Hypnos

「Hypnos」(ヒュプノス)は「眠り」を司る神の名前。「夜」を母に、「死」を兄弟に持つ。地の底で夢の神に囲まれながら眠り続ける、心優しい美青年。


一 ────


 ──夢を見たんだ。今から話すことは、俺が見た夢の話。……夢のなかで君の秘密に気づいた俺は、成り上がるために君と“キスの契約”を交わした。
 ──ちょっと待ってください。ありえない。私が“キスの契約”なんて、するわけが……。
 ──俺がどんな夢を見ようが勝手だろ。


二 ────


 一月十二日。ちなみに“二度目”。
 クソ寒い真冬の新宿の、人影もまばらな寂れた住宅街の一劃に建つ古ぼけたマンション。かなりの年季が入っているだろう重厚な外壁は、一階部分のほとんどに謎の葉と蔓が隙間もなくワサワサと這いまわっている。
 三分の一ほどの面積をびっしりと緑に覆われたその建物が放つオーラは、周囲のまともな外観のビルや戸建てとはあきらかに異質で、まるで都会のど真ん中(裏通りとはいえ、ここはまぎれもなく東京。それも二十三区)に立体化した童話の挿絵のようだった。もしくは、強烈な心霊スポット。
 俺は鬱蒼としたマンションをやや離れた路上からながめながら、あの不気味でやべえキス女の住み家にふさわしい『魔女の館』だな、と納得した。
 “最初の”一月十八日に、佐藤宰子と“キス”して“死んだ”場所に立ちながら。
(あなた、死にたいの? 私とキスすると、死ぬ。──する? 恐ろしくてできないでしょ?)
 あの時のあいつの挑戦的で小生意気で冷ややかな口調と、そのくせどこか臆病さをふくんで伏せた眼を思い出して、無性にいらいらしてきた。愉快とはいえない記憶だからあたりまえだが、怒りのほかに、よくわからない強い感情(もどかしさ、というのが近いだろうか)もわいてきたのがさらに俺をいらだたせた。
「成り上がるためなら何だってしてやる」って宣言した。だから宣言通りに、こんな真っ昼間から、このムカつく思い出の地で、あのいまいましい女を待ちつづけてる俺。
 ──見上げれば、曇りきった心とは裏腹に雲ひとつなくすっきりと晴れわたった、青い冬空。
 大きなため息をついてから左手首の腕時計を確認する。午前十一時半。佐藤宰子の今週分のシフトは、昨夜、ヒロミから聞きだして把握済みだ。今日は十二時からの遅番だから、引き継ぎの時間も考えるとそろそろ出てくるに違いない。
 用意してきたプレゼントを両手に抱えなおした。紅い薔薇の花束。その数、四十本。いつもより奮発して数も質もワンランク上げた結果、想定を超える出費をこうむった。ちくしょう、この時期の薔薇は高くつくんだぞ……けど、あいつをふり向かせるにはプレゼントの見ばえも重要だしなぁ……未練がましさを再度ため息と一緒に吐きだすと、俺は気持ちを切りかえた。金より大事な“神の力”だ、我慢、我慢。
 ──と。見やった先、マンションのエントランス扉(瀟洒なつくりの、今時めずらしく手動タイプの扉)をあけて『魔女』が姿をあらわした。おなじみの、全身黒ずくめのダサい服装と陰気な無表情で。
