木霊

「木霊」(コダマ)は樹木に宿る精霊の名前。山や谷でのいわゆる「山彦」の反響は、コダマの返事だとされる。
別名「Echo」(エコー)=「ナルキッソスに恋をするが、彼の言葉をくり返すことしか出来ず想いが通じなかった妖精」


 鏡に映る自分は、見たことのない姿をしていた。
「……とてもよくお似合いですよ」
 着替えを終えて試着室から出たものの姿見を食いいるように凝視したまま棒立ちの宰子へ、女性店員がおずおずと声をかけてきた。困惑した語調からは、それがお世辞なのか本音なのか、宰子には判別がつかなかった。
 宰子に判断できたのは唯一、「こういう服、ヒロミさんにもらった雑誌にたくさん載ってた」という印象だけ。職場の同僚から「持って帰るの面倒だし、あんたにあげるわ」と押しつけられた女性ファッション誌の中の写真とよく似ている、という感想のみ。
 ふり返って、店員の隣に立つ旺太郎(並樹美尊に操をたてて、昨日付けでホストを辞めてきた決断と行動のはやさには驚かされる)にたずねてみる。
「ど、ど、どう……?」
 内心は恥ずかしさと不安がほとんど。だが、高揚感と期待もなくはない。照れながらの上目遣いはそれらがないまぜとなった結果であり、意図したあざといものではなかったが──その手のそぶりが男性に対して絶大な効果をもつとは、宰子はまだよく理解していなかった。
 真っ白いワンピース(しかもミディ丈)の上に、明るめのキャメルカラーのコート(旺太郎が「絶対、バックベルト!」と主張して譲らなかったデザイン)を羽織り、グレーのストールを首に巻いて、足元は革のレースアップシューズ(もう何年もフラットな靴しか履いてこなかった宰子には、五センチのヒールでもかなりの冒険だ)。頭のてっぺんから脚のつま先まで旺太郎の見立てによるこの格好が合格なのか不合格なのか、見立てた本人に判定してもらうしかない、と思いきった。
 ──が。
 決死の覚悟でイメチェンに応じたにもかかわらず、旺太郎は「似合う」とも「似合わない」とも評さず、「良い」とも「良くない」とも言ってくれなかった。ただ無表情で、やけに重々しく「……うん」とだけうなずいて後ろを向かれて、宰子は途方にくれた。
 ……やっぱり、コメントしようがないくらい期待はずれだったんだろうな、私。……
 後ろを向いた彼がこっそりガッツポーズをして感きわまっていたことには、彼女は気づかなかった。
「これ、このまま着ていくから。タグもしつけも全部切っておいて。あと、この子が着てた服、袋にまとめてくれる?」
「かしこまりました。ありがとうございます」
 自分達よりひと回りは年上っぽい、髪型も化粧も洗練されて華やかな美女の店員に、旺太郎は気おくれすることなくてきぱきと指示している。場慣れしたそのふるまいが彼の女性経験の豊富さを物語っていて、ますます自信を喪失する宰子である。
「ま、こんなもんだな」
 満足げな旺太郎の笑みよりも、「こんなもん」とのせりふの方を額面通りに受けとってしまう。が、ともかくも「このひとみたいにすごく綺麗な女性に毎日囲まれてきた彼のコーディネートなのだから、間違いないはず」と考え直した。
 ──考え直すための言いわけで、かえってもっと気分が落ちこんだのだが、そこには目をつぶっておいた。


 四階フロアのレディースブランドで全身コーディネートしてもらったあと、地下の食品売り場に下りて並樹美尊の母親の好物だという洋菓子を購入してから(旺太郎によると、この菓子は近場ではここでしか買えないらしい)、宰子と旺太郎は新宿駅前の百貨店を出た。
 空は青く晴れわたり風もおだやかな、寒さゆるんだ二月十五日の午後。世界一の乗降客数を誇るターミナルの駅前広場は人でごった返し、ただ歩くだけでもなかなかに難易度がたかい。周囲の歩行者とぶつからないように避ける方向とかわすタイミングに、ある程度のテクニックを要求されて、あまり機敏ではない自覚のある宰子などはとくに神経を張りつめざるを得なかった。──それに、デリバリーの仕事で通い慣れている場所ではあるが、プライベートの今はまた違った緊張もあった。
 その緊張の原因はもちろん、百貨店のショッピングバッグを片手になんの苦もなく軽快な足どりで前を行く男性。活気にあふれた新宿という街がもっともよく似合う、歌舞伎町の元ナンバーワンホスト。
