鞠姫

上野城で鞠姫と徳川(藤堂)石五郎と甲賀蟇丸がくり広げる、安定のスラップスティック。


 サカリがつく、という形容がある。
 異性への性的昂奮──はっきりいえば肉欲──はなはだしく、まともな判断がつかなくなり、はては見さかいなく狂的なふるまいに及ぶ状態のことである。主に犬猫などの畜生に対してもちいる形容だが、人間に対してもちいることもめずらしくない。
 しかし、ふつうそういった欲情を大っぴらに出した行為はあさましく恥ずべきものとされ、軽蔑や嘲笑、嫌悪の的となる。前述したように、畜生同等とみなされる。分別のある大人であればそのような愚行は決してしないものである。
 庶民層においてさえ男女ともにその倫理観が浸透しており、いわんやそれが、卑俗をきらうこと庶民に倍する貴人──まして徳川将軍家の御曹子であるにおいてをや。


 鞠姫はすっかりもてあました。サカリのついた将軍家の御曹子に、心底呆れはてた。
 もともと人並みはずれた好色の性質と見えた石五郎が、ここ数日、いよいよその度合いを深めて狂乱し、凶暴にすらなって来たのである。城中で給仕の女中などにゆき逢うと、追いまわし、抱きつき、裾をまくったり──はてはじぶんの裾までまくりあげて誇示してみせたりする。
 じっさい、石五郎がけしからぬいたずらを女中にしかけて悲鳴を上げさせているのを、鞠姫も城の廊下で目にしたことが幾度もあるくらいだ。その度に彼女は、いかに相手が唖の白痴であると承知していてもおさえきれぬ怒りと、そんな怒りを抱かせる人間と名目だけとはいえじぶんは夫婦なのだという情けなさに身悶えした。
 そう、──あの恥知らずでけがらわしく愚かしい男は、わたしの「夫」なのだ!


 新婚初日の夜に逃げ出した鞠姫が、本城の津の城からここ上野の城へ駆けこんで来てから十日ばかり経つ。
 伊賀上野の城は藤堂家の支城である。重臣の藤堂采女が城代に任ぜられており、これが木彫りの置き物みたいな頑固な老人であった。
 藤堂藩江戸屋敷で生まれ育った鞠姫は、去年の春、こんどの縁談のために父藤堂和泉守の帰国とともに本国伊賀へ帰ってきた。上野城にはその夏ごろから婚礼直前のこのあいだまで在城していたにすぎないが、鞠姫はこの城がいたく気に入っていた。稚なくて活発な姫君と一本気な老城代とは、ふしぎにウマがあい、ほんとうの孫娘と祖父のように親しみと愛情を交わすようになっていた。
 徳川石五郎、いや、婿入りして藤堂石五郎と名をあらためた夫は、鞠姫の家出の翌日には妻を追って上野へやって来た。──が、べつに怒ったふうでもなければ連れ戻そうという意志も見えない。石五郎を幼少のころから養育してきたという甲賀蟇丸なる護り役を供にして、ぬけぬけとおのれの城のごとく居すわっている。ともかくも夫なのだから、居すわる、とはいいすぎかもしれないが、鞠姫にしてみれば臆面もない両人の態度に腹が立ってしかたがない。
 花嫁に初寝を拒絶された花婿らしく、恥じ入ってしおらしいようすならまだ可愛げもあろうに──それをなんぞや、あの傍若無人ぶりは!
 ことここに至って、鞠姫は堪忍袋の緒がきれた。


