Nyx

「Nyx」(ニュクス)は夜を神格化した原初の女神の名前。「混沌」(カオス)の娘であり、多数の神々を産みだす。ニュクスの子には「死」「眠り」「夢」「苦悩」「欺瞞」「争い」「運命」等がいる。


 ……こういう服で、こういうところに来ちゃいけなかったのかな。
 床に敷きつめられた立派な絨毯を見つめて、宰子は思った。ふかふかしたぶ厚い絨毯は踏み心地がよく、それが余計に自身が場違いであることを意識させて、なんだか泣きそうになる。
 今日のために祖母が用意してくれた──女二人の、決して裕福とはいえないつつましい暮らしのなかで用意してくれた──新品のワンピースとポシェットを目にした朝は、とても嬉しかった。なのに、いざそれを身につけてクリスマスパーティーに参加している今は、とても恥ずかしくなっている。──この現実に、哀しさと申しわけなさで胸がいっぱいだった。
「宰子は船に弱かったんだねえ。それとも、食べ慣れない料理ばかりで胃がびっくりしちゃったかな」と心配していた祖母が待つパーティー会場へ、早く戻らなければならない。……船酔いを悪化させているのが、豪奢に着飾った会場の人々に自分が混ざることへの劣等感だと気づかせないために。
 トイレの出入り口近くの壁にもたれかかってめまいと吐き気をこらえていた宰子の耳に、遠くから甲高い話し声がとどいた。
「──『プロメテウス』って、人間に“特別な力”をくれた神様の名前なんだって! かっこいいよね!」
「それ、さっきも聞いたよ、ヒロユキくん」
「この『プロメテウス』だけじゃないよ。うちはほかにも大きい船をもってるんだ!」
「知ってる」
 声は二人分。徐々にはっきりと聞こえてくる。やがて、宰子と同年代らしき少年と少女が通路の角を曲がって姿をあらわした。
「でさ、さっき父さんがスピーチしてたでしょ。わが『オーシャン・ロング・ヴァレー』は並樹グループとテイケイして、最高のパートナーとしてともにハンエイしていきたい、って」
「うん」
「あれってさ、ぼくが大人になって社長を継いだらミコトをパートナーとしてむかえたい、って話なんだよ。だから、ミコトは将来、ぼくのお嫁さんになるんだよ」
「どうしてそうなるのよ……」
 ぴったりと七三分けになでつけた髪とフォーマルスーツの少年は身だしなみは大人顔負けながら、下がり気味の眉と垂れ気味の眼がのんびりしたイメージを与えて、小さな背丈もあいまって七五三じみた滑稽さがある。子犬みたいにはしゃぐ少年がミコトと呼んでまとわりついている相手に、宰子はあっけにとられた。
 人形が歩いている。──そうとしか見えない、どこもかしこも完璧な美少女だったからだ。
 星のきらめきを宿した、やや切れ長の勝ち気そうな瞳。繊細に仕上げた陶器を思わせる、額と鼻筋。鈴のに似た声でため息をつく、薔薇色の唇。大輪のダリアを模した飾りを胸元にあしらった真紅のドレスを身にまとい、しかもドレスの華麗さを超えて華麗きわまる美貌だった。
 なんてきれいな子……まるでおとぎ話のお姫様みたい……と圧倒されている宰子へ二人は近づいてきた。会話に夢中になっていて、ひっそりと通路の端に立ちすくんでいる宰子には気づいていないようだ。
「ヒロユキくんが勝手に言ってるだけじゃない。それに……わたし、結婚なんて無理」
「どうして? 並樹グループのコウケイシャはタカウジさんになってもらえばいい。それなら、ぼくとミコトが結婚しても問題ないし」
「それは……とにかく、無理!」
「ねえ、ぼく、まじめに言ってるんだよ!?」
 すぐそばを二人が通過しかけた時、ミコトの前に回りこもうと足を速めたヒロユキの肩が宰子とぶつかった。
「……!」
「……わっ! ごめんなさい!」
 衝撃によろめいた宰子をすばやく支えて、素直に謝る。紳士的で鷹揚な所作は、幼いながらもいかにも上流階級らしい。──が、彼女の全身(なんの装飾もない地味なワンピースと、子供っぽいデザインの赤いポシェット)を不躾に見あげ、見おろして、気の毒そうに細めた眼も、いかにも上流階級らしかった。
