Parvati

「Parvati」(パールヴァティ)は破壊と創造を司る神・シヴァの妻たる女神の名前。死亡した最初の妻・サティの転生であり、シヴァへ献身的に尽くし愛を得る。
別名「Kali」(カーリー)=「黒い女」あるいは「時間」


一 ────


 初めて見た時、まるでおとぎ話の王子様みたいだ、と思った。
 異性に対して『王子様』と感じたのは、私の人生で二度目のことだった。


 お酒の匂いと女のひとの嬌声と猥雑なにぎやかさにあふれた場所で目にした彼は、本当に童話の世界から抜けだした王族のように優雅に清爽で格好よかった。あんなに素敵なひとがこの世に(それもこんな場所に)存在していたんだ、とちょっと感動さえした。
 しかもなお恐ろしいことには、その王子様は爽やかさと同じ比率で、歌舞伎町に君臨するナンバーワンホストとしての退廃的な色気、淫靡をも同居させていたのだ。このデリバリーの仕事に就いて以来、お得意様に水商売のお店も多かったものだから「ホスト」「キャバ嬢」といった職業のひと達をそれなりの人数見てきた私でも、彼ほど聖と俗が両立した異様な美をもつ夜の住人にはかつて出逢ったことがなかった。
 ──端的にいうならそれは、未知との遭遇。
 気がつけば私の眼は彼にくぎ付けにされて、そらすことができなくなっていた。……今にして思えば、私は最初の一瞥から、彼のふりまく魔性にとり込まれていたのかもしれない。
「シアン化カリウム」──またの名を「青酸カリ」。
 あの日、身の毛もよだつようなその殺意の塊を混ぜられた栄養ドリンクの行方を追って、私は彼へと行き着いた。そして、仮面の笑顔で贈られたドリンクを何も知らず受けとって、何の躊躇もなく飲みほした彼を見てしまったあの瞬間から──私の運命は大きく動きだしたのだった。


