらませておる」
 大文吾は六尺をこえる巨躰をむくりと起きなおらせると、あくびをしながらこたえた。
「朝飯を食って腹がくちくなったので、ここでひと休みしておった」
「ぷっ、おぬしは飯を食うか、寝るかしかやることはないのか? ほかの姿を見たことがないぞ」
 と、小信乃が吹きだした。大文吾はべつだん気にした風もなく、
「おまえさんも似たようなものじゃないのかね」
 といった。皮肉なようだが、口ぶりも顔つきものんびりとして、まったくの他意の無さがあらわれていてそうとは聞こえない。事実、無邪気そのものから発した大文吾の感想であった。小信乃は頬をかいた。
「それはまあ、そうだが……。寝るならじぶんの屋敷で寝ればよかろうに」
「いやなに、ここは人目につきにくいでな。屋敷で寝っころがっておると始終みなに小言をいわれて、うるさくてかなわん。おちおちいびきもかいていられぬ。──それに何より、ここは見晴らしがよくて空気がうまい。見ろ、安房国が一望できる絶景であろう。こうして自然にかこまれながら大空の雲の去来をながめておると、日々是好日、人生は悠久なり、としみじみ感じるぞ」
 犬田大文吾はそうけだるげにいい、けだるげに破顔した。「素朴」とか「朴訥」とかいった言葉をそのまま人間にしたかのようにおおらかで、少々弛緩した雰囲気の青年である。きいて、あたりを見回して、小信乃は考えこむ表情になった。
「ふうん……そんなものかなあ……。じゃあ犬田、おれもときどき、昼寝にここを借りてもいいか?」
 さっき、大文吾を「飯を食うか寝るかしている姿しか見たことがない」とからかったが、そういう小信乃だって無精で横着な点では決してひけをとらない性格をしている。必要に切迫されるか気まぐれをおこすかしなければ、たいていは、そんなことは大儀だよ、の一言で見向きもしない男なのである。小信乃と大文吾と仲のいい六人の悪友は、この相似た二人を仲間うちでグータラ兄弟などと呼んでいた。
「おお、いいとも、歓迎するぞ。わしと一緒におぬしも、静かにながれゆく時間のすばらしさというものを是非味わえ。──それはそうと、小信乃は何しにここへ? わしに用でもあったか」
「用はないが、なんとなく足が向いたのだ。剣術の稽古をほっぽり出して来た」
 大文吾のほそい目がわずかに見ひらかれた。
「ほう? 親父さまがよくお許しになったのう」
 小信乃は首をふった。
「いいや。面と向かって稽古がいやだといって、あの親父がはいそうですかと許してくれるわけが断じてないのはおぬしも知っておろう。犬山のところの滝沢瑣吉をつかまえて、身代わりに仕立てあげて逃げて来たんだ」
 といって、この美少年は微笑んだ。花のようなあどけない笑顔には悪びれたようすは全然ない。滝沢瑣吉とは、小信乃や大文吾の父親と同僚である里見家の老臣八犬士の一人、犬山道節の若党である。
「毎日、汗だくになってぶったおれるまで木刀をふらされて、身がもたないよ。それだけならまだしも、口をひらけば伏姫のおん珠がどうした、先祖の八犬士のおん武勇がこうした、と堅っ苦しい説教ばかりきかされるのがもっと辛い。──」
 ため息まじりに話す。
「おれが小さい頃から今にいたるまで、親父との問答はいつもおんなじ話のくり返しだったからな。この先もずうっと、伏姫さまと御先祖さまと忠孝悌仁義礼智信のことだけしゃべり続けてゆくのだろうさ。わが親ながらあの人はどうかしとる。まともにこれに付き合っていたら、こっちまでおかしくなっちまわあ」
 これ、といったときに、小信乃は頭に指をあててくるくるまわして見せた。容貌は女と見まがうほどかわいいのに、ずいぶんと毒のある口をきく。しかし、小信乃ほど率直な悪口あっこうは出てこないまでも、その心情には大文吾もわが意を得たり、とふかく共感した。なぜなら、彼の父も小信乃の父に負けず劣らずの頑固一徹な「忠義と道徳の鬼」と形容すべき老人であったからだ。──さらに正確にいうと、「忠義と道徳の鬼」は二人のみではない。犬田家と犬塚家に限らず、当代八犬士たるほかの六家の当主もみな、異常なまでに頑冥で神がかった忠剛の権化であった。
 ほとんど憎しみにちかい色が犬塚小信乃の瞳にさした。
「くそったれ、何が忠孝悌仁義礼智信だ。きちがいみたいにそんな御題目ばかり唱えていたって腹の足しにもなりゃしねえ。……だいたい、身命投げうって尽くす相手があの馬鹿殿の忠義さまというのも気にいらん。ワリに合わん。親父たちのおしつける、初代里見義実公から伝統の藩風とやらの古めかしさに窮屈な思いをなされているのには同情するし、請われればいくらでも遊びのお相手を仕っては来たが……ありゃ、たまたま大名の跡継ぎに生まれたからかしずかれてるだけで、ご当人はお世辞にも九万二千石を支える器とはいえないぜ。ひょっとすると、忠義さまの代で里見家もあやういかも知れん、とおれは密かに思うておる。お人柄はわるくない方だが、あの殿を御主君さまとあがめて這いつくばるのはまっぴらだ」