 俺はホスト稼業で鍛えぬいた「女に最大級の好感を抱かせる笑顔(要するに営業スマイル)」を張りつかせて、佐藤宰子へと歩み寄った。靴音を聞いて彼女がこっちを向いた。目があった途端、警戒心丸出しでにらんでくる。……歌舞伎町じゃ名の知れた「エイト」にずいぶんな態度じゃねえか。くそっ、見てろよ!
 失礼千万な宰子の前で腰をおとすと、スマートに花束をさし出してやった。
「この間はどうも。おかげさまで彼女を護れたよ」
 豪華な深紅の薔薇──優雅なルックスと甘い声音──洗練された紳士的なふるまい──どれをとっても、この女がこれまでかけられたことのないロマンチックなアプローチだろう。こういうのは大仰で芝居がかっていればいるほど、非現実的であればあるほど、夢見がちな女心をときめかせるインパクトがある(ただしイケメンに限る)。さあ、あとは、こいつが眼をキラキラさせて頬を染めるのを待つだけだ。ちょろいもんだぜ。
 ……ところが、相手を「恋愛経験の少ない陰キャ」と見くびって、手垢のつきまくったベタな作戦をとった俺があまかった。宰子はときめきどころか何の刺激も感じていない冷眼と仏頂面のまま、片手に持っていた新聞をぱっとひろげてみせた。
『並樹グループ社長令嬢傷害事件』『手首に軽い怪我』『妹を暴漢から救う』──。目に飛びこんできた一面記事の見出しで、それが今日の朝刊だと気づいた。並んで掲載された並樹兄妹の顔写真はどっちもすかした微笑みを浮かべていたが、男の方がひときわ不快だった。
 昨日の、憎しみと蔑みに冷たく固まって俺を見くだしていた尊氏の面が脳裡によみがえって、「営業スマイル」を維持できなくなる。眉間に皺が寄ったのが自分でもわかった。
「て、手柄をとられて、もう一度やり直すつもりでしょ」
 あきれをこめた声でぼそぼそと、宰子が利いた風な口をきく。眉間の皺がさらに深くなりかけたが、なんとかごまかして余裕の笑みを作ることができた。
「そんなこと思うわけないだろう」
 すると。コートのポケットから一枚のマスクをとり出して、宰子が無言でニタリとした。
 おまえ……女の子なのにそんな薄気味悪い笑い方するんじゃねえよ……カエルを魅入るヘビみたいなその目つきもやめろよ……。あいかわらずクオリティの高い『魔女』っぷりにドン引きしている俺の目の前で、彼女はニヤニヤしたまま、わざわざ見せつけるようにゆっくりとマスクを装着した。それから、勝ち誇ったキラキラひかる眼で俺を一瞥。……完全にナメくさってやがる! こンのクソアマ!
 宰子は豪華な紅い薔薇の花束にまったく関心をしめすことなく、閑静な住宅街をガニ股気味の大股で、肩で風をきって歩いていった。
 出来のわるいロボットみたいな変な動きで遠ざかる小柄な黒い後ろ姿を、俺は北風にあおられながらにらみつつ、心に誓った。そして、宣言した。
「絶対に奪ってやる……その唇!」


