菊理媛

「菊理媛」(キクリヒメ)は対立するイザナギとイザナミをたった一言で仲裁した女神の名前。水(海)を象徴し、縁結び(恋愛も、それ以外も)を司り、生者と死者の間をとりもつといわれる。


 七日前、エイトが住む雑居ビルの前で私を呼び止めた男性は、本心からエイトの身を案じて思い悩んでいるように見えた。
(あいつ……何かたくらんでるんですか? あなた、旺太郎に何か聞いてませんか……?)
 並樹グループの一大スキャンダルが掲載された週刊誌を片手に握りしめ、エイトを「あいつ」「旺太郎」と愛着をこめて呼ぶ五十年配の男性に、このひとは彼の父親なのだと直感した。
 あのひとはあなたを、息子を心配してるように見えた、と告げると、エイトは唇をゆがめて憎々しげに吐き捨てた。
「心配? あんなクズにひとの心配なんかできるわけないだろ。……されたくもねえよ」
 うす笑いしながら実の親へ呪詛を吐く姿に、想像していたよりもずっと深い彼の闇を垣間見る。
「あいつだけは許さねえ。──あいつはな、俺とお袋をおいて逃げたんだよ。現実から逃げまわることしかできない、腰抜けなんだよ」
 聞くのはあの『二月十四日の夜』以来だろうか、深沈として冷酷な声に耳をふさぎたくなる。よくふざけてよく笑うほがらかさの持ち主の彼に、そんな声は似合わない。
 現実から逃げまわる──彼の発したそのひと言が痛切に胸を刺した。……ねえ、エイト。現実から逃げているのは、お父さん『だけ』なのかな?
 いてもたってもいられず、“キス”で時間を戻せば助けられると提案すると、激昂されて拒否された。軽はずみな提案は、父親へ対するエイトのさらなる罵詈雑言を生みだす結果にしかならなかった。
 憎悪と自棄をまき散らせながら椅子へ乱暴に腰をおろしたエイトの、凝縮された闇の深淵のような眼が私を見た。
「あいつに、人生左右されてたまるかよ……!」
 そう、彼の人生のゴールはすぐそばに見えていた。およそ考えうる限り、最高最良のゴールが。あと一歩、のところでそれを邪魔された怒りと憎しみはよくわかる。そこまでたどり着くために彼がどれだけの執念をかけたか、隣でずっと見てきたから。
 でも。今、あなたが捨てようとしているものは、本当に捨ててしまっていいものなの? あとになってどんなに悔やんでも、苦しくても、失ってしまったらもう“戻れない”のよ? ……あの事故の日のように。
 失う前に、まだその手でとり戻せる。“挽回”できる。ゴールも、お父さんも。
 あきらめたくなかった。エイトに『とり返しのつかない後悔』だけはもう二度と、して欲しくなかった。お母さんの時にとり戻せたあなたなら、きっとお父さんのことだって……なかば祈るような気持ちで、ぎゅっと拳をにぎりしめて、私は彼の視線をはね返した。
「私は、あなたが幸せなら、それでいい。本当に幸せなら、それで、いい」
 ……こういう場合、他人との会話も接触も極力避けてきたこれまでの自分を本当になさけなく思う。この未熟な言葉選びで、私のこの想いは正確に彼へ伝わっただろうか? ……
 エイトの瞳は変わらず深淵めいて、感情の消えたままだった。ややあって重たい息をつくと、静かに言った。
「だから──しなくていいって。──しなくていいよ」
 それが私の問いかけに対する肯定なのか、否定なのか、私にはわからなかった。


 “二度目”の二月十七日。
 私とエイトはあわただしく荷造りをしていた。
「必要なものだけにしろよ。俺んちも狭いから」
 俺んち……改めて彼の口からそう聞くと、急に現実感が増して、とまどいと後ろめたさがわきおこってくる。
「本当に……あなたの家に住むの?」
 私の部屋の日用品をボストンバッグにポイポイ放りこんでいたエイトが、手を止めてふり返った。
「ここにいたら尊氏が来るだろ。あいつ、何か感づいてんな」
 不審げに眉を寄せたかと思うと、ヘンな相好の崩し方で私を見る。……何よ?
