Dionysus

「Dionysus」(ディオニュソス)は人間に葡萄酒の製法を広めた、酒と酩酊と演劇の神の名前。狂気の神であるディオニュソスを崇める祭儀は、原始的かつ性的な興奮、陶酔、恍惚を伴う。


 おかわりちょうだい、と目の前につきつけられたシャンパングラス。
 上下にわずかに揺れているのは言葉のままの催促だろうが、どことなく挑発めいても感じられる。キャラクターから考えても宰子は下戸だと決めつけて、旺太郎は甘口で飲みやすいと女性に人気の銘柄を選んだのだが、気遣いは杞憂だった。
 最初、宰子は彼の予想通り「私、お酒は飲まない。好きでもない」と断って、しつこくすすめてようやく、渋々といった顔で舐めるようにシャンパンに口をつけだした。
 ところが──。
 乾杯につきあってもらえば充分、との旺太郎の期待をはずれて、というか上回って、グラスの酒が半分減ったあたりから宰子のピッチがあがってきた。意外の感にうたれて見まもるうちに空っぽとなったグラスへ旺太郎は、なんだよ、実はいけるクチじゃん、などと笑いながら『ランソン』のドゥミ・セックをまた注いでやった。
 ただし──笑えたのはそこまでである。
 元ホストの目から見てもかなりのハイペースで二杯目、三杯目を飲み干した彼女から追加をせがまれるに至って、感心していた彼も戦慄してきた。


 つきつけられた空のシャンパングラスをとりあげ、テーブルの隅に置く。催促には応じない。
「おまえさ、もうそのへんにしといたら?」
 宰子はキョトンとしてから、片眉をもちあげた。
「まだ飲む」
「やめとけよ。そんな急ピッチで飲み慣れないもん飲んで、悪酔いするに決まってる」
「そんなに酔ってない」
「どうだか。──これ、何本だ?」
 目の高さで右人差し指だけを振ってみせると、宰子は半目でじいっと見つめて、
「二本」
「しっかり酔ってるじゃねえか。残りは明日にしろ」
 旺太郎はあきれ顔で立ちあがった。だいぶ軽くなったシャンパンボトルをつかんだ上から、ほそい指の手が重ねられた。
「やだ。今、欲しい」
 きりつめた生活をしている自宅は照明が少なく、昼でも明るさに乏しい。窓にブラインドをおろした夜の現在は、昼間に増して仄暗いリビングだが、白熱電球の弱くあわいオレンジ色のなかにひときわくっきりと浮かびあがるような指の白さに眼を奪われた。伝わる体温に心臓が跳ねた。
「ちょうだいって言ってるのに。いじわる」
 手をとられたまま固まっている旺太郎へ、宰子が上目遣いを向けてきた。いつもとさして変わらぬ仏頂面ながら、ほのかに赤く染まった頬と目元が妙な色気を醸している。いつもとさして変わらぬ物憂げな低い声でも、かすれ具合がへんに鼓膜にからみついて甘く聞こえる。こんな風にかわいくすねて媚態を示す彼女を、彼は初めて見た。もう一度、心臓が大きく跳ねた。
「あ……はい、すみません」
 気をのまれてゴニョゴニョと、なぜか丁寧に謝ってしまった。
 気だるいようすで窓際のソファに坐る宰子の、テーブルをはさんではす向かいのスツールへ坐り直したところに、またも「おかわり、お願い」とねだられた。抵抗する気力を削がれた旺太郎は言われた通りにした。
「これでいい? 満足?」
「ありがと」
 ボトルの中身はグラスの半分をやや超えた量で尽きた。最後の一杯となった『ランソン』から、細かな泡のラインが幾すじも立ちのぼる。そのさまをウットリながめている宰子の姿に深いため息をついて、旺太郎は旧式携帯(スマホを並樹家に預けて以来、これで当座をしのいでいる)をとり出すと時間を確認した。
 画面の表示は〈2月26日 22:48〉
