Alraune

「Alraune」(アルラウネ)は伝説上の人型植物の名前。媚薬の材料とされ、引き抜こうとすると聞く者を狂わせる声をあげる。手入れが難しいが、丁寧に扱えば秘密を囁いて持ち主に富(幸福)をもたらす。


 幸せになって、とおばあちゃんは言った。幸せになれる、とこのひとは言った。
 ……おばあちゃんの遺言をまもるなら、つまり……私はこのひとと……。


「“キス”してやろうか?」
 すでに九回もキスした唇からそう誘われて、考えこんでいた宰子は両目をぱちくりとさせた。あわててエイトの唇(今日はいつもに増して官能的に見える)から意識をはずす。頭のなかを読まれて言い当てられてしまった気がして、ひどく恥ずかしくなった。
「あっ……だ、大丈夫、です……」
 小声でごにょごにょと拒否して自宅の玄関ドアを閉めようとしたら、玄関先で格好つけて色目を使っていたエイトが気色ばんだ。
「どうして!?」
 閉まりかけた扉をこじ開けると、歓迎されてもいないのに室内へあがりこんできた。訪問を迷惑がっても鍵はかけない宰子も大概あまいが、躊躇も遠慮もなく堂々と侵入するエイトも相当ずうずうしい。
 一月二十七日の午後。つい先ほどまでは、祖母の遺品整理をしながら哀惜と寂寞の想いに沈んでいた静かな自宅に、憤然としたエイトの声がひびく。
「お祖母さんに逢いたいだろ!?」
 強い語気に、凪いでいた宰子の心にも波がたった。
 ……「どうして」? 「逢いたいだろ」? 五日前におばあちゃんが亡くなったと聞いていながら、どこまで無神経なの! 人の死を何だと思っているの! やっと……やっと気持ちの整理がついたのに……また“戻る”なんて……!
 瞼に浮かぶ、穏やかにやさしく微笑みかけてくれる祖母の姿。彼に問われるまでもなく、ゆるされるならば“何度だって”逢いたい。けれど、唯一の肉親を喪う哀しさと寂しさは身をひき裂かれるにもひとしい痛みで、“三度も”味わうのは耐えられそうにない。……
 宰子はこみあげてあふれそうになる涙をこらえて、ひと言だけしぼり出した。
「……別れるの、辛い」
 悲痛なつぶやきとうつむいた姿でいくらエイトでも私の心情を慮ってくれるだろう、と期待した。
 だが、宰子の見込み違いだった。
「“戻って”もらわなきゃ俺がこまるんだよ! どういうわけかこっちは死期が早まって、しかも百億の態度が百八十度変わった!」
 最愛の祖母を亡くしたばかりの孫への気遣いなど、彼には一切なかった。かえって切迫した焦りを浮かべて詰めよってくる。口にするのは並樹グループの話題だけ、頭にあるのはお金に対しての欲だけね……とげんなりした彼女の肩が、欲の塊の両手に抱かれた。
「その原因をつきとめて、もとに戻す!」
 宰子はエイトの両手をふりはらうと、今度ははっきりと拒否した。
「い、今は、無理!」
 逃げようとしたところをふたたび肩をつかまれて、強引に向きあわされた。そのわずか数瞬のあいだに目の前二十センチまで絶世の美貌がせまっていて、彼女の心拍数がはねあがった。
「でもこれは、“契約”だから」
 ──低めの落ち着いたささやきは、耳をくすぐる甘さ。ひたと見つめてくる、ガラス玉よりも透明に澄む双眸。いつもに増して官能的な唇が近づいてきて、宰子は理性も溶かす熱にうかされて──九回も体験したから感触を知っているのに──うっとりと眼をとじた。
 口づけがおとされようとした──瞬間。
(“戻って”もらわなきゃ俺がこまるんだよ!)
 眼を見ひらいた。顔が綺麗なだけの自分勝手で傲慢で思いやりのないクズのせりふのおかげで、われに返った。……私の方こそ“戻され”ちゃったらこまる!