「──あ! ひょっとして、男の家に泊まるの、初めてか!? それでか~、そうだろ~!」
 ニヤニヤしながらからかわれて、図星すぎて頬が熱くなった。……ひとを指さすのやめなさいよ! 未経験なのはたしかに事実だけど……女性関係にだらしないあなたと一緒にしないで!
 頭にきて、言い返す。
「あ、あなたの家、汚いから!」
 私のいらだちなんてどこ吹く風で、軽い口調でつづけるエイト。
「誰もおまえなんか襲わねえよ」
 幾本もの鋭い針が心に刺さったのを感じた。……あなたの隣に立つのは、もう私じゃない。その場所は、美尊さんのもの。彼女ならお金も愛も、あり余るほどの量をあなたに与えてくれるはず。……そんなわかりきったこと、言われなくたって知っている。
「そんなこと、わかってる。──美尊さんがいるから」
 キョトンとした顔で呆けているのがさらに腹立たしい。美尊さんがどれだけあなたを愛しているか──私がどれだけあなたを──、ああ、どうして、このひとは気づかないの? ──
 息苦しさに目線をそらすと、祖母の写真立てとならべて置いた白いスニーカーが──光太くんのスニーカーが目に入った。
(……俺は変わったよ。あんたに逃げられて、苦労したおかげで、強くなったよ。……俺はあんたを助けに来たわけじゃない。あんたと別れるために、ここに来たんだ。俺は……あんたを待つことしかできなかった子供じゃない。もう二度と逢うことはない。……今さら父親ぶんな。顔も見たくねえよ。……)
 二日前、長谷部さんを救った病院で、同じく救った父親に永遠の別離を言いわたした彼を私は見ていた。子供じゃない、と断言した彼の横顔は私には、大声で泣きわめきたいのを必死にこらえて強がる幼い子供にしか見えなかった。
「──これ、返す」
 小さなスニーカーを両手で包んでさしだすと、エイトの表情が強ばった。
「光太の……」
 恐る恐る伸ばされた彼の手が、さしだされたそれを受けとった。受けとってくれたことにほっと安堵して、あともうひとつ、彼に渡すべきものをさらにさしだす。それは、ある携帯電話の番号を書いた一枚のメモ用紙。
「これも。お父さんの連絡先、聞いておいた。話、してみたら……?」
 エイトの両眼の光が一瞬で険しくなった。
「話すことなんかないよ。……いつからそんなおせっかいになったんだよ?」
「だって」
「いいんだよ! どうせあいつは逃げるだろうから。……もう終わったんだよ。忘れろよ」
 なげやりにそう言い捨てると、これ以上の会話は無用とばかりに私に背を見せてダイニングチェアへ坐りこんだ。
 まただ。どうせ逃げる──父親へ放たれたその罵倒は、はね返って私を強くゆさぶる。彼は気づいていないのだろうか? 自身がそれを口にする違和感に。
 あまりに辛い現実から眼をそらして、逃げまわってきたのは私も同じ。あなたも同じ。お父さんだけを責めたてることなんて、できるはずがないのに。
「あなたも、逃げてる。あなたも、私も、みんな、逃げてた。あなたなら、乗り越えられると思う。──光太くんのために」
 エイトが一番聞きたくないだろう名前を、あえて出した。エイトと私が一番逃げまわってきた現実そのものの、光太くんの名前を。
 ダイニングチェアに坐った背中は動かない。普段は私をからかって、おちょくって、話をまぜっかえしては面白がっているばかりの彼だけど、こんな時には必ず、黙って最後まで聞いてくれる。急かしも、さえぎりも、否定もせず、ただ黙って最後まで聞いてくれる。だから、私はあなたと出逢ってからは、以前よりもほんの少しの勇気を手に入れて他人とかかわることができるようになった気がするの。
(言いたいことがあるなら、遠慮しないで言えよ)
 ことあるごとにあなたがそう諭してくれたから、大事なことは言葉にして届けなくちゃ伝わらないと気がつけたの。
「……買いかぶんなよ」
 痛みに耐えるかのように声をしぼり出した彼の正面へまわりこんだ。今は、ちゃんと顔を見て話さなくては、と思った。