 仕事柄シャンパンに飽き飽きしている彼は、乾杯の分しか減らしていない。つまり、宰子一人で一時間半ほどでフルボトルの五分の四を担当したわけで、「お酒は飲まない。好きでもない」とは何だったのか。
 さらに深いため息をついて、携帯をポケットにつっこんだ。
「どうなっても知らねえからな、俺は」
 投げやりに吐き捨てて四本目の缶ビールのプルタブをひく。ちなみにロング缶である。他人をとやかく言うわりに、本人だって結構ペースが速い。
 彼女はちらりと、どこか謎めいた視線を投げてよこした。
「どうもならないから、ご心配なく。──どうなることもないんだから」
「え?」
 つぶやきの意味がよくわからない。訊き返そうかとも思ったが、それっきり彼女は無数の泡がはじける金色の液体に見入っているだけだったので、やめた。
「ほんとに大丈夫なんだろうな? 吐き気とか頭痛とか、ない?」
「大丈夫。ふわふわして、気持ちいいだけ」
 こともなげに返事をした宰子は、シャンパンをひと口ふくむとめずらしく、本当にめずらしく愉しそうに笑った。持ち前のおっとりしたしゃべりからどもり癖が抜けていて、これも本当にめずらしい。──ポジティブな宰子、新鮮。実に新鮮。
「だったらいいけど……」
 機嫌よく酔っぱらってるなら、まあいいか、と旺太郎はあきらめた。宰子の人格を劇的に変えてくれたアルコールに感謝して、からむのはそこまでにした。……彼女の機嫌をそこねて、重苦しいムードに戻ってしまうのを避けたかったから。
(あなたは幸せを手に入れた。だから、もう、私はいらないでしょ)
 また瞼に浮かんだ、寂しげな微笑。その残影をかき消したくて、急いでビールをあおる。空き缶を増やすペースが今日は速いのは、これが理由だ。
「あなたこそ、飲みすぎだと思う。それくらいにしておかないと。明日、衣装合わせなんでしょ?」
 だしぬけに結婚式の話題をふられて、少しむせた。
「……あ、ああ、まあな。けど、たかが衣装合わせでそんな、構えなくたって……」
「たかが、じゃない。ウェディングドレスは女性にとって、すごーく特別」
「そ、そうなの?」
「そうです。二日酔いなんて厳禁。万全な体調で、ちゃんと真剣に選んであげて」
「あ……はい、すみません」
「日取りは決まった?」
「ああ。来月四日。次の大安だとかで即決だったよ。とにかくすぐに式を挙げたい、って秘書のおっさんも百億もうるさくってさあ」
「『美尊さん』!」
 宰子が強い調子で口をはさんだ。
「は?」
「『美尊さん』。もう『百億』なんて呼んじゃだめ。結婚する大切な相手でしょう」
「そりゃ、まあ……」
「いいかげん、そういう無神経なところ、直した方がいい。あんなに愛してくれるひとに、失礼」
「…………」
 噛んでふくめるように諭されて、さらに、
「でも、あなたの夢が叶ってほんとうに良かった。おめでとう」
 安心したように祝福された。
(結婚、おめでとう。お幸せに)
 また脳裡をよぎる、四本を数えるまでビールに頼ってもかき消せずにいた残影。
 旺太郎は次第にいらいらしてきた。諭されたのが気にくわない。祝福されても嬉しくない。──あれほど焦がれていた百億円と結ばれる日が待ち遠しくないのも、波乱まみれで激動の毎日だったこの二ヶ月間が名残惜しいのも、どちらもが不可解で不愉快だった。
「──式の話はもういいって!」
 つい刺々しくなった口調に、宰子がちょっと頬をふくらませた。
「『並樹ホテルインターナショナル』の社長内定祝いにつきあえ、って言ったのは、あなた」
「それは……その……」
「そういう自分勝手なところも、直した方がいい」
 母親みたいな苦言を最後に静寂のおちた、仄暗い室内。ストーブにのせたやかんから水蒸気が吐き出される音だけが小さくひびく。