 一月十三日。またもや“二度目”。
 大きなため息をついてから左手首の腕時計を確認する。午後一時三十七分。……あいつ、いつまでああやってウロウロしてる気だよ。いいかげんにしろっつーの……。
 思いつめた顔で、一軒のケーキ屋の店先をもう十分ちかく行ったり来たりをくり返している宰子の横を、道行く連中が距離をとって通過していく。どいつもこいつも一様に、不審者を見る目と表情で足早に通りすぎる。中には、ヒソヒソと耳打ちしながら聞こえよがしな笑い声をたてていったカップルもいた。
 うん、気持ちはよくわかる。すっげえ挙動不審だもんな。……けど、そんなあからさまに避けられたりバカにされたら、あいつだってさすがに傷つくだろうが。
 通行人どもに共感と反感をおぼえた。共感は当然だ。だが──反感がわからない。わからないが、わかりたいとも思わない。
 俺は胸のうちのかすかな波を、その複雑な感情の揺らぎを無視すると、ケーキ屋から車道をはさんだ向かいの電柱の陰で宰子の観察をつづけた。
 ──今日は昼で仕事あがりの宰子を『ナイトデリバリーサービス』の前で出待ちし始めたのが、午前十一時五十分。人気のカフェのランチに誘ってやる予定だった。貴重なオフをキス女とのデートなんかに費やすのも、“神の力”あればこそ。
 それなのに、あの女、ようやく店を出てきたのは時計の針が午後一時を回ってから。しかもまかないを食ってきたらしい。……こっちは一時間以上も飲まず食わず、刺された傷も痛ぇのに立ちっぱなしだぞ! ふざけんな!
 めちゃくちゃ頭にきたが、この程度で“神の力”を諦める気はもちろんない。幸い、こっちはオフだ。時間はまだまだある。ランチデートは白紙にして、新たな計画をたてなくては。すさんだ気分を落ちつかせ、身をかくして、次の手を考えながらターゲットの追跡を開始した。
 職場を出たらどうせまっすぐに帰宅するんだろうとの予想ははずれて、宰子は帰路をそれて大通りへ向かって進んでいく。……気のせいか、足どりがかるい。顔つきも穏やかな感じ。そういえば、ブラックかダークグレーの二着しか見たことのないあいつのコートが、今日は後者だ。まぁ、どっちも無駄にでかくて長くて野暮ったいのは同じなんだけど、それでも選択肢の中では明るめの色。……これって、機嫌がいいってことか?
 二日つづけて真っ青な快晴の下、冬のやわらかい陽光を浴びて、にぎやかな街中を小さい歩幅で楽しそうにてくてく歩く宰子は、服装がダサいだけのごく普通の女の子にしか見えなかった。──陰気なジト目でにらまない、不気味なうす笑いでせまらない、急に物陰からあらわれて追いかけない、いきなりキスして殺さない宰子って、なんか、意外と──。
 印象の変化に驚いていたら、大通りの中の一軒のケーキ屋を通りかかった宰子が突然、立ち止まった。立ち止まると同時にあたりをキョロキョロと見まわすもんだから、彼女の位置から車道をはさんで向かいの歩道にいた俺はあわてて、すぐそばの電柱の陰にかくれた。……あっぶね、バレるとこだった!
 それが約十分前のこと。──で、今にいたる。
 周囲に妙な警戒心をもたせてうろついている宰子の姿は、もっさりしたグレーのロングコートもあいまって、人里に迷いこんだ子熊を連想させる。あまりに深刻なその思案顔に、ばかばかしさを上まわって憐みがわいてきた。……どうせあれだろ、「頑張った自分へのご褒美」ってのを買うかどうかで悩んでるんだろ。それくらい俺がおごってやるから、もうさっさと中に入れよ……。
 宰子が深呼吸して大きくうなずき店へ飛びこむのを見とどけてから三十秒後、俺も後につづいた。
「いら……」
 自動ドアがひらいた瞬間に「いらっしゃいませ」と歓迎しかけた女性店員を、自分の唇に人差し指をあてることで制止する。出入り口の対面にガラスのショーケースを配置した、ありふれた内装の店だ。整然とケーキが並ぶショーケースの中央に宰子がしゃがんで、一心に中をのぞきこんでいた。真後ろに立った俺にはまったく気がついていない。
 唇から離した指を宰子の背中に、次いで俺の顔に向けて、ウインクをしてみせた。カウンター越しにキョトンとしていた店員だったが、すぐに『サプライズのタイミングをうかがう彼氏』と察してくれて、口元をほころばせて無言でうなずいてきた。察しのいい子で助かるよ。……バカップルのふりをするのはスゲー不本意だけどな。
 ケースの端から端を何度も見まわしている、やや癖っ毛気味の黒いおかっぱ頭。俺からすれば、ケースの中身は色が違うだけでどれも似たようなものにしか思えないのに、おかっぱ頭は飽きることなく左右にふっては吟味をかさねている。薔薇の花束には無関心だったのに……こいつ、色気より食い気か。だったら、これでどうだ!
 足音をしのばせて宰子に近づく。隣にしゃがみこむ。余裕たっぷりの大人の男の顔で、カウンターの店員へオーダー。
「すみません。これ全部ください」
 不意をうたれて真ん丸に見ひらかれた宰子の眼と、愉しげに「はい!」と応じた店員の笑った眼が、同時に俺に向けられた。──全部買い占めるのは多すぎる、食べきれないのにもったいない、なんてのは問題じゃない。必要なのは「迷って決められないなら、この場のすべてを君にあげる」、この特別感と満足感だ。昔の映画でもあっただろ、こういう体験をさせてやるのが女を落とす秘訣だって。
 今度こそキラキラするはず、と確信して見つめていた宰子の真ん丸の眼が変化した──見慣れた陰気なジト目に。
 不機嫌きわまる様子で彼女は立ちあがると、くるりと背を向け、黙って店を出ていった。……おかしい。こんなはずじゃ。つーか、俺、なんでここまで嫌われてんの?
「……全部キャンセルで」
「……はい」
 女性店員のすごく気まずそうな、でもちょっと失笑まじりの返事がいたたまれない。顔にはっきり「ご愁傷さまです。だけど次のチャンスもありますよ、頑張って!」と書かれちゃってるのにも傷つく。……察しがいいのも考えもんだな。
 どっと疲労がおしよせてきた。俺はショーケースにもたれかかって、天をあおいだ。
 …………あー、腹減った。