 冬の星空とネオンの灯を背景にしたビルの屋上で、彼がくれた言葉を思いだす。──あの時はきっと、“キス”目当ての打算と下心があったのだろう。それでもあの夜、まっすぐに伝えられた声と瞳は、私が前を向くきっかけになってくれた。
 だから次は、私があなたのきっかけになりたい。──伝わって。どうか、伝わって。
「私は、あなたを信じてる。あなたが、私を信じてるって言ってくれたから」
 私の視線と、エイトの視線が、まっすぐに交わった。今度は、エイトはメモを受けとった。


 先に俺んちに行ってろ、と渡された、この部屋の鍵。
 目の前にかざしてしげしげとながめているうちに、たまらなく罪悪感がおし寄せてきて、私は心のうちでひたすら美尊さんへ謝った。──ごめんなさい。本当にごめんなさい。これは──そう、一時的な避難というものであって、決して──同棲、とかそういうものじゃないんです──。
 これまでに何度も訪れたことのある見慣れた彼の部屋は、だけど主のいない状況は初めてのせいか、なんだかふしぎに緊張してくる。水槽のクラゲもいつもと変わらず迎えてくれるのに、奇妙な居心地のわるさを私に与える。所在なくスツールに腰かけたものの、ぐるりと辺りを見まわして首をかしげた。……ここって、こんなに無機質で殺風景だったっけ? ……
 寂しさがつのってくるのは、室内をたよりないオレンジ色に染めてゆくこの夕陽のせいかもしれない。ボストンバッグの中の荷物をひろげる気にもなれず、でもとりあえず、ふたつのマグカップだけをテーブルにならべてみてぼんやりとしていたら、スマホの着信音が鳴りひびいた。
 画面の表示を眼にした瞬間、ほとんど夢中で通話につないでいた。
〈宰子〉
 ただひと言、名前を呼ばれただけで、こんなにも胸が満たされる。──彼の存在はいつから、これほど大きく私のなかを占めるようになっていたのだろう?
〈靴は渡した〉
「うん」
〈ありがとな〉
「ううん」
 枝を折って捨てるみたいに短い、そっけないやりとり。けれどその声のやわらかさが、穏やかさが、彼が大事なものをとり戻せたことを知らせてくれて──私は涙があふれそうになった。間にあって本当によかった。
 その会話だけで充分だった。それ以上は望んでいなかった。なのに。
 しばらくの沈黙のあとに伝えられたこの言葉を私は一生、忘れないだろうと思う。
〈あとさ。──“道具”だなんて、言うなよ。俺は、宰子を“道具”だなんて思ってない〉
 それは閃光のようなスピードで翔ける恋心。
 満たされたはずの胸が、まだ足りないと要求する。声だけでは我慢できない、とわがままをいう。──逢いたい。逢いたい、逢いたい、逢いたい。
〈おまえさ、料理とか作れんの?〉
「りょ、料理?」
 突然、投げられた脈絡のない質問に、意表をつかれて思わずどもる。男のひとにこの質問をされるのって……まさか……。
〈地味な独り暮らしだから、自炊ぐらいしてんだろ?〉
 このあとにつづくだろうせりふが、自然と頭に浮かんだ。「腹減った。何か作ってよ。そうだ、『あれ』、食いたいな」──
 まさか彼に手料理をふるまう日がくるとは思わなかった。自分だけのためじゃなく、誰かのために料理をするのなんて、いつ以来だろう。私のレパートリーにあるものならいいけど。……でも、この部屋、まともな調理器具あるのかしら? ……
(──彼はもうすぐ、私の隣からいなくなります。もうすぐで、あなただけのひとになります。だから、その時が来たら笑って見送ってあげられるように、もう少しだけこの身勝手な独占欲を感じていてもいいですか? 美尊さん。──)
 私はワクワクしながら、一応作れる、とこたえた。そして、スマホの向こうから返ってきた愛しいひとのリクエストは、予想をはるかに超える難易度だった。
〈──ビーフストロガノフ、食いたいな〉
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