 自らまねいた沈黙。この静けさが落ち着かないが、会話を再開する糸口を見つけられない。旺太郎はいまさら思い知った。
 ──たとえば、嗜む趣味。好きな音楽、映画、本は。──休日の過ごし方。よく出かける場所、お気に入りの店は。「エイト」なら十分もあればたやすく入手していた個人情報が、彼女については白紙のままだということに。いい気になって“パートナー”を自称していながら、自分と彼女とのあいだには共通点がまったくないということに。
 ……知りあって二ヶ月も経つのに(“キス”で何度もくり返したから、二ヶ月どころか半年ぐらい経つ感覚もするのに)、なんという怠慢。
 胸中で苦く自嘲する。と、ここぞとばかりに、いつの頃からか頭の片隅に居すわっていた疑問が存在を主張してきた。──正確にいえば、疑問というよりも強い興味だが。
「えーと。そういえば、ひとつ、訊きたいことがあったんだけどさ……」
 今がチャンスかもしれない──今のポジティブな宰子ならこたえてくれるかもしれない──旺太郎は唾をのみこんだ。
「……初めて、その……“タイムリープ”したのって……いつ?」
(最後に恋をしたのはいつだよ。恋をしたことはあるんだろ?)
 似た質問をあの夜、あのレストランでは、何の気兼ねもなく投げつけることができた。それなのに──今夜はやたらと緊張して、のどにつかえて仕方ないのはどうしてだろう?
 やや前のめりになった彼を、彼女は訝るような醒めたようなまなざしで一瞥した。
「知りたいの? そんなこと」
 その語韻が冷ややかなものに感じられたので、あたふたと、
「いや、言いたくないならいいよ! ……そうだよな、そんな話、気分悪くなるだけだよな。ごめん! お、俺もなんとなく訊いてみただけで、別に、たいして知りたいわけでもないし……」
 笑ってごまかそうとしたのをさえぎって、意外にも、宰子が静かに話しはじめた。
「高校一年生の時。相手はクラスメイト。初雪が降った日に、学校の渡り廊下で告白された。『つき合ってください』って」
 自然と姿勢を正す旺太郎。
「ほんとうは、それまでは友達としか思ってなかったけど。でも良いひとだったし、一緒の中学の頃から好きだったって言われて、嬉しかったから……私、その場で『はい』って」
 淡々と、しかも詳細に、教科書通りに爽やかな青春を語られ、旺太郎は謎のショックをうけた。……恋バナとは無縁の陰キャだと思ってたのに……フツーにリア充じゃん……。
 小学四年生の冬に「人殺しの息子」の烙印を押されてからというもの、旺太郎の学校生活は地獄となった。中学、高校、と校舎は変わっても、まわりの人間が彼を拒む忌避、なじる罵声、くり返す嫌がらせやいじめはどこでも同じだった。逃げ道を家庭に求めようとしても、家族全員バラバラに壊れて莫大な賠償金の支払いだけが残されたそこも牢獄でしかなかった。
 ──救ってくれる人も護ってくれる場所も与えてもらえなかった彼の十二年間は暗闇そのもので、かがやく記憶など学生時代に一つもない。旺太郎は敗北感にも似たダメージにうちひしがれた。
「それから七日後、放課後の屋上で初めて、“した”」
 …………“した”んだ…………。
 唇の端をもちあげて余裕の態度を見せようとするも、苦しい。
「へ、へえ……そうか……」
 ……そうか、それがファーストキスか、俺以外の男としてたんだよな……と、名前のわからない黒いものが胸にひろがってきた。
 あえて名前をつけるとするなら、それは「元カレへの今カレの嫉妬」と呼ぶのがもっとも近い──が、どうしてもそれが思いつけない旺太郎である。