「きみ、ジゼンジギョウの招待枠の子? 一流シェフの料理なんて初めてでしょ。せっかくだし、お腹いっぱい食べていってね」
「…………」
 親切ぶってほがらかに笑った顔は無邪気そのものだったが、そこには「持てる者」が「持たざる者」を無自覚に刺す“悪意のない棘”がふくまれている。四年生の宰子はそれを正確に認識したわけではないが、うっすらとした不快感をおぼえて下唇を噛んだ。それに加えて、思い出した。
 クラスでたった一人の特別招待枠をじゃんけんで勝ちとっておきながら、その権利を強引に譲ってきた同級生の「佐藤さんは親がいなくてかわいそうだから」というせりふも。
「ヒロユキくん!」
 宰子の表情に気づいたミコトがヒロユキの腕をひいて、鋭くたしなめた。この少女は美しい容姿だけでなく、聡明な心の持ち主でもあるのだろう。
 宰子をやさしく見つめて、透きとおる花が咲いたような微笑を浮かべると、
「メリークリスマス」
 と、言った。あざやかな真紅のノースリーブドレスに映える雪白の肩に、長いストレートの黒髪がさらりと流れて、宰子は同性ながらどきっとした。
「あ……はい……メ、メリークリスマス、です……」
 思わずどもりながら頭をさげた宰子にミコトはもう一度やさしく微笑んで、ヒロユキとともに通りすぎた。
「ミコト! さっきの話、ちゃんと考えておいてよ! タカシおじさんにも言ってよ!」
「パパ、いそがしいのよ。無理」
「ミコトぉ!」
 にぎやかなおしゃべりが、というより、一方的にわめく少年の声が、メインホールにつながる廊下の先へと消えていった。
 豪奢に着飾っていた、おそらく自分と同年代だろう二人。会場から逃げてきたここでもやはり劣等感に苛まれる。……憂うつは晴れそうもなく、船酔いもおさまりそうになかった。


 うなだれてその場に立ちつくしていた宰子の方へ、足音をたてて誰かが走ってきた。彼女が顔をあげたと同時に、目の前でその誰かが派手に転んだ。
「あっ! ……痛ぁー……」
 転んだ際に床に打ちつけたらしく、ひざを涙目でおさえながらうずくまったのは小柄な男の子。あどけない顔だちと華奢な手足は、宰子より二つか三つは年下だろう。すこし着古した感じのあるチェック柄のネルシャツ姿に親近感がわいた。
 宰子の足元に白いスニーカーの片方が転がっている。見れば、男の子の左足だけ靴下がのぞいていた。宰子はしゃがんでスニーカーを拾った。まだ真新しく、汚れもほとんどついていない。インソールに黒の油性ペンで大きく『光太』と書いてある。
「大丈夫?」
 声をかけてそれをさしだすと、『光太』と思しき男の子はぱっと笑顔になって受けとった。くっきり二重の丸い眼がかわいらしい。
「うん、大丈夫! ありがと!」
 小鳥がさえずるように高い、溌剌とした返事に、宰子もつられて笑顔になる。
「泣かないで、えらいね。強いね」
「お兄ちゃんにいつも『オトコはカンタンに泣くな』って言われてるもん!」
「へえ、そうなんだ」
 ついさっきまで半べそをかいていたくせに、うすい胸をそらせて格好つけてみせるのがますますかわいらしい。左足にスニーカーを丁寧にはき直すのを待ち、手をかして立たせてあげた時、
「──光太?」
 と呼ぶ声が聞こえた。
「あ、お兄ちゃん!」
 宰子の背後へ、光太が嬉しそうに笑いかけた。ふり返った宰子の視線の先、通路の曲がり角に、ひとりの少年が立っていた。
 ──あの子、きっと、食べきれないくらいたくさんもらえるんだろうな──
 まず最初に、そんな感想が浮かんだ。何についてかといえば、その少年の桁はずれに端整な顔への感想だ。
 四年生の女子ともなると必然、興味のタネがませてくる。宰子のクラスも例外ではなく、休み時間のもっぱらの話題は「誰は誰を好き」だとか「何組の誰がかっこいい」だとか。冬休みに入る前からもう来年のバレンタインデーの作戦を練りはじめた友達も、数人いた。ただし、そういう感情がまだぴんとこない宰子は、表面上は神妙に恋愛相談にのるものの、内心では「男子は毎年チョコレートもらえていいなあ」などとぼんやり考えてばかりだった(「もらえる男子よりもらえない男子の方がずっと多い」という実情にも疎いほど、そういう感情がまだぴんとこない宰子である)。