 一月十五日。午後九時。今日はこれでシフト終了。
 私服に着替え終えた私は、事務所のスタッフさん達にお疲れさまです、と小さく会釈してから『ナイトデリバリーサービス』の店舗の外へ出た。出入り口のガラス扉をあけた途端、肌に刺さる冷たさの強風が髪を吹きはらって、思わず首をすくめた。……寒い。疲れた。早く帰ってあったかいお風呂につかりたい。……
 人通りの少ない裏道を十歩ほど歩いてからピタリと立ち止まる。電柱の陰にさっと身をかくし、すばやく周囲に視線を飛ばす。……うん、怪しい人影、なし。
 ──めずらしく、今日一日、あのホストは私の前に現れなかった。ストーカーそのものの執着心まる出しで三日間も私につきまとい続けてきた彼も、あまりの手ごたえの無さにさすがにもうあきらめたらしい。あきらめてくれたならいいけど。
 ほっとして深く息を吐く。胸いっぱいにひろがる解放感を存分に味わって、でも、その中にほんのちょっぴりのもの足りなさが隠れていることに気づいて──愕然とした。……え? ちょっと待って、宰子? あなた、どうして、かるく落胆したりしちゃってるのよ? ……
「──誰を探してるの? 俺?」
 真剣に自問を始めた矢先、すぐそばから聞こえた低い声に心臓がとまるかと思うくらい驚いた。
 比喩ではなく、文字通り身体全体がはねて、その勢いで背後をふり返った。そこにいたのは(いつからいたのだろう?)、痩身で背の高いひとりの男性。今、最も私が逢いたくない相手。
 ホストクラブ『ナルキッソス』のナンバーワン。源氏名「エイト」。本名は、えっと……そう、堂島旺太郎。
 読みがあまかった、これは筋金入りのしつこさだ、と反射的に身がまえた私を気にする風もなく、そのホストはニコリと人好きのする笑顔を見せた。片手にブランド名らしき気取ったアルファベットが印刷された紙袋を持っている。きっと店のお客さんからのプレゼントだろう。
「遅くまでお疲れさま。夜道を女の子ひとりは危ないからね、家まで送るよ」
「結構です!」
 やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめてみせた彼の、左耳だけにつけたピアスが街灯を反射して白く光った。キザったらしいそんな仕草も様になるのだから大したものね。……でも、自宅までは歩いて五分だし、恩着せがましくされてもありがた迷惑です。放っておいて。
 できうる限りの大股で早足で歩きだした私を軽快な靴音が追ってくる。何食わぬ顔で、近すぎず遠すぎずの絶妙さで真横につかれる(ごく自然に車道側に立つあたり、さすがホストというべきか)。……もう、だから放っておいてってば。
 繁華街からはだいぶ距離のある裏道は人通りがまばらとはいえ、ゼロではない。私達ふたりのそばを通りすぎるひと達がほぼもれなく、まず彼を見て眼を丸くし、次に私を見て首をひねり、最後にふたたび彼へ目線を戻すのがいたたまれなくて、やるせなくなる。……不似合いだと思いますよね? ええ、私もそう思います。お願いだから、もっと離れて欲しい。……
 派手めの、だけどひと目で高級品とわかるスーツとコートを着こなし、夜の新宿を颯爽と歩く隣の横顔をそっとぬすみ見る。──美形というのは、横顔だけでもはっきりそれと認識できるのだと実感した。なんて形のいい鼻筋……なんて長い睫毛……一体、前世でどんな徳をつんだらここまで美しい顔に生まれつけるのだろう?
 絵に描いたような、というのではまだ足りない、絵に描いて金の額縁に入れて大理石の壁に飾ったような美貌につい見とれてしまっていたら、ふいに「ん?」と見つめ返された。夜の闇を吸いとってなおきらめく両の瞳のまぶしさにあわてて顔をそらす。──素直に認めるのも悔しいけれど、でもやっぱり、このひとは抜群に格好いい。それなのに。
「そろそろキスしてくれる気になった?」
 ──口をひらけば、コレだ。何もかもが完璧な人間にならないように、外見がとても綺麗な分だけ内面をとても汚くして神様がバランスをとっているのかしら。
「ならない。もうしない」
 ぴしゃりと言い放つと、わざとらしいため息が降ってきた。
「つれないねぇ。……頼んでもいない時にはキスしまくってきたくせに、いざ頼んだらもったいぶるって、どうなの?」
「…………」
 歩くスピードをさらに速めた。
「ちょっと待ってよ。そんなに怒るなって。今日はもうお願いはしないから、機嫌なおせよ」
「……嘘。絶対、キ、キスのことしか考えてないでしょ」
「嘘じゃない。マジで。今夜はやめとく」
 妙に強いきっぱりとした否定が意外で、思わず彼を見上げる。眉をややひそめて見下ろしてくる彼が、私の顔を指さした。
「スゲェ疲れた顔してる。隈もできてるし。……大丈夫? いつもこんな時間まで働いてんの?」
 ……え、隈!? 私、そんなにひどい顔してるの!? 自分自身が気づいていなかったことを指摘されて、ものすごく気恥ずかしい。とっさに両手で顔中をゴシゴシこすった。もちろん、そんなことをしたって疲れも隈も消えてはくれないだろうけど。
「……きょ、今日はたまたま。急な休みが出て、シ、シフトの穴を埋めたから……」
「ふーん……。たまたまならいいけど。あんま無理すんなよ。君に倒れられたら、俺もこまるからさ」
 仕事の疲労と同じくらい、あなたに追いまわされる心労もあると思う。……と、嫌味のひとつも言いたくなったけど、わりと本心から私の体調を気遣ってくれている様子に嫌味をのみこんだ。
 そのまましばらくお互いに黙ったまま、冬の夜風に身を縮こませながら歩き、ほどなくして自宅マンションの前に着いた。
『家まで送る』という一方的なミッションはこれで完遂したはずなのに、なぜか彼は「じゃあな」も「おやすみ」も言わず、そわそわと去りがてにしている。いつもなら思ったことは無遠慮にすぐ口に出す──私とは正反対に──辟易するほどうるさくよくしゃべるひとの、めずらしい態度。
 ──もしかして、やっぱり“キス”を狙ってる?
「何? ……もう帰ったら?」
 警戒心をふくんで、声に棘が生えた。彼が少しあわてた顔をした。
「……あ、ああ、帰るよ! 帰るけど……その前に……」
 だから、何?
「あの、さ……その……そこ、大丈夫だった? この間、ずいぶん強く絞めちゃったけど……何ともない? ……」
 意を決した表情で、でもどこか弱気な眼でぽつりぽつりと言葉をならべていく彼の姿は、まるでいたずらを見つかって叱られている最中の幼児みたいだ。ナンバーワンホストにこんなたどたどしい一面もあるのね、とちょっとおかしくなる。喉元へ手をあてるジェスチャーを見て、ああ、十二月三十一日のことか、と思いあたった。