「だけど。そのあと、急に彼が倒れて。私も、息ができなくて苦しくて。何が起きたのかわからないうちに、気がついたら……」
 目線をおとした宰子は、ポツリとつぶやいた。
「七日前の渡り廊下に“戻って”た」
 “タイムリープ”を初体験した高校生カップルがその時、どれだけ驚倒してパニックにおちいったか、ベテラン経験者の旺太郎には手にとるように想像できた。
「次の日、学校に行ったら、皆が私を怖がって避けるようになってた。彼も、友達も、ほかのクラスの子も、学校中の皆が。──これが最初」
(──こんな“力”があるせいで皆、私を怖がるし、ばれたら私は嫌われる! ──)
 やはり淡々と、しかし哀しみが混じる沈んだ声で締めくくった眼前の彼女に、あのレストランで瞳に涙をいっぱいにためて想いの丈をぶつけてきた彼女が重なった。
「まあ……なんだ……思い出させた俺に言われても、あれだろうけど」
 自身が持つ超常の“力”を知った日から、その“力”を“罰”だとして背負った日から、ずっと人目を避けて日陰を選んできた人生に憐憫と共感をこめて、
「そんなん、いつまでも気にすることないって。びびって言いふらしたそいつが根性なしのクズだっただけで、宰子は何も悪くないよ。──それにさ、初恋は実らないってよくいうだろ。そんなクズ野郎をひきずるな。全部忘れちまえ。おまえのキスを受けいれてくれる男は、どっかに必ずいるから」
 おのれを棚にあげて元カレをクズ呼ばわりして慰める旺太郎に、宰子は小首をかしげると、
「違う」
「何が?」
「初恋じゃない。そのひとは違う」
「そ、そうなの?」
「そうです。──私の初恋は、もっと昔。小学生の頃」
「……そいつもクラスメイト?」
「ううん」
 声が夢みるようにふわりと、やわらかさをおびた。
「偶然出逢った男の子。王子様みたいに格好良くて、やさしくて──。『ありがとう』って笑いかけてくれたこと、『大丈夫?』って声をかけてくれたこと、今でも憶えてる」
「あっそ……」
 両手を胸にあて眼をキラキラさせた姿を見ていたくなくて、テーブルに袋をあけてひろげた柿ピーを凝視する。……宰子のヤツ、柿の種ばっか残しやがって。……
「一緒にいたのは三十分もなかったと思うし、会話もほとんどできなかったけど。それでも、あの想い出は一生忘れない、私の宝物」
「ふうぅ~ん……」
 短く、テキトーに相づちをうつつもりが、裏返り気味でからみつくような長ったらしいものになってしまう。……ピーナッツ全滅してるぞ。辛いもん苦手だからって、おまえさあ。……
 どうでもいいことだけ考えながら眼をあげたら、なんとも微妙な表情をした宰子がこちらを見つめていた。
「何?」
「えっと……あのね、落差がすごいな、と思って」
「うるせえよ」
 見ず知らずの『王子様』とやらと勝手に比較され、男性として優劣をつけて残念がられて、腹がたつ。
「こちとら格好悪くてやさしくもなくて結構だよ。大きなお世話だ、ほっとけ」
「そういう意味じゃなくて」
「なら、ほかにどんな意味があるってんだよ」
「だから、それは……」
 彼女は口ごもると、またもどこか謎めいた視線を投げかけて、
「それは秘密」
 いたずらっぽい笑みにドキリとした。旺太郎はあわててビールを流しこんだ。
 ……どんなクソガキとどんな出逢いをしたのか知らねえが、ずいぶん大げさだな。つーか、三十分も逢ってなくて、ろくに話もしてない相手に惚れるなんて、あり得るのか? 宰子、おまえ、そんなちょろい女だったのか? ……
 いまだ名前を思いつけない黒い感情が、色の濃さを深めていく。四本目のロング缶も底が見えてきた。
(ありがとう)
 ──(靴、ひろってくれたの)──
(大丈夫?)