 一月十四日。もちろん“二度目”。
 ──午後四時で仕事を終えた帰りの道すがら、雑貨や洋服の店に立ち寄ってはのぞいていく宰子。店内には一歩も入らず外から窓越しにながめるだけ(しかもまあまあの凝視)の文字通り「ウインドウショッピング」に徹し、店員か客と目があおうもんならそそくさと退散する彼女は今日も安定の挙動不審だ。けど、そんな彼女をつかず離れずずっと尾行している俺も充分に不審者だ。
 歌舞伎町で指折りの一流ホストクラブ『ナルキッソス』のナンバーワンが、なんであんな冴えねえ女の尻を毎日追っかけてんだか……と、冷静に考えたら情けなさで死にたくなるからあまり考えないことにする。
 このどんよりとした灰色の夕空は俺の心情そのもの。だけど、プチうつ状態の俺とは対照的に、宰子は真冬の曇天の下でもどことなく浮かれた雰囲気に見えた。……明日はシフトなしのオフだからかな?
 繁華街をあちこち寄り道していた宰子の脚が、一軒のアパレルショップの前で止まった。夢みるようにまたたいた瞳が、ショップのショーウインドウの一点に留まった。──そしてしばらく動かなくなった。
 ……昨日も思ったけど、佐藤宰子はああ見えて実は、普通の女の子っぽい部分が結構ある。昨日の、いろんなケーキに目移りしてた姿とか。今の、流行りの服に見とれてる姿とか。不気味で陰気なキス女とは信じられない、ただの女の子が好きなものを前にうっとりしてる表情(俺には見せない表情)だよなぁ。……
 宰子の目線の先、店内の窓際には、しゃれたワンピースを着たトルソーが置かれていた。白地の全体に青い花を散らしたレトロ柄の、すっきりしたAラインワンピースは、清楚で上品かつ大人っぽさもある。──何だよ。いつも地味ぃーな暗ったい格好ばっかなのに、本当は女らしい趣味してんじゃん。着たいんだったら買ってやるよ? その細身デザインと膝丈スカートなら、厳重に秘匿してるおまえのスタイルもバッチリ判明するしな! いや、まあ……対象外の女であっても胸の大きさやら腰の細さやらは気にならないコトもないわけよ、男としては。
 そういうファッションならまともなデートを検討するにやぶさかじゃない、なんて考えながら真っ黒のロングコートの背後へ近寄った。ガラス窓に映りこんだ俺を見た宰子が、あわててふり返った。ついさっきまでかがやかせていた眼を吊りあげて、微笑んでいた唇をとがらせて、開口一番、
「し、しつこい!」
 ……こいつ、ほんっと、かわいくねえ! やっぱ地味で暗ったくて生意気でムカつくだけの、ただの憎たらしいキス女だ!
 すんでのところで舌打ちをおさえ、自分自身に言いきかせる。……旺太郎、ここが我慢のしどころだぞ、“神の力”を手に入れたいんだろ?
 敵視や反発をくらいながらこんなヤツのご機嫌とりをするのは、もううんざりだ。もういいかげん、落として終わりにしたい。遊びのかけひきをする気がない、というか、する知識も経験値も足りないこいつには色気も食い気もまわりくどくてかえって逆効果だとわかった以上、残る手段は──
 正攻法。これでいこう。
「だったら、何で俺にキスなんかした? ピンチの人に出くわしたら誰でもキスするのか? ──そうじゃないよなぁ」
 真剣な眼をすこし細めて、真正面から見つめる。視線をからめて逃さない。口元にただよわせたうすい笑みとあえて低めに出した静かな声で、とまどいを抱かせる。意識をほかにそらさせない。じわじわと、ゆっくり距離を詰めていって、目の前の『男』から『女』として狙われている不安と昂揚をあたえてやった。
 本気で披露してみせた落としのテクニックは案の定、宰子に効果てきめんだった。これまで彼女に見せなかった、夜の色濃い『ナンバーワンホスト・エイト』の姿にたじろいで、嫌悪感で凍りついていた両眼が揺れた。冷たい白さを保っていた頬が紅潮した。──ほら、単純。出し惜しみしないで、最初からこうやってシンプルに口説いてりゃ一発だったな。