 およそ臣下の言にあるまじき暴言を小信乃は吐いた。軽蔑しきった声音と表情であった。
「親父は親父、おれはおれだ。八犬士のすえだの主家への忠節だの、知ったことか。──この世に生を享けたからには、おれはおれの人生を自由に、好きに生きてやる。何にもしばられず、とらわれず、思うままに自由にな──!」


 熱のこもった声調で宣言した小信乃に、しかし大文吾は賛同とも無関心ともとれるあいまいな微笑を向けるだけだった。
 同感していないわけではなかった。むしろ、「おれはおれの人生を自由に、好きに生きてやる」「思うままに自由にな」という小信乃の言葉には大いに共鳴した。そうだ、おれもおなじ気持だ! とさけびたい衝動にさえかられた。
 ……だが。そこでふとわれに返った。
 小信乃の、翼を折られた鳥が地上ではばたくがごとき焦燥と渇望は、じぶんにはない。それどころか、じぶんのいまの暮し、いまの立場に、とくに嫌気がさしたこともない。「自由な人生」という響きに少なからぬ憧れはあるものの、それはあまりに茫漠として、現実感がうすくて、おのれのいる世界とは別の世界のものに思えた。幼い頃にきいたおとぎ話とさほどかわらぬ感慨しか持ち得なかった。──犬田大文吾は努力も我慢もしない代りに、希望も欲望もない男だった。
 恐ろしく横着者だという内面において血をわけた兄弟みたいにそっくりな二人であったが、両者の抜きがたい差異はこれであった。一方が、現状に胸を焦がすほどの不満を抱いているのに対し、もう一方は、夢も欲も持たず現状に満足しきっていたのである──。
 茫洋とした姿に似合わぬ複雑な感情を大文吾が秘めているとは知らずに、小信乃はふと、夢みるようなまなざしを空に投げた。
「大文吾、おれはなあ、侍というやつがきらいなんだ。武士の子に生まれたからといって、かならず武士にならなきゃいかんという理屈はおかしいよ。いっぺんでいい、旅から旅の気ままな暮しをしてみたいなあ。──そうそう、このあいだ城下の広場に旅廻りの大道芸人が集まっておってな。見世物をいろいろ見物したが、いや、あの香具師ってやつは面白いものだね。芸もさることながら、口上がまたふるっている。東西東西、天下のお立合い、──」
 ──何かをしたいと犬塚小信乃はいう。
 ──何もしとうはないと犬田大文吾は思う。
 正直なところ、方向はどうあれ若々しく理想に燃えた小信乃がうらやましかった。じぶんの中には、強く何かを求める想いがあるだろうか? すべてを捨てても手に入れたいと欲するもの、かなえたいと願う望みに、出逢う日がくるだろうか? ……


 なんとなく空虚な気分で大文吾が黙っていると、やっとその沈黙に気がついた小信乃もハタと口をつぐんだ。顔中まっかになり、可哀想なくらい小さくなってしまった。
「……つまらぬことを手前勝手に話しすぎた。すまん」
 頭を下げられて、大文吾はあわてて首を左右にふった。
「いやいや、おれとしてもじゅうぶんに興が乗る話じゃったぞ。で、香具師がどうしたね?」
「うん。それが──ああいや、それはどうでもよい。──おう、そんなことより!」
 と、ひざをたたくと小信乃は身をのり出した。
「おぬし、忠義さまの噂はきいたか」
「何の?」
「馬鹿殿にもついに縁組みが決まったらしい。輿入れは一ト月後。奥方さまとおなりなされる方は、小田原の領主大久保相模守のおん孫だそうな」
「──ほ? そうか。それはめでたい」
 素直によろこぶ大文吾を小信乃は冷ややかな眼で見やった。
「うむ、めでたい御縁に相違あるまい。大久保相模守は徳川家の指折りの重臣。しかもその姫は、大御所の曾孫にもあたるという。里見家にとっては家禄安泰の頑丈な柱となる良縁だろう。──政略結婚の典型だ」
 のどの奥で奇妙な笑いをもらして、つづける。
「ところが、世の中というのはそう何もかもうまくいかねえように出来ているものでな。昔から政略結婚には落とし穴がつきものだろう。海の彼方からお越しあそばす花嫁さまは、御血筋が安房藩にはありがたかろうが、さて、御面相の方は殿さまがありがたがれるかどうか……」
 すると、いやにきっぱりと大文吾が言いきった。
「いや、きっと天女もかくやとばかりにお美しい姫君であろうな」
 自信に満ちた否定に、こんどは小信乃が「──ほ?」とまばたきした。
「見たこともないくせにどうして言いきれる。古狸だと評判の家康の血をひいた女だぞ? それに絵巻物ならいざしらず、ほんもののお姫さまにべっぴんなんてめったにいやしねえって」