「……やめて! やめないと、大声、出す!」
 さけんで、つきとばした。が、エイトはつきとばされる前にすばやく身体を離した。恨めしそうに宰子をにらむと、ライダースジャケットのポケットに手をつっこんでふてくされる。
「何だよ、ケチ! もったいぶんなよ。減るもんでもねえのにさぁ」
 減る! 私の乙女心がすり減る!
 胸中で断固たる否定をして宰子もにらみ返す。不毛な対峙を十五秒間つづけたのち、エイトは半べそみたいな顔つきになって、
「頼む! 宰子ちゃん、いや、宰子さま! 百億がかかってんだよ!」
 ついに宰子を拝みだした。放っておいたら土下座もしそうな勢いだ。この短時間で脅迫、色仕掛け、泣き落とし、と手をかえ品をかえては“キス”をねだりまくるエイトに宰子はあきれかえった。あのお嬢様のためなら、このひと、ここまで必死になるんだ。……
 彼が惚れたのは並樹美尊ではない。彼が夢中なのは並樹グループの資産。それはわかっているのに、なぜか、彼女の胸が少しざらつく。胸の奥のどこかがひりつく。
 ──エイトと出逢って、宰子の日常は変わった。彼女の、静かで平穏で退屈で孤独な無色の世界に土足で上がりこんだ彼は、あっという間に色を塗りたくった。鮮やかさとまぶしさとどぎつさがごちゃ混ぜになった色を、次々と。たちまち塗りかえられてしまった世界は居心地がわるいようで意外とそうでもなく、刺激の強すぎる現在より平和だった過去に戻りたいとも言いきれなくて、最近の彼女は自らの不可解な心をもてあましていた。──この日常は望んで与えられたものではないけど。クズのホストにふり回されて利用されてるだけかもしれないけど。それでも、今の私は、独りきりだったあの頃よりもたくさんの感情を思い出せている。怒ったり、とまどったり、悩んだり、あきれたり、──笑ったり。
 もしかして、これが“キスの契約”の報酬だとしたら……。
(宰子、幸せになってね)
(俺達は幸せになれるんだよ)
 同じ未来を彼女に求める、ふたりの声。──彼女は、その求めに応じようとは思っていない。応じるべきではないと思っている。自分は幸せになってはいけない人間だと信じている。
 だけど。
(宰子、幸せになってね)
(俺達は幸せになれるんだよ)
 同じやさしさで耳に鳴る、ふたつの願い。──幸せを願ってくれるひとがいる事実、それは彼女の決意を揺るがせる。ずっとあきらめてきた“夢”を“契約”というかたちで得たくなる。そんな矛盾を抱えながら過ごす日々は、思いのほかせつなくて苦しかった。
 ──この矛盾を手放したい。だから彼には早く並樹グループのお嬢様と結ばれて、私を解放して欲しい。なのに、どうして、並樹美尊さんを追いかける彼を見ていると落ち着かない気持ちになるんだろう? ──
 宰子の複雑な想いを知るよしもないエイトは懲りずに、
「キスさせて。頼むから」
「嫌」
「どうしても?」
「どうしても、嫌」
「“契約”したのに?」
「け、“契約”であって、“義務”じゃないでしょ」
「そりゃそうだけど……」
 しばらく苦虫を噛みつぶしたようだったエイトが、スッと真顔になった。不穏な気配を感じて宰子が身をひこうとすると、驚きの速さで左手をとられた。
 エイトは自身の右手と宰子の左手をお互いの指をからませながら握って(俗にいう『恋人つなぎ』)、真顔のまま口をひらいた。
「あのな。今まではごまかしてたけど、この際、正直に言うぞ。“契約”だけでキスしろ、ってんじゃない。俺は……」
 ここで深呼吸してから、一気にひと息で、
「俺は宰子をアイシテルカラキスシタインダ」
「どうして急に片言」
 目をあわせようともせずやたらと平たんな発音で告白されて、腹がたった。
「心にもないこと、い、言わないで」
「ほんとだって。嘘じゃない」
「目が泳いでる」
「気のせいだよ。俺を信じてよ。──だからさ、なあ、お願い!」
 あきらかにタイムリープ目当てのやっつけ芝居でヘラヘラと催促できる神経をうたがう。壊滅的なデリカシーのなさである。
 ──ただし、彼がこうして雑に無遠慮に、素の性格をオープンにして接する女性は私だけだ、と宰子は知っている。ほかの女性にはナンバーワンホストらしい愛想と好意をふりまくのに、私にだけは『女』としての魅力を一ミリも感じてないから子供扱いをしてくるんだ、と理解している。知っているから、理解しているから、なおさら対応の落差が腹だたしい。……何よ、ばかにして! 私だってその気になれば……!