「お女中がたの御迷惑──奥方さまの御叱責は、まことにもってごもっとも。それもみな蟇丸めの不徳のいたすところであり、汗顔の至りでござりまする。──さりながら、奥方さまも御存じのように、石五郎さまはお口もままならぬおんいたわしきおん身。加えて、おそれながら御脳もわずかばかり弱きお方にあらせられます。むろん拙者が常にお傍にお付きいたしてござれど、隙をつかれてときにみだりがわしきふるまいに及ばれあそばしても、なにとぞ、いましばらく御寛大な御猶予を。──」
「いましばらく、では埒があかぬ。女どももほとほと難儀しておるというし、鞠もこの城であのようなたわけた騒ぎをくりかえされるのはもはや我慢ならぬのじゃ」
 うららかに春のひかりがそそぐ広い庭の一劃に、ひとりで石けりをして遊んでいる石五郎と傍らでそれを見物している甲賀蟇丸ののんきな主従を見出して、鞠姫は溜めに溜めた日頃の鬱憤をついに爆発させた。
 祝言以来ろくに逢っていない妻を間近にみて、石五郎は昂奮してとびだすような目つきで鞠姫を見つめている。鞠姫より四つ年上だから今年で二十四のはずだが、よだれをたらさんばかりのしまりのない表情でもがいて蟇丸におさえられている姿は幼児そのものだ。面長で色の白い、貴公子風の美男で、一見するとなるほど、それらしい気品がないでもないが、アングリあけた口と霞がかったように濁った眼が台無しにしていた。
 それが、ふだんはボンヤリとして挙動ものろいくせに、女を見るととたんに敏捷になる。いまも、蟇丸が手をはなしたらすぐにでも鞠姫にとびかかってきそうな勢いである。にらみつけるだけではいっこうに怯む気配がなく、鞠姫は帯の懐剣に手をかけて威嚇のポーズまでとらざるを得なかった。
 ときどき慈悲心鳥が可憐に鳴き、微風に桜の花びらが優雅に舞う──夢のように美しい春昼の庭で、うら若い新婚夫婦のあいだに流れるにはありべからざる、殺伐とした空気であった。
「蟇丸、そちゃ、なんのために上野まで石五郎さまにお供して参った? 石五郎さまのお世話のためではないのか? 付人たるそなたの手にすら負えぬならいっそ、部屋の柱にでも縛りつけておいてはどうですか」
 鞠姫は愛くるしい唇に冷笑を刻んだ。口調はさすがに冗談めかしたが、九割ほど本心である。
「さ、そう申されますと一語の弁解もありませぬ。仰せのごとく、すべて拙者の力不足にて、面目しだいもござりませぬ」
 と、また蟇丸はあたまを下げた。まぶたがたれさがり、平べったい顔の、名のとおり蟇によく似た容貌をした四十年輩の男だ。だが、どことなくユーモラスな外見に似ず性格はものしずかで、すすんで口をきくこともあまりない。しごくまじめであることに違いはないが、その物腰も沈毅というよりは鈍重の印象を与えて、鞠姫はなんとなく彼をえたいの知れない人物に感じていた。
 そのおちつきはらった蟇そっくりの顔で、蟇丸はつづける。
「奥方さま。いかがでござりましょう、奥方さまおん自ら石五郎さまをご説得あそばされては? 夜、御寝所にておふたりで相対なされて、しずかにおん語らいなさいますれば、ほかならぬ奥方さまのお言葉に若殿もお心をうたれて、悩乱の御所業もおしずまりになられるかも」
「無用じゃ」
 鞠姫はにべもなくはねつけた。夫は馬鹿である。馬鹿に問答は無用である。──彼女はそう断じていた。白痴で色情狂の男とたとえ半刻であれ同部屋ですごすなど、かんがえただけでも恐ろしさと吐き気に身ぶるいがする。だいいち、兄蓮之介の怪死の真相をつきとめるまでは夫婦の契りはおあずけとする約束もはたしていないのに、虫のいい要求でもあろう。
「らっ、らっ、らっ」
 嬉しそうに奇声をあげた石五郎を鞠姫はきっとにらんで、
「承諾したのではありません!」
 と裂帛の声で叱りつけた。その剣幕に、石五郎は眼を白黒させて蟇丸のうしろにひっこんだ。
「たしかに、蓮之介さま御異変の謎ときの御約定は拙者も承り、また石五郎さまもご承知なされましたが──」
 鞠姫の剥き出しの嫌悪に、甲賀蟇丸は小さく溜息をつくと、
「藤堂家のお婿さまとなっておいで遊ばしたばかりでまだ右も左もおわかりにならぬうちに、蓮之介さまの御死因の探索という雲をつかむような御注文……そのうえ、奥方さまにまで左様に冷たいおんあしらいを受けられては、いかになんでも石五郎さまが御不憫と存じまするが……」
「それは……」
 鞠姫は、うっと言葉につまった。そこは、無理難題をふっかけている自覚はあるから、彼女も引け目を感じている。
「もとより、御上意なればとて此度の御婚礼はいかにも無理往生。これに対する奥方さまのご不満も重々承知しており申す。されど、石五郎さまも望んで藤堂家へ押しかけられたわけではございませぬ。……上様御寵愛第一の御女性が母君でおわしながら、生まれもつかぬ不具のおん身となられてからは御父君にも遠ざけられて、ただおひとり、不遇の日々をお暮しなされていたお方。おきのどくなお方なのでござります……。些少なりともあわれと思し召し下さるならば、どうか、いますこしの御辛抱をお願い申し上げまする」
 家来に「あわれ」「おきのどくな方」と評される男の妻とされたじぶんはきのどくではないのか、とそこばくの反撥心もうごかないではないが、蟇丸の切々とした語調にひきこまれて鞠姫はうなだれた。
 兄が江戸城で怪死を遂げた事件は、厄介な余りものである将軍第三十三子の押付婿先として藤堂藩に目をつけた末の謀りごとだったに相違ないし、陰謀の黒幕は将軍家斉公ないし寵臣の中野石翁とやらであろう。そのたくらみは憎い、くやしい! 兄の無惨な死を思うと、彼女は胸もはりさけそうであった。──が、いわれてみれば第三十三子本人に罪はない。江戸からのほほんと御降臨あそばして、毎日腰元の裾をめくっては御満悦のていの婿殿に、そんな陰謀に加担できる知慧があるとはかけらも思えない。藤堂藩を謀略にかけられ陥れられた被害者とするならば、彼もまた、謀略に利用されかつぎ出されただけの被害者といえるかもしれなかった。
 ああ、悪かった、わたしも大人げなかった……と少々反省した。もともと素直な、感受性の強い鞠姫なのである。


