Kama

「Kama」(カーマ)は愛(愛欲や性愛)を司る神の名前。破壊神・シヴァと女神・パールヴァティを結ばせる為に策を弄してシヴァの怒りを買い、焼き尽くされた。が、その後、二柱は恋仲(夫婦)となる。


 給料日前の質素な夕食をすませて食後のデザートにとりかかろうとしていた宰子は、尋常でない回数のドアの連打、それと近所迷惑もまったくかえりみない「宰子ー!」というさけび声にビクッと身体をふるわせた。
 こんな時間に誰だろう? という疑問はわかない。ここまで傍若無人に彼女を呼びつける相手は、というか、彼女の部屋を訪れてくる相手は、ひとりしかいないからだ。
 急いで立ち、玄関のチェーンをはずして扉をあけた。案の定、そこにいたのはエイトだった。見慣れたホスト仕様の出で立ちながら、顔はいつものとりすましたナンバーワンのものではなく不機嫌と焦りをあからさまに見せている。
「ど、どうしたの?」
「……あ! 良かった、いた! ……宰子、“戻る”ぞ!」
 靴を脱ぐのももどかしげに玄関を通りすぎるとずかずかと部屋へ入りこんできた。自分の倍はありそうなその一歩ごとのストロークに、わぁ、長い脚……と宰子はひそかに感嘆した。──が、「戻る」のひと言が不穏な予感となって彼女を襲う。
「“戻る”、って。……い、今? これから?」
「そうだよ。今、これから! ──聞いてくれよ、宰子。百億のパパが死んだんだよ! タイムリープ前は目を覚ましてたのに! なあ、どうしてだと思う!?」
 血相をかえて問いかけられたが、そもそもその情報が初耳の宰子には、とまどう以外にできることがない。
「……えっ? 並樹グループの社長が亡くなったの? ……それで、美尊さんは? 美尊さんは大丈夫?」
 まず気にかかったのは、社長のひとり娘でありエイトの最大のターゲットでもある、並樹美尊の精神状態だった。──美尊さんが今、心を寄せる対象であるはずのエイトがそばにいなくていいのだろうか?
 美尊を心配する宰子をよそに、エイトはあくまで冷淡だ。
「百億のことなんざどうでもいいんだよ! いくら電話してもつながんねえし! なあ、この前は危篤から回復してたんだぜ? それが、タイムリープした“今回”は、昨日死んだってさ。死期が早まるなんて……早まるような何かが起きたと思わないか?」
 エイトはそう言うと、宙の一点に眼をすえた。
「……尊氏だ。看護師に聞いたんだけど、あいつ、昨日、百億の親父の面会に来てたらしいんだ。そん時に、あの野郎、病室で親父を……!」
 きしりだされた憎しみの塊のような声。彼が並樹尊氏へ向ける敵意はすさまじいものがある。並樹美尊をめぐって争う「恋敵」というだけではおさまらないくらいに。「持たざる者」の「持てる者」へのねたみというのでも説明しきれないほどに。
 きっと、エイトと尊氏さんとは根本的にウマが合わないのだろう、と宰子は思う。容貌だけなら、このふたりははっきり言って遜色ない。どちらも奇跡的な美貌の持ち主だ。ただし──いついかなる時も表情を変えない並樹尊氏が大理石の彫像めいた高貴さと怜悧さを失わないのに対し、整った顔を惜しげもなく崩して喜怒哀楽を全力で表現するエイトは良くいえば親しみやすく、悪くいえば俗っぽい。性格も、人間性も、価値観も、すべてが水と油のふたりなのだろう、とも宰子は思う。
「ここで社長が死んだとなりゃ、当面の社長代理は唯一の跡継ぎの百億にまわってくるだろ? けど、あの尊氏がこんな絶好のチャンスを見逃すわけがねえ。またぞろプロポーズするに決まってる。──あいつの狙い通りにことを進ませてたまるかよ! ぜってー尊氏を潰す! ブッ潰す!」
 頼むから、夜に昂奮して大声をだすのはやめて欲しい……ご近所さんに怒られるのは私なのよ……ちょっと神経質でエキセントリックな外国のカップルもこのマンションには住んでるのに……と、宰子はおろおろした。
「お、落ち着いて……“戻って”やり直せばいいの……?」
『ビシッ!』という効果音が聞こえそうな勢いで、壁にかかったカレンダーの一月十四日の欄に人差し指をつきつけるエイト。
「ああ! 尊氏が社長に何をして未来を変えやがったのか、つきとめてやる! “前回”はうまくいってたのに、なんで“今回”こうなったのか……もう一度、同じふりだしに戻って阻止してやる! だから、今すぐここでキスさせろ!」
 ──ああ、なるほど。“前回”とまったく同じタイムリープがしたいなら、確かに今日、二十一日にキスしなきゃいけないわよね。──
 “最初の”一月二十一日に不意うちで彼にキスをして、自分からタイムリープを発動させてしまったのだから、これでおあいこなのかもしれない──そう納得はしたものの、けれどすぐには了承しかねて、宰子はついさっきまで向きあっていたダイニングテーブルに視線を泳がせた。テーブルの上には、ガラスの器に盛られてたっぷりの練乳をかけられたひと山のイチゴ。おいしく食べられるのを待つばかりの、食後のデザート。
「でも……イチゴが……」
 宰子の視線を追ってテーブルの上へ面倒くさそうな一瞥をくれると、エイトは巻き舌気味に早口でまくしたてた。
「は? イチゴ? どうせスーパーでウン百円の安物だろ。そんなもんより、挽回した後で『千疋屋』の『クイーンストロベリー』買ってきてやるから! 早く! 時間がないんだよ!」
 事実を言い当てられてバカにされてカチンときたものの、『千疋屋』『クイーンストロベリー』という夢のように魅惑的なワードが耳を刺激して、宰子は思わず笑顔になりかけた。……え、ほんとに!? それは、ぜひ! ……
「これは“契約”だから。な? 宰子。……」
 胸の前で両手を構えたエイトがジリジリ距離を詰めてきた。聞いたこともないほど低い声だし、目つきが完全にすわっている。境遇に何かしらの原因がありそうなのは察するが、金と権力がからむ強欲にかられている時のエイトの迫力はもはや異常だ。もともとが桁はずれの美形なだけに、それが舌なめずりせんばかりに欲望を剥きだしにしてせまってくる様は本物の恐怖と危機感を宰子に与えた。……怖い! ものすごく怖い!
「あ……あの……その……ちょっと待っ」
「すぐ終わるからさ。ほんの一瞬だって」
 無意識にあとずさっていた両脚が、部屋の奥のベッドにぶつかって動かせなくなった。逃げ道を断たれた絶望につつまれる。猛禽類の爪を眼前にした小動物の心情とシンクロした宰子の脳裡いっぱいに、あらあら、と上品に口元に手をそえて微笑むやさしい祖母の姿が浮かんだ。──おばあちゃん、助けて!
「……わかった! わかったから、お願い! 心の準備に三秒だけちょうだい!」
 九割が悲鳴、一割がやけっぱちの絶叫をあげて、宰子はぎゅうっと両目をつぶった。もうどうにでもなれ、と観念した。
 きっかり三秒後、両肩を力強くつかまれた。