「じゃあ、正直に言う。……わ、私も、あなたを愛してる」
 そう口ばしったのは、不愉快とプライドが混ざって生まれた反抗心のせいだった。
「…………は?」
 エイトは数秒、ぽかんとしていたが、
「またまたぁ~。何それ? やり返したつもり? 似合わないからやめろよ」
 空いている左手をひらひらとふって、鼻であしらわれた。予想通りというか、予想以上の冷淡ぶりで、基本おとなしい性格ながらやや強情なところもある宰子は反抗心をさらに燃えあがらせた。……こうなったら、意地でも私を『女』と認めさせてみせる!
「似合わなくても、いい。だって……ほんとうの気持ち、だし」
 まっすぐ見つめながら伝えると、余裕ぶっていたエイトから笑みが消えた。鼓動が耳鳴りのようにうるさくなって、呼吸がうまくできなくなって、宰子はなんだか引くに引けなくなってきた。
「“契約”だけじゃない。『あなた』だから、キスする」
「え……」
「して。早く」
「い、いいのかよ?」
「欲しいんでしょ?」
「お、おう……」
 緊張しているわりには(緊張しているからこそか)スラスラとよどみなく言葉を発している自分に驚いたし、普段の饒舌とはうってかわってしどろもどろになった相手にも驚いた。
 ──会話はみじかく、それっきり。
 ──交わる視線はそらさないのか、そらせないのか、わからない。
 ──『恋人つなぎ』のままの左手は火傷しそうなくらいに熱く感じるけど、「演技」の信ぴょう性を高めるために我慢する。
 ──心臓のドキドキが止まらなくて息苦しいのは、しょうがない。この男が中身はクズでも顔だけは綺麗すぎるからこれはもう、しょうがない。
 内心に渦まく動揺やら葛藤やら陶酔やらをおもてに出さないように一所懸命な宰子。ふと気づくと、エイトのまなざしが異様な真剣さをおびていた。
 ……まずい……もしかして、ヘンなスイッチを押しちゃったのかも……と後悔してもいまさら、引くに引けない。もはや、なるようにしかならない。
 どちらからともなく惹き寄せられた唇と唇が重なりあおうとして──
「……ごめん! さっきのは冗談!」
 場違いにお気楽な、能天気なエイトの声で拍子ぬけした。
「俺に“愛”なんて、あるわけねえじゃん! おまえだって……そうだろ?」
 あっけらかんと、でも、どこかぎこちなく笑いながら探りをいれられて、ちょっとがっかりした。これでもまだ、私が『女』だとわかってもらえないんだ……えっと、こういう時、『大人の女性』はどうするんだっけ? ……
 宰子は、デリバリーの配達先でたびたび見かけた高級クラブのキャバ嬢さんやホストクラブの太客さんの仕草と口調をまねて、トドメの挑発をした。
「“契約”って言いわけがないと、キスもできないの? いくじなし」
「なっ……」
 エイトが絶句した。
 宰子には、歌舞伎町ナンバーワンホストを手玉にとっている自覚はない。自覚する余裕もないし冷静でもない。ただ、同い年のくせにいつも上から目線で彼女をからかってばかりの彼が今はガラにもなく怖気づいて赤面までしているのがいい気味で、それに──ほんのちょっぴり「かわいい」と思った。
 ──このクズに主導権を握られっぱなしじゃ、ダメ。“道具”じゃなくて“パートナー”だっていうのなら、たまには抵抗もしてみせて、言いなりにはならないってわからせないと。──
「冗談よ。私だって、“契約”だからキスしてあげるだけ。カン違いしないで」
 一世一代の蠱惑的かつ煽情的な媚笑をつくりあげた彼女は、うろたえてますます赤くなった彼の頬に空いている右手をそえると、精いっぱい背伸びして口づけをおくった。


 ──いつものように、時間を“戻った”直後は強いめまいがした。