 うつむいていた鞠姫はふと顔をあげた。と、蟇丸を盾に、おっかなびっくりこちらの機嫌をうかがっている石五郎と視線が合った。──石五郎は眉を八の字にして、困ったようないまにも泣き出しそうな、実に情けない顔つきをしていた。子どもみたいに半べそをかいた彼を見て、鞠姫はムキになっていたじぶんがばからしくなった。
 このひとは身体は大きいけれど、あたまは子どものままのおひとなのだ。──縁談を受け入れたからにはこのひとを生涯の夫として添い遂げなければならない。それなのに、妻のわたしが短気をおこしてどうするのか。じっと忍耐して、根気よく導いてあげなくては──そう思った。現代であれば保育士の職業意識といったところだろうか。
 で、彼女は保育士的な博愛と義務感のまじりあった微笑を浮かべて、石五郎に呼びかけた。
「石五郎さま。鞠は何もあなたが憎うてつらくあたっているのではないのです。あなたがよくおききわけになって、おとなしゅうなさって下さるなら……世の夫婦のようには参りませぬが、もそっと仲良うしてゆきたいとわたしも思っているのですよ。そうですね、ごいっしょに書を読んで差し上げるくらいは……」
「よ、よ、よっ」
 馬鹿だから言葉の内容を理解したかどうかはあやしいが、やさしい鞠姫の声音にぱっと笑顔になって、石五郎は大きくうなずいた。さらに、喜色満面でずいと近寄ると、両手をさしのばして姫に抱きつこうとした。
 おそらくそれはただの親愛表現だったのだろうが、突如眼前にせまったニタニタ顔にあの悪夢のような初夜の記憶がよみがえって、鞠姫は本能的な恐怖にふかれてとびのいた。
「──采女、来てたも! 爺、助けて、爺!」
 と、身をひるがえしてバタバタと駆け出した鞠姫を、何をカン違いしたかさも嬉しげに例の奇声を発しながら石五郎が追いかけてゆく。やがて、広々とした庭をへだてて遠い座敷の方から、藤堂采女老人の狼狽動顛した声も加わった。
「──奥方さま! いかがなされましたるや。采女が参りましたぞ、ご安心下されませ。──ややっ、こ、こりゃ若殿! 御約定が果されるまでは、鞠姫さまにおん手出しはいっさいなし参らせぬと申し上げたではござらぬか。姫君さま、いえ、奥方さまよりお離れ下され! ええい、離れよと申すに──」
 怒声と悲鳴と怪笑のハーモニーが、ものうい春風にのって、上野城の高い蒼空に吸いこまれてゆく。東の鈴鹿山脈の上に、雲母のごとくひかる積雲がぽっかりと浮いていた。


 その珍妙な──しかし当人たちにとっては至極真剣な──追いかけっこを、持ち前の重厚な表情でニコリともせずながめていた甲賀蟇丸は、ややあって、つるりと顎をなで、
みずかきたなり──。伊賀の藪をつついて出るは鬼か、蛇か? ──はてさて、奥方さまのみならず、若君も御苦労あそばされますなあ」
 とつぶやくと、蟇そっくりの顔で大あくびした。
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