 ──(いっしょにここから出ようよ)──
 ふと。どこか遠くで、かすかな反響がした。
 酔いといらだちがグルグルとまわる脳内に「……ん?」と違和感がともる。……似たようなことが、いつだったか……どこだったか……でも確かに……。
「宰子、あのさあ──」
 詳しくたずねてみようと身を乗りだした拍子に、まだ金色をたたえたシャンパングラスにひじが当たった。勢いよく倒れたグラスは耳に刺さる高い音をたてて割れて、三つほどのガラス片となった。
「やべっ」
「あ……もったいない」
 卓上をながれて床へ滴るシャンパンに未練がましい眼をそそぐ宰子に、
「そこに坐ってろ。俺が片づける。おまえ、酔っぱらってんだから、絶対に触るなよ!」
 と、釘をさして、旺太郎はタオルを取りにバスルームへ向かった。


 バスルーム、リビング、流し台、とあわただしく行き来して、ようやく後始末を終えた旺太郎が宰子の元へと戻ると、彼女はソファに横になって小さな寝息をたてていた。
「……マジかよ」
 すっかり酔いつぶれている宰子を前にして、嘆息するしかない。ただでさえ色白の顔が、ブラインドの隙間からおちるわずかな月明かりをうけて蒼く透きとおって見えて、「二日酔いの可能性はこいつの方がよっぽど高そうだ」と思った。
 共同生活をするにあたって、寝場所は宰子がベッド、旺太郎がソファ、と決めてある(恐縮して遠慮して固辞する彼女を説きふせるのに苦労した)。だから、この先客をどかさないと自分が休めない。
「ったく。ヤケ酒みたいな飲み方するからだ」
 お互いさまな愚痴をこぼしつつ宰子の背中とひざ裏に腕をさしいれて、軽々と抱きあげる。八店ものホストクラブを渡りあるいて鍛えただけあって、さすがに手慣れたものだ。
「お姫様抱っこ入りまーす」
 ふざけてコールしてみても、姫が目覚める気配はない。
「元ナンバーワンにタダでサービスさせて、いい御身分だな」
 舌打ちして、すぐそばのベッドへ運んだ。起こさないようにそっと横たえ、毛布をかけてやろうとして──旺太郎の手が止まった。
 オーバーサイズのニットとロング丈スカートは普段通りに防御力が高かったから、油断していた。間近で見る、黒いセーターからのぞく華奢な手首、鎖骨、頸──オレンジ色の弱い照明で陰影がついたそれらの艶かしさを発見してしまった。
 ──(やだ。今、欲しい)──(ちょうだいって言ってるのに。いじわる)──
 耳にリフレインした、甘い媚びをふくんだせりふ。それがまったく別の要求に聞こえて、思わず頭をふった。……いやいや、そうじゃない、違うって……。
 ──誘拐される直前に宰子をここに迎えようとしたのは、並樹尊氏の手から避難させるのが目的だった。“挽回した二月二十四日”は大事をとって入院させたが、尊氏が逮捕されて匿う必要がなくなった以上、翌日退院した彼女を自宅マンションに戻すべきだった。なのに、「身のまわりの物、まとめて俺んちに置いてあるし」とか何とか理由にもならない口実をつけて、彼女も拒絶しなかったのをいいことに、結局、この雑居ビルに連れ帰った。
 そうして、あいまいなまま始めた「同棲」。ふたりきりで過ごす、二度目の夜。
 多忙と疲労のおかげで昨夜は平穏無事に終わった。……だが、今夜はどうにも空気がおかしい。
 すべて、酒が原因だ。飲みすぎたのが、飲ませすぎたのがまずかった。拭き掃除を雑に済ませたのもいけなかった。あたりにただようシャンパンの残り香がますます判断力を鈍らせて、よろしくない。
 ──(どうなることもないんだから)──
 また鼓膜をしびれさせるリフレイン。安心しきった無防備な寝顔が逆に、嗜虐心に火をつける。……おまえな、男の家でこんなベロベロになるまで酔うとか、俺じゃどうもできないだろうってナメてんの? ……
 貞操の心配をしていた(そう見えた)こいつを「誰もおまえなんか襲わねえよ」とからかったのは、誰だっけ? ──勢いづく炎に炙られながら、それでも理性が問いかけてきて、指をひいた。色白の頬の輪郭を無意識になぞっていた指を。
 くすぐったそうに身じろぎしただけでふたたび規則正しい呼吸をつづける宰子を、黙って見おろす。卵のように張りのある、なめらかな肌。長い、量の多い睫毛。綺麗な筋の通った鼻。目を惹きつける鮮紅色をした唇。──
 旺太郎は実のところ、以前から気づいてはいた。宰子の顔貌は平均を超えて整っている、と。暗い表情ばかりで印象が目立たないだけだ、と。──素直に認めるのも悔しいが、でもやっぱり、この女はかなりの美人だ。
(俺達だったらうまくやっていけるよ! 別に“キス”しなくたって──)
 焦って必死に食い下がっていた自分自身を追及してみる。……うまくやっていく、って具体的にどんな風に? ……“キス”がいらないなら、それはどういう関係なんだ?