 ショーウインドウに背中がつくまで追いつめられた宰子は、あきらかにドギマギした様子でうつむいた。逃げ腰になったその行く手のガラスに、すばやく右手をたたきつけてさえぎる。予想よりも大きい派手な音がして、彼女はビクッと身をすくませた。
 クールな微笑のまま、内心で「われながらパーフェクトに美しい壁ドン」と自画自賛しながら、罠にかかっておびえている獲物をのぞきこんだ。
「どういう男がタイプなんだよ。もしかして──俺?」
「…………」
 宰子は黙って、じっと俺を見つめ返しているだけだ。
 ──鼓膜にひびいて心臓まで共鳴する、あえぎにも似た息遣い──熱をおびてうるんだように揺れつづける、黒いふたつの瞳──やたら鮮やかな紅い色をした、艶めいてひかる半開きの唇──眼前の、それらひとつひとつに、なんだか頭がくらくらしてくる。身をきる寒風もまわりを行き交う雑踏も一瞬、感覚できなくなる。宰子をからかう自分の声が途中から、へんに遠くで出ている気がした。
 ふと。キスしちゃおうかな、と思った。
 ……さすがに、こんな街中で大勢の前で抵抗がないでもないが。ま、どうせ“キス”し終わったら“死んで”“戻る”んだから、どうでもいいか。誰に何を見られようが知ったこっちゃねえよな。さっさと“戻って”百億をモノにしなきゃ。……
 キスしたい、と思ったのは、当然“タイムリープ”がしたいから。目的はそれだけ。まさか、宰子に『女』としての魅力なんて感じてない。こいつにそんな欲望、感じるわけがない。一ミリだってありえない。──と、断定を強調しながら顔を寄せていった。
 鼻と鼻が、唇と唇が触れそうな近さまで寄せると、緊張に耐えきれなくなった宰子がきつく目をとじた。華奢な肩がわずかにふるえている。……ちょっと待て。そっちからしてくる時は遠慮ゼロで強引だったくせに、される側になったらそんなか弱い新鮮な反応するとか……反則だろ。
 ゲーム・クリア、とキスした──いや、キスしようとした、寸前。
 宰子の右腕が勢いよく上がった。ほそい人差し指が俺の鼻先をかすめて、ぎょっとした。
「!?」
 びしっと肩越しに後ろへ定まった指を追って、ふり向く。ふり向いた先には、道ばたに出した雑貨の露店があった。宰子が明確に指さしている、露店の台に陳列された一体の人形を見て──顎がはずれそうになった。おまえ……おまえ……この俺をさしおいて、タイプってまさか……
「……アレ!?」
 いくらなんでもアレはない! アレはひどすぎるだろ! よりによって「人形」と呼ぶのもためらわれる奇怪なシロモノを選びやがった宰子を怒鳴りつけようとして、気勢をそがれた。言葉も失った。
 約二十センチ下から彼女が昂然と俺を見上げていたから。──明るく、いたずらっぽく、子供じみた反抗をしてきたあどけない表情に、意表をつかれて思わず見とれたから。
 それはまるで。日陰に咲く花に太陽の光がとどいて、初めてその花の可憐さに気づいたような驚きだった。
「うぬぼれないで!」
 ぴしゃりと一蹴された。一蹴されてもまだ呆けたままの俺の横を宰子はしてやったり、と言わんばかりの得意顔ですり抜けると、スタスタと去っていった。……全っ然、落ちてねえし。
 逃がした獲物がいまだかつてない手ごわさだと知って、俄然やる気が出てきた。俺は夕闇せまる街に立ちつくして歯ぎしりしつつ、ふたたび心に誓った。
「上等だよ……ナンバーワンのプライドにかけて、次こそ絶対に落としてやる!」
 …………今日はとりあえず、タイプの男だとぬかしたアレをプレゼントに買って帰ろ。


 俺が“幸せ”を手に入れるまで、宰子をつかんで離さない。絶対に。
 あいつの“力”があれば──あいつと一緒なら──必ず人生を変えられる。


三 ────


 ──それから? それから、私達はどうなったんですか?
 ──それから、俺達は……俺は君がいなくなっても平気だと思ってたけど……やっぱり辛くて……。
 ──目を、覚ましたんですか?


 ──忘れてよ。今のは全部、“夢”の話だから。
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