 元ホストのくせに、品よく落ち着いたダークグレーのスーツに黒のシルクタイとステンカラーコートで決めた今日の出で立ちは、普段のチャラチャラした身なりの軽薄さとは真逆の印象で、清潔感ある真面目な好青年にしか見えないのだからタチが悪い。
 ……こうやってまともにしてたら素敵なんだし、あとは真剣に丁寧に受けこたえすれば(口の上手さは折り紙つきだもの)、美尊さんのお母さんだってすぐに認めてくれるでしょうに。あえて私がついて行く必要なんてあるのかな? ……それにしてもこのひと、見た目はほんとうに完璧(性格はだいぶ問題あるけど)……何を着ても様になって格好いい……あ、でも、あのだらしないスウェットとサンダルの部屋着だけはさすがにアレかな。……
 旺太郎に聞かれたら「おまえにだけは言われたくねえよ!」とキレられそうなことをつらつらと考えた。そんなことでも考えてどうにかごまかして、気をそらせた。止まらない胸の高鳴りから。
「俺の用事につきあわせてごめんな。疲れたろ? のども渇いたし、何か飲んでくか」
「う、うん……」
 いろいろ苦労していたところに、ふいに笑いかけられて、うまく言葉が出てこない。
「何だよ? へんな顔して」
「な、何も……」
 晴れた休日の午後、にぎわう繁華街、挑戦したおしゃれな服装(冬物の厚いコートを羽織っていても、どうにも下半身がスースーして心もとない)、ショッピングからのふたりきりでのお茶。──まさか、漫画やドラマでよく見た「典型的なデート」みたいだ、と思ったなんて、言えるわけがない。
 あわせられない目線を上へ逃すと、冬枯れの街路樹の枝のあいだから意外なほどに強い陽射しが降りそそいできた。まぶしさに目を細めた、その瞬間。
 すうっと、視界全体に靄がかかった。いきなり地面が沈んだ感覚がして、ひざから力が抜けた。
 あの『二月十四日の夜』以来、ずっと思いつめていた心労と寝不足によるものだろう。めまいに襲われ、脚がもつれてふらついたところを、肩をつかんでぐっとひき寄せられた。
「大丈夫か?」
 ひかれた力の強さ。寄せられた顔の近さ。もともと、ホストの職業柄かやたらと気安い距離感だった──はっきりいえば、なれなれしかった──旺太郎なのだが、ここ最近はそれがより顕著になっている。
 ……なんだか、まるで、彼氏みたい……って違う違う、保護者みたい。……
「靴ずれでもした? 宰子?」
 肩を抱かれじっと見つめられて、フラッシュバックしたのは──昨夜の記憶。
(──戻りたいのか? ──なら、今はいい。──)
「だっ、大丈夫! なな、何でもない!」
 大あわてでとび離れた宰子を、旺太郎は怪訝そうに首をかしげて見やった。
「ほんとか? なんか、いつも以上に顔色悪いぞ。ひょっとしてマジの貧血症なの?」
「そ、そ、そんなのじゃなくて……。ただ、最近……」
 最近、あまり食欲なくて夜もよく眠れなかったから。と、言いかけて、またあわてて口をつぐんだ。そんな理由を正直に明かしても、要らぬ後悔と自責を与えてしまうだけだ、と気がついた。
 美尊からプロポーズをされて、順調にゴールへと向かっている彼の人生のレールに、余計な障害物を置いてはならない。彼が前だけを見て進んで幸せになれるように、そして、美尊がやっと見つけられた“本当の愛”が成就するように、ただそれだけを願って尽くすと決めたのだから。
「……最近、運動不足だったから、かな?」
 とっさに思いついた弁解をつぶやく。聞いた旺太郎が、小さく吹きだした。
「運動するキャラじゃねえだろ。不足してない時なんてあんのか? ……まあ、どうでもいいけど、無理はするなよ。何かあったら、すぐ言えよ」
「わかった。言うように、する」
 生真面目にこたえた宰子を、笑った眼でながめると、
「絶対だぞ。おまえ、危なっかしいんだから。俺の知らないところで勝手に一人でしでかすのは……もうナシ、な」
 ぎゅっ、と。宰子の右手が旺太郎の左手ににぎられた。
「え?」
「ほら、行くぞ。いつまでもつっ立ってたら邪魔だろうが」
「……は、はいっ」
 旺太郎のまったく気負いのない、ごく自然な動作と態度は、「彼氏」というより「保護者」そのもの。まぎれもない「子供扱い」。
 とはいえ、宰子にとって想定外のこの展開は充分に刺激的で、甚だしく動揺した。彼女の手をひいて歩きだした彼のスピードがいつもよりゆっくりなのも、動揺に拍車をかけた。