 ──好きも嫌いもない“キスの契約”がなかば終了しているのは、彼もわかっている。自分は“幸せ”を手に入れた。次は宰子を“幸せ”にする番なのだが、彼女がそれを願っていないのだから──それよりも“解放”を願っているのだから──その希望を叶えてあげるのが筋だろう。
 そんなことは、とっくにわかっているのに。
 三月四日に結婚式を控えたこの期に及んでも、“契約満了”を口に出せない。認められない。「自分勝手を直せ」と叱られるのも当然である。
 誰もがふり返る美貌とオーラの持ち主の社長令嬢より、地味で陰気で無愛想なケータリングスタッフの女が隣にいる未来の方が面白そうだ……特別な日のディナーは三つ星シェフのフルコースより、さっきの最高に旨いビーフストロガノフをまた食いたい……そんな願望が芽生えているのを自覚してうろたえた旺太郎に、悪魔がささやいた。
(だったら、新しく別の“契約”を結んだら?)
 ──また? 今度は何の名目で?
 首をひねる旺太郎を、悪魔がけしかけた。
(ほら、試してみたら? すべて、酒のせいにして、一線を越えてみなよ)
 ──身体の関係を結んで、その“契約”で縛りつければいい。
 たどりついた結論のあまりの醜悪さに、吐き気がした。
 堕ちるところまで堕ちた人生を歩んできた自分の考えつくことは所詮、どこまでも歪んで腐っている。やはり、もうこれ以上宰子を傷つけないためにも、きっぱりと手をきらなくては。……もっと一緒にいたい、などと望んでしまったのは、決して恋じゃない。ましてや愛なんかでもない。欲しいままに濫用してきた特権への、身勝手きわまる執着だ。それだけだ。
 そう判じた旺太郎は、穏やかな顔で眠っている宰子にゆっくりと毛布をかけてやった。
 三月四日になれば、長年の夢がついに叶う。そうすれば、執着だって手放せる。──手放すために、もう少しだけ。
「おやすみ、宰子」
 これは酒のせい──と、ずるい弁解をしながら、宰子の額にかかる前髪をやさしくかきわけて、かるく触れるだけのキスをそこへおとした。


 いつ、と明言はできないが、必ず自由にしてやるよ。俺の元から逃がしてあげるよ。
 ただし、おまえの“幸せ”を見つけてからな。そんなのいらない、っておまえは言うけど、“パートナー”の責任くらい果たさせてくれ。
 でも……俺の知ってる“幸せ”は金と力だけで、おまえが喜ぶ“幸せ”が何なのかわからなくてさ。
 ──だからそれがわかるまでは。
 我慢させてわるいけど、ここにいろ。籠の鳥のままでいろ。
 無神経で自分勝手なクズと“契約”したのが運の尽きだと、あきらめてよ。
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