「──よっしゃ! 待ってろ、尊氏! 今度はてめえの思い通りになんてさせねえからな! ──宰子、サンキュー! 愛してる!」
 耳をうたがうほど軽薄でぞんざいな感謝をふりまいて、しかも言葉とは裏腹にこちらへは眼もくれず一目散に部屋を飛びだしていった背中。タイムリープ前の恐慌と死の苦しみの残滓からまだ抜けだせない宰子の方は、ずるずるとその場にへたりこむことしかできないにもかかわらず。
 自宅のドアが乱暴に閉められた音を聞きながら、宰子はぼんやりと考えた。エイトのあの行動力は、バイタリティは、一体何なのだろう? ……
 さらにこうも考える。──自分は罰を受けなければいけない立場だ。それだけの罪を背負っている。だけど、“契約”だか知らないが、こんな目に遭うのって──何かおかしくない? 世間でいう「罰」の概念とはだいぶ違わない? いくらなんでも、こんな風にムードもデリカシーも皆無で「道具」みたいに唇を奪われつづけるなんてのはあんまりだ。──あの男は乙女心を何だと思ってるのか……! もう本ッ当にクズ! バカ! 最低! 女の敵! ──
 思いつくだけのあらゆる罵倒を心の中で浴びせながら。……でも……でも。
 ……でもあいかわらず……あのひとのキスって、すごい……。
 めくるめく感触の記憶をうっかりよみがえらせてしまって、これ以上染まりようがないくらいに真っ赤に染まった顔を両手で覆うしかない、“六度目”の一月十四日の夜の宰子だった。
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