 ええぇぇ~? てっ、手を繋いで歩くの? この街中で、こんなに堂々と!? ……で、でも元ホストなんだし、これくらいは誰にでもあたりまえにするよね? 別に特別なことなんかじゃないよね? それに今は美尊さんがいるんだから……意味なんて何もないってわかってるけど。そんなこと、もちろんわかってるけど。……
 わかっているなら、冷静に、平常心で。──そう何度も何度も念じながら、だけど繋いだままほどいてくれない左手の大きさとあたたかさのせいで、胸の高鳴りは止められそうになかった。


「──あっ! ペアリング忘れてた!」
 唇から離したコーヒーカップを、旺太郎は雑にソーサーに置いた。陶器がぶつかりあう高い音とどこか間のぬけた感じの大声は、静かなカフェの中によくひびいて、まわりの席にいた客と通りかかったウェイトレスがこちらへふり返った。
 テーブルをはさんで向かいに坐る宰子は、居心地のわるい注目を自身の手元のティーカップを見つめてやりすごすことにした。カップを満たすあざやかな淡褐色の紅茶のすばらしい色と香りだけに集中して、気をまぎらわせようとつとめた。
 数秒後、注目がそれてから、
「ペアリング?」
 と、訊くと、
「婚約指輪の代わりに渡すんだよ。プロポーズされたっつっても、言葉だけじゃいつ美尊さんが心変わりするかわかんねえし、形にしとかないとな。既成事実ってやつね」
 と、旺太郎はこたえて、まだ何もはめていない左薬指をひけらかしてニンマリとした。百億円の資産と世界的な大企業のトップを射止めたのはほぼ確定、との有頂天をいっさい隠そうともしない得意顔に、宰子は心中で苦笑いした。
 彼の貪欲な上昇志向は出逢った頃から微塵も変わらないが、しかし──並樹美尊を『百億』ではなく『美尊さん』と呼ぶ傾向が見られはじめたのは、大きな進展には違いない。
(──結婚を前提に、私とつきあってください)
(──ありがとう。ただ、僕の父親が捕まったのは知ってるよね?)
(──ふたりで乗り越えていこう。旺太郎と一緒なら、どんなことでも乗り越えられる)
 美尊が示したまっすぐにひたむきな愛情が、旺太郎の意識をどこか変えつつあるのは間違いなかった。彼もいずれ必ず美尊を『並樹グループの後継者』というだけのモノではなく、『幸せを分かちあう相手』という大切な女性として愛せるだろう。そう確信できた。
 胸を占めるのが安堵なのは事実。半面、奥底にもうひとつの感情が存在するのもまた事実。……自分も、いずれ必ずこの感情を忘れられるだろうか?
「えーと……あの店でいいか。わるいな、宰子、あともう一軒だけ寄らせて。──あ、そうだ、おまえも欲しいのがあったら一つだけなら買ってやるよ。食事につきあわせる礼だ。けど、あんま高いの選ぶなよ」
 はずんだ口調も。楽しそうな笑顔も。なんら屈託のない旺太郎の姿を見るのが、今の彼女には嬉しくて、そして辛い。
「……いい。お礼なんて」
「遠慮すんな。長谷部を落とすなら、アクセサリーの一つでもつけて男ウケをよくしとけ」
「まだ言ってる。し、しつこい」
「俺だけ幸せになるわけにはいかないだろ。宰子も幸せにしてやらなきゃ。そういう“契約”なんだから」
 ことさらあっさりと言いきられて、やっぱりそうか、と落胆した。
 昨夜告げた“契約の破棄”を、旺太郎はうやむやにする気でいるようだ。露悪的な言動とは異なり、彼の内面はやさしく繊細で責任感も強いと宰子はもう知っているから、こうなりそうな予感はしていた。──けれど、それに甘えることはもはやできない。彼を“義務”から解放しなくてはいけない。
(──おまえは俺に何ができる? ──)
 この質問へ、再度、明確に回答をしなければならない。
 ふかく深呼吸をする。下げたくなる視線を必死に真正面にすえて、
「私は、もう……“契約”とは思ってない」
 声がふるえないように、涙がにじまないように……テーブルの下で、膝のスカートをにぎりしめる両こぶしに力がこもる。
「お礼とか、見返りとか、そういうの、本当にいらない。あなたが必要な時にはいつでも、何度でも、“キス”する」
「…………」
 嬉々としていた旺太郎が、スッと表情を消した。組んだ両腕をおもむろにテーブルにのせた。無言の双眸が氷のごとく透明な冷たさに変わっているのが、怒りなのかそれとも別の何かによるものか、宰子にはわからない。
 わからないながらも、宰子は懸命に提示をつづけた。彼女に出せる最良と信じる回答を。
(おまえは俺に何ができる?)