 約二週間前(カレンダー上は。体感ではさらにもっと以前)の大晦日。並樹乗馬倶楽部でのカウントダウンパーティーの日。私は彼に首を絞められた。
 ジョークでもポーズでもない。本気で、殺す気で、絞められた。運よくその場に通りかかったふたりのサラリーマンが彼をとりおさえてくれなかったら、多分、事件沙汰となって私は今ここにこうしていないかもしれなかった。
 でもそれは仕方のないことだ。キスして死んで時間が戻る、だなんて前代未聞の超常体験が連続したら彼がパニックを起こして錯乱するのは当然だし、人命救助だけを優先していっさいの説明を怠った私が「殺人者」と疑われて襲われたのも自業自得だ。彼の手であやうく殺されかけた時は、それは確かにすごく怖くて痛くて苦しくて悲しくて落ちこんだけど。そうされるだけの原因があったのだから仕方ないし、今はもう気にしていない。怪我もしていない。
 ──それに。彼が私を殺しかけたのは一回。私が彼を“殺した”のは六回。現状の通算成績でなら、謝らなければいけないのはむしろ私の方なんじゃないの? ──
 彼らしくもない消沈ぶりが気の毒になってきて、私はなるべく明るく聞こえるよう声を張って微笑みかけた。
「何ともなってない。平気。だから、気にしないで」
 聞いた瞬間に、ぱっと顔をかがやかせる。それこそ、叱られていた母親から「もういいよ」と頭をなでられた幼児みたい。単純明快というか起伏がはげしいというか……初めて逢った時はもっとミステリアスで近寄りがたい、大人の男性かと思ったのに……なんだか彼の印象がずれてきた。ずれてきたのが悪い方向へなのか、良い方向へなのかはわからないけど。
「ほんと? ──あー、良かったぁ! 誤解とはいえ、あん時はさすがにひどいことしちまったなあって、ずっと気にしてたんだよ。ほんと悪かった、ごめん! ──首絞めたの根にもってるから、めっちゃ嫌がって逃げまわってるのかと思ってた。そうかそうか、平気かー。じゃ、やっぱ照れてるだけなんだな。マジ安心した」
 ……せっかく見せてあげた微笑もひきつらせるせりふを平然とのたまう彼。私はまた読みを間違えた。目の前のこの男は殊勝さなんてカケラもない、ただのクズだということを忘れていた。
 ありったけの軽蔑をこめてにらみかけた時、手に持った紙袋から何かを取りだした彼が突然、身体を寄せた。虚をつかれたその一瞬──香水とお酒の混ざりあった匂いをすぐ間近に嗅いで、どきりとした。
「これ、お詫びといったらあれだけど」
 やさしい声とともに、フワリと、やわらかくて肌ざわりのいいその何かが首に巻かれた。見れば、真っ白いマフラーだった。
「……えっ? これって……?」
「プレゼント。君に」
「……えぇー!? そんな……こ、こ、こまる! プ、プレゼントされる理由なんか、ない!」
「今、言ったけど。お詫びって。──まぁ、気にいらなかったら処分してよ」
「しょ、処分なんて……だって……でも……」
 でも、これ、相当に高価でしょ! 見た目と手ざわりでわかるもの! ど、ど、どうしよう……!?
 自分でもみっともなく思うほどうろたえていると、驕慢さをにじませた笑みを唇の端に浮かべた彼が少しかがんでのぞきこんできた。……近い。顔が近い。
「結構、似合うじゃん。君さ、明るい色の服着た方がかわいいよ」
 これがホストの常套句──誰にでも吐くお決まりの口説き文句──。そう言いきかせて、つい早まりそうになる鼓動を懸命にごまかす。へんに気持ちが浮ついてしょうがないのは、さっき嗅いだ彼の「夜の香り」にあてられたせいだ。きっとそうだ。
「お、大きなお世話……物で釣るつもり……?」
 ようやく遅ればせながらにらみつけてやると、彼はかるく鼻で笑って身をひいた。
「心外だな。俺、そこまでクズだと思われてんの? 言っとくけど、今夜は手を出さないってのは本気だよ。もう遅いから、良い子はさっさとおウチに帰って布団かぶって寝な。睡眠不足はお肌の大敵だぞぉ」
 ふざけた口調でヘラヘラしているのが癇にさわる。……と、急に真顔になった彼が低い声音と強いまなざしで、言った。
「だけど──覚悟しといて。十八日までに絶対に奪ってみせるから、その唇」
 大きく透明な、ガラス玉に似た双眸が私を映していた。息もできないほどの緊張感が全身にわたる。胸の奥がふるえた気がしたのは、狩られる獲物としての恐怖からか、それとも、もっと別の何かのせいだろうか?
「そんじゃ、また明日ー」
 軽口の調子に戻ってストーキング続行宣言を残し、ひらひらと片手を振って背を見せる。遠ざかろうとするその背中へ、頭が考えるよりも先に口が動いて呼びかけていた。
「……あの、堂島さん! 今日は……どうもありがとう! ……おやすみなさい」
 呼びかけられて立ち止まった彼は、ゆっくりと顔だけを──なぜか無表情の顔だけを肩ごしにふり向けた。
「エイトでいいよ。その名前は嫌いなんだ」
 乾燥したその声。さっきまで感情ゆたかに言葉を発していたひとのものとは信じられないほど、色が消えていた。──彼の中の、触れてはいけない扉に手をかけてしまったように感じた。
「……。じゃあ……エイトさん。……今日はどうもありがとう。おやすみなさい」
 数秒、逡巡したのち、律儀にくり返した私のせりふに冷たい無表情がゆるんで、彼が吹きだした。いつもの余裕ぶったうす笑いとは違って、自然にほころんだやわらかい笑顔だった。──このひと、無防備に笑った顔は案外、子供っぽい。
「マジメかよ。さん、はいらない。エイトって呼んで。──じゃあな、おやすみ」
 そう言って新宿の夜へ消えていくスラリとした長身は、後ろ姿までが呆れるほどに華麗だった。……ヘンなひと。本当におかしな『王子様』。
 ──ふと。ふたりの少年を思いだした。沈みゆく船の中、命とひき換えに私を救ってくれた──やさしくて勇敢なあのふたりこそ、私が人生で最初に出逢った本物の『王子様』だった。もしも、もしもあの子達が今でも生きていたらきっと、どんなに素敵な男性に成長していたことだろう。
 ……だめだ。私には明るい色は似合わない。似合ってはいけない。“純白”なんて、もってのほか。
 真っ白なマフラーを首からはずして丸めると、肩掛けにしたショルダーバッグの中へ押しこんだ。彼には──エイトには悪いけれど、私がこれを使うことは二度とないだろう、と思った。──