 この一瞬の、視界が上下左右にかき回される衝撃とタイムリープの発作の余韻とがあわさった奇妙な感覚には、いまだに慣れない。まばたきするに、かすかに残っていた手の痺れと窒息感もめまいとともに消え去ってくれて、宰子はほっと息をついた。
 目の前の介護用ベッドには、半身起こしてこちらを見まもっている祖母がいた。以前よりひと回りも小さくなったと見えるほど痩せ細って、それでも穏やかにやさしく微笑みかけてくれている。ベッドサイドの椅子に坐る宰子もつられて、泣きそうな微笑を返した。
 そして判断した。今日は“三度目”の一月二十日。祖母のパジャマの柄とカーディガンの色から、間違いない。ここは特別養護老人ホーム『はなえみの里』の一〇四号室。間仕切りの黄色いカーテンが風にふわりと揺れる。
 生きているおばあちゃん。また逢えてすごく嬉しい。……二日後にお別れしなくちゃいけないのは本当に辛いけれど。
「さっきいた男のひとは、誰なの?」
 問いかけられて、しばし考えこむ。誰、って……ただの知り合いよ、おばあちゃん。十回キスしただけの、ただの知り合い。……
 ──(して。早く)──(欲しいんでしょ?)──(いくじなし)──
「ただの知り合い」に十回目のキスをした際の光景を鮮明に思い出した。思い出すと同時に、椅子を蹴倒す勢いで立ちあがった。私……どうしちゃったんだろ!? あんなこと、するんじゃなかった! ヘンな誤解されてたらどうしよう!?
 顔も身体も火がついたような熱さで、祖母の方をまともに見られない。恥ずかしさでいてもたってもいられなくなった宰子は、とにかく一刻も早く「誤解」をとくために全速力で一〇四号室をとび出した。
「!」
「!」
 とび出した先の廊下で、出会いがしらにひとりの男性とぶつかりそうになる。長身痩躯のその男性の胸にとびこむかたちになってしまい、宰子はあわてて謝ろうとした。
「あ! す、すみませ……」
 ふりあおぐとそこにあったのは、びっくりして固まっているエイトの美貌。二十センチの近さでお互いの視線が交わった。
(俺は宰子を愛してる)
(私もあなたを愛してる)
 脳裡によみがえった、告白の応酬。おかげで、ただでさえ熱くなっていた彼女の顔と身体はそれこそ沸騰レベルに達してしまって、タイムリープ後どころじゃない強さのめまいに襲われた。
 すると──。
 ぼう然としていたエイトが、みるみる真っ赤になった。それこそ沸騰レベルに熱そう、と心配させるほどに。反射的に宰子の肩を支えていた両手をぱっと離すと、なぜかジリジリあとずさる。仕立てのいいスーツとコートをばっちり着こなした格好よさも台無しにする情けない表情で、
「……け、け、“契約”だから!!」
 狼狽しまくってどもりまくった声なのに、せりふだけは上から目線の空いばりをくずさない。宰子は思わず吹きだしそうになった。……どうやら「誤解」をとく必要はなさそう。「興味本位」で「試して」みた『女』としての誘惑は、やっぱり彼には効かなかったみたい。
 そう早合点した宰子は、さっきの自分と負けずおとらずの全速力で長い廊下を逃げ出したエイトの背中へ、半分笑いながら毒づいた。
「……クズ!!」


 “幸せ”と見間違えそうな色をしたこの日々は、いつか必ず覚める“夢”。そう遠くない未来に消え失せる。何もかも。
 ──それなら。今だけは。
(宰子、幸せになってね)
(俺達は幸せになれるんだよ)
 ──ふたりから言われたことを検討してみても、いいのかもしれない。
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