「言ったよね。役にたつ“道具”になる、って」
(一生、使い倒してやる)
「あなたが幸せになるまで、いくらでも使ってくれて、構わない」
(償え)
「私にできることは、それだけだから」
 ──好きも嫌いもない“キスの契約”。はじめから無理のある、ばかげた提案だったのだろう。嫌いも好きも経験してしまった宰子はなおさら、こんな“契約”を更新などできない。
 互いを気遣い、与えあう“パートナー”を演じつづけるよりも、単なる“道具”として利用し、利用されていく方が、なにも考えずにいられるだけよほど楽だ。彼を解放してあげたいのがもちろん最優先だが、自分を解放してもらいたいのも本心だった。
 ふたりのあいだをただよう重苦しい空気に耐えきれなくて、宰子はついに視線を下げた。ソーサーに置いたティースプーンを指先でもてあそぶ。ふたたび、手元のティーカップを見つめてやりすごそうとしたが、上質な紅茶の色と香りだけに集中するのは今度はむずかしかった。店内にゆったりとながれる控えめなジャズピアノさえ、いやに耳に障った。
 ……しばらくの沈黙後。
「それ、本気で言ってるのか?」
 向かいから静かに問いかけられた。
「“道具”として使われるため、そのためだけで俺についてくるって?」
 常よりひくいトーンの、抑揚のないしゃべり方。それは愉しむようで憤るようで、疑うようで嘆くようで、あきらめるようですがりつくようで、どの心情が正しいのか声音だけでは判然としない。宰子は目で見て正解を知る勇気がもてず、うつむいたまま小声でポツリと、
「……だめ?」
「だめ」
 間髪いれず放たれた短い、鋭い返事に、驚いて思わず顔をあげたところを、身をのりだした旺太郎にのぞきこまれた。
「──なんてね!」
 唇の端に浮かべたその微笑は、予想外に穏和なものだった。
「嘘。だめじゃないよ。大体、俺が偉そうにどうこう言えた義理でもねえし」
「そ、そんなこと……」
 言いよどむ宰子の肩をぽんとたたいて破顔して、椅子の背もたれに寄りかかる。
「宰子の気持ちはわかったよ。けど、それでどうするかは、こっちで決めるから。おまえの希望を聞いたのと、俺がそれを聞きいれるかは、話が別だ。何でもかんでも希望が叶うと思うなよ? とりあえず今は現状維持。いいな?」
「……はい」
「じゃあ、この話はおしまい! ──もうさぁ、とっとと飲んじゃえよ。はやくリング買いに行きたいんだよねー、俺」
「……はい」
 ややおどけた口ぶりはいつも通りに明るくて、軽い。宰子は拍子ぬけするとともに、安心もした。自分の申し出が、彼にとって明るく軽く受けいれられるものであるのなら──引け目も同情も抱かせずにすむのなら──それは何よりも喜ばしかった。
 だけど。ずるいな、とも思った。
 ……現状維持、なんて逃げるのは、ずるい。私はがんばって伝えたのに。……この恋をちゃんとあきらめたいから、あなたもはっきり声に出して“契約の破棄”を伝えて欲しい。……
 ティーカップを口に運ぶと、冷めかけの紅茶と一緒にそんな想いも飲みこんだ。
 残りすくないブラックコーヒーを一気にあおった旺太郎は、片手で頬杖ついて窓の外の往来をながめている。その横顔に、ほんの一瞬、ひどく寂しげな色をした翳がかすめたように宰子には見えたのだが、それは窓ガラスを通した燦たる白さの冬の陽光によるものだったかもしれない。──


 欲しかったのは、この言葉。
「“道具”だって、言ったよな。俺は、宰子を“道具”だとしか思ってない」
 なのに、スマホ越しに贈られたのは、この言葉。
〈“道具”だなんて、言うなよ。俺は、宰子を“道具”だなんて思ってない〉
 宰子からすれば期待はずれもいいところだった。そのせいで、こんなに、泣きたくなるほどの喜びと苦しくなるほどの幸せを感じてしまっているのだから。
 だから──。
 もうすこしだけ。あとわずかだけ。やさしく繊細で責任感も強い彼が果たしてくれる“義務”に、彼女は甘えることにした。自身の弱さにうんざりしたが、でもこれは間近にせまった『その日』のためには仕方がない、と割りきった。
『その日』、さようならだけは上手く言えなそうだから、せめて笑って手をふって別れるために、と。
Page Top
inserted by FC2 system