二 ────


 堰をきったようにあふれて止められない涙でぼやけた視界の中、あのひとの華麗な後ろ姿がどんどん遠ざかっていく。何か声をかけてひき止めたいと思うのに、かけるべき言葉がひとつも浮かんでこないのがまた、哀しさを増す。
 ──でも、たとえ何を呼びかけたとしても、彼が決してふり返らないだろうことは理解していた。
(ありがとう。今までありがとう)
 涙をたたえて潤んだ瞳とともに贈られた感謝は、同時に、永遠の別れも告げていた。けれど、──私にはそれほどの深い感情を寄せられる憶えがない。
(今度、店に行っても、俺はもういない。二度とおまえには逢わない。これで本当にさよならだ。──宰子)
 名前を呼ばれて、胸の奥がふるえた。だけど、──私は彼の名前を思い出せない。あのホストの源氏名は確か、数字を連想させるひびきだったような……?
(知ってるよ。おまえのことはよく知ってるよ。キスで時間を戻して、俺を助けてくれてたんだろ?)
 あなたは私をよく知ってる。なのに、私はあなたをほとんど知らない。その理由を私は何も知らない。それでも、さよならだなんて。そんなの認めない。そんなのは、フェアじゃない。……だって……だって……私達は……。
 私達は“パートナー”でしょ?
 ──どうしてそんな単語が浮かんだのかわからない。ただ──頭の片隅のさらに片隅、ぶ厚いカーテンの隙間から、見知らぬ『もうひとりの私』がそっとささやいた声が聞こえた気がした。
 コンビでもなく。ペアでもなく。共通のひとつの目標へ向かって手をとり合い、“契約”を交わし、限られた時間をともに駆けぬけた“パートナー”。
 その単語こそが彼と私とをつなぐ確かな糸だと、『もうひとりの私』の手が背中を押すのを感じた。
 焦燥にも渇望にも似たこの想いの可能性として思いあたるのは──ただひとつ。
(キスは、本当の愛を見つけるためにするもんなんだよ)
 ねえ、『ナルキッソス』のナンバーワン。言い逃げなんてずるいじゃない。あなたの持つ『私』との“記憶”を、“過去”を、この私にもおしえてよ。
(──おまえはもっともっと、幸せになれんだよ。だから、クズにはだまされるな。俺みたいなクズだけは好きになるな。──)
 絶対にあきらめない。さよならなんて受け容れない。あなたの心を知りたいから。私の心を解きたいから。
 ──そうね。まずは──あなたの名前を知るところから始めることにしよう。


 覚悟しておいて。いつかきっと、私はあなたを見つけだす。
 そしてもういちど、あなたに逢いに行く。
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