 ──で。彼を見て、「わたしのクラスの、ううん、わたしの学年の、もしかしたら、わたしの小学校の誰よりも多くチョコレートもらうんだろうな。いいな、うらやましいな」と思った。それほどに際立った美少年だった。
 つかつかと歩いてきた美少年が宰子と光太の前で立ち止まった。きめの細かい色白の肌。あまりにも長い睫毛。形よく高く通った鼻梁。頬から顎にかけての優美な曲線。それに、何より、──
 天井の照明をうけてまぶしくかがやく、ガラス玉みたいな両眼。透明に澄んで、しかも吸いこまれそうな黒い深淵をたたえたその両眼が何よりも鮮麗で印象ぶかい。神秘的に中性的な容貌に近寄られ、緊張して鼓動がはやくなった。
 なんてきれいな子……まさか芸能人だったりして……とまた圧倒されている宰子を無視して、光太の兄は弟に話しかけた。
「何してるんだよ」
 歳は彼女と同じくらいだろうか。高い身長の半分以上は脚かと見える、スラリとした細身の体型。スタイルまで申し分ない。……しかし、着ている青いフリースジャケットは、弟と同様にすこし色あせていた。
「靴がぬげて、転んじゃった」
「大丈夫か? ……だから、いつもの靴はいて来いって言ったのに。それ、サイズが大きすぎて危ないって母ちゃんも心配してただろ」
「だって、新しいの、はきたかったんだもん」
「ったく、もう……」
 しょうがないなあ、と苦笑した光太の兄の印象ぶかい両眼が、ふと、宰子にとまった。自分の弟と手をつないでいる見知らぬ存在にやっと関心をもったようすで、光太に問いかける。
「……誰?」
「このお姉ちゃんが、靴、ひろってくれたの!」
「そっか」
 光太の頭をなでると、宰子へ向きなおってかるく会釈をした。それから、穏やかな表情とやさしい声で、ひと言。
「ありがとう」
 ──カチッ、と。どこかで時計の針音が鳴った。
 視界に一瞬、火花がはじけたような、生まれて初めてのふしぎな感覚。突然、胸の奥をぎゅうっとつかまれたみたいに息が苦しくなる。手も痺れてふるえてくる。どういたしまして、とこたえようとして、けれどなぜか唇をうまく動かせず、宰子はただ無言でうつむくことしかできなかった。
「けど、光太、こんなところでうろうろしてたら見つかっちゃうぞ。──あ、そうだ。向こうにでっかいクリスマスツリーがあったんだ。見に行く?」
「うん! 見たい!」
 床に敷きつめられた立派な絨毯をひたすら凝視していた宰子の耳に、「見つかっちゃう」という謎の言葉と元気いっぱいの返答を残して、兄弟は廊下の先へと走っていった。
 二人の気配と足音が消えてから、ようやくほっと息をついた。そして、ちょっとあきれた。……ミコトさんといい、光太くんのお兄さんといい、意外と世の中にはものすごくきれいな顔をした子っていっぱいいるのかしら?
「誰を好き」には、まだぴんとこない。でも「誰がかっこいい」には、今、出逢えた。宰子は、「冬休み明けには、もうすこし真剣に友達の恋愛相談にのってあげられるかも」などとぼんやり考えた。
 くらくらと世界がまわり、ふわふわと身体がはずむ気分は、いつからか船酔いの気持ち悪さではなくなっていた。
 廊下のつきあたりには、クリスマスパーティーの会場であるメインホールがある。そこで祖母が待っている。──早く戻ってあげなくちゃ。
 うなずいて、宰子は歩きはじめた。ヒロユキとミコトが、そして光太とその兄が去った場所に向かって、われ知らずあとを追うように。


 この夜、十二月二十四日。クリスマスイヴ。
 ホテル王の異名をもつ国内屈指の財閥企業「並樹グループ」主催のクリスマス慈善パーティーが、宴もたけなわとなりつつある大型クルーズ船『プロメテウス』。この船名は、翌日、朝刊各紙の一面トップを飾る。
 近年まれに見る惨事となった海難事故の舞台として。──
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