「見たこともないのはそちらも同様。言いきれる理由はわしにもわからぬ。だが、どうしても、相模国からお輿入れされるそのお方は美しいひとであられる気がするのだ」
 再度、大文吾は断言した。何事につけどっちつかずの受けこたえばかりして、周囲に流されやすい優柔不断な彼が、こうもはっきりと我意を通すことはめずらしい。
 ──あとになってなんどかこの問答を思い出して、そのたびに大文吾は首をひねった。あのとき、らしくもなく強硬に私意をのべて一歩もゆずりたくなかったのはなぜなのか、いくら考えてもわからなかった。ただ、もしかしたら──。小田原大久保家の姫君、海の彼方から来る花嫁、これらの単語にふしぎに甘美な香をかいだ気がしたのは、なみはずれた鈍感を自他ともに認めるじぶんがいちどだけ発揮した勘の冴えで、未来への明確な予感がしていたのかも知れない。いつか、その女人の存在がおのれの運命をかえる予感が。──
 小信乃はふんと鼻を鳴らしたが、ふいに挑むようににらみつけてきた。
「そこまでいうなら……喃、奥方が天女かそうでないか、おれと賭けをせんか」
「……はあ?」
 大文吾の面くらったようすにも委細かまわず、
「賭け金は一両」
「……わしがそんな大金を持っとると思うか」
「なら、二分ではどうだ」
「無理、無理」
「ええ、しけた野郎だ。── 一分!」
「それなら、どうにか」
「ようし。決まりだ」
 にっこりとして小信乃はうなずいた。こんなときの彼の笑顔は、妙に艶めいて色っぽい。それが、いかにも悪童らしい底意地のわるい笑みにかわると、
「しかし、なんだな、賭けが一分だけというのもつまらなくはないか? どうだ犬田、負けた方はついでに、ふんどし一つで城内を一周してあるくというのは」
 ぽかんとして大文吾は小信乃を見つめた。天来の妙案を披露したとでも言いたげな小信乃の得意顔であった。冗談かと思ったが、どうやら本気であるらしい。
(──しっかりしたようでも、まだまだ子どもだなあ)
 くだらない悪ふざけを眼をかがやかしていう小信乃に、この少年のまだ十五に満たぬ幼さを確認させられて、大文吾の胸に可笑しみがひろがった。──とはいえ、大文吾もまだはたちに至らぬ若者なのだが、彼にはどこか老成したところがあった。
「いいだろう。そいつも、乗った」
 とこたえたとき、かすかに遠く、犬の吼える声と、
「──小信乃、小信乃! 馬鹿息子めが、稽古もせずどこへ逃げおった!」
 と怒鳴る犬塚信乃老人のカンばしった声がきこえた。
 小信乃は舌をちょっぴりのぞかせて辟易した顔をすると、
「おっ、もうばれたか。もっと時間を稼げるとふんでいたんだが、さては瑣吉のやつ、おっかなくなってぺらぺら白状しちまったかな」
「親父さまは、八房も連れ出して捜しておるようだな」
「狩りたてられる獲物の気分だ。……大文吾、動くなよ」
 立ちあがっていうが早いか、大文吾の幅のひろい肩に片足のせて、軽く蹴っただけで、背丈よりもはるかに高い枝へフワリと飛びうつった。そのままスルスルとのぼってゆく。ましらのごとき軽捷さに大文吾は唖然とし、それから、いまの遠慮というものがまったくない行動に苦笑した。もうてっぺんちかくの梢の重なった中にかくれてしまった小信乃へのんびりと声をかけた。
「犬塚。かくれるのはいいが、あまり上までゆくな。枝が折れて落ちたら危いぞ」
「うるせえ、このおれがそんなヘマするかよ。そっちこそ、むだにでかい図体していやがって、人のことよりじぶんを心配したらどうだ」
 親切心からの忠告に返ってきた悪態に、また苦笑する。どうも小信乃は反抗期であるようだ──むろん、大文吾はそんな言葉は知らなかったが。
 頭上をあおいだ大文吾は、陽のまぶしさに眼を射られた。七月末の南総の空の、澄みわたって抜けるような青さ。根子屋山から遠望する内房のきらめく海上に、こんもりとかたまって浮かんでいる夏雲の白さ。風がゆるく頬をなで、湿って蒸すような空気のなかに青葉のかぐわしさが匂った。
 きょうも暑くなりそうだ、と犬田大文吾は思った。


 この年、慶長十五年。いまの暦で八月の末にあたる、或る朝の話。
 一ト月後。犬塚小信乃が犬田大文吾の前に一分金をたたきつけ、大文吾の制止をふりきって「綸言汗の如し、男がいったん口にしたことだ! それに……知らなかったといえど、おれはあのお方を侮辱したじぶんが許せねえんだ!」と熱病にうかされたようにさけんでもう一条の賭けを履行する結果となったのは、いうまでもない。
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