Isis

「Isis」(イシス)は夫たる冥界の王・オシリスの玉座を守護する女神の名前。殺された夫を強大な魔力と献身的な働きで蘇らせる愛情の持ち主。死者を導き、死と再生を操る神でもある。


(生きてる方が辛いなんて言わないで。……辛いことがあったら、いつでも、する。あなたが幸せになるまで、何度でもキスする。私がいれば、過去を変えられる)
 ……おまえはそれでいいのかよ? 二人で幸せを手に入れる、って契約だったろ? なのに、それじゃ、おまえに何のメリットもないだろうが……。
(いい。……それが、私が生き残った理由だと思うから。私はそれを、自分の幸せにする)
 ……おまえ……そんなはっきり言いきるなって。そんなのは“幸せ”じゃない。おまえが生きる理由は、そうじゃなくて……。
(私……道具になる。あなたの役にたつ、道具になる)
 ……泣きそうな顔で、無理して笑うなよ。“道具”だなんて、言うなよ。そんなもんが欲しいなんて、俺がひと言でも言ったか? 俺が本当に欲しいのは……。
(……“戻る”んだよね?)
 …………。
(……も、“戻る”ん、でしょ?)
 ……こんな時でも空気の読めない女だな。……戻りたいのか? “キス”して、離ればなれになりたいのか?
(…………)
 ……だろ? なら、今はいい。……このままで、いい。……


「──プレゼントをお探しですか?」
 至近距離から唐突に話しかけられて、昨夜の「あの時」の記憶を反芻していた旺太郎の意識がひき戻された。宰子のやや不明瞭な沈んだ声とは真逆の、はじけるように溌剌とした声にはっとした。
「……え?」
「お客様、先ほどから悩んでいらっしゃって。……あ! もしかして、バレンタインデーのお返しをお選びですか?」
 いつから隣に立たれていたのか、まったく気づかなかった。にこやかに女性店員にたずねられて初めて、今日が二月十五日だったと思いだした。……お返しっつーか、そもそも俺、あいつからチョコもらってないんだけど。……まあ、チョコなんかよりよっぽど大事なもの、もらっちまったんだけど。
 右手に持ったままだった、淡いピンク色のワンピースがかかったハンガーをラックへと戻す。胸元とウエストにシフォン生地の大きなリボンがあしらわれたそのワンピースはなかなか可愛らしい。が、宰子のイメージとはちょっと違うな、と却下した。
「そうじゃないけど……。あ、でも、プレゼントってのは当たり。女の子に服でも贈ろうかと思ってね」
 ──いつものあの野暮ったい服装で並樹邸での食事に連れて行って、お高くとまったセレブ一家に(特に尊氏に)俺のパートナーをみくびられるのも癪だもんな。並樹家にお披露目するんならそれなりの格好させてやらないと。ま、あくまでも百億のママに俺を売りこんでもらうのが目的なんだし、そこまで着飾る必要はないけどさ。でも、こんな機会でもないと、あいつ、こういう女らしい服なんて着てくんねえよなぁ。この際だ、全身完璧に仕立ててやるか? 別に着てほしいとか見てみたいとかそういうんじゃなくて、宰子のイメージアップが俺の好感度にもかかわってくるからであって、だから別に宰子のイメチェンに興味なんて全然──
 いいわけじみたひとり言を肚のなかでつぶやきながら、とりとめなくハンガーをラックの左から右へ次々に流していると、店員がくすりと笑いをもらした。
「お客様のような方からこんなに真剣に悩んでもらえるなんて、彼女さんは幸せですね」
 ……いや、彼女でもないんだけど。
 旺太郎は即座に否定しようとしたが、ニコニコと愛想よく営業トークに徹している若い女性店員(齢は彼と同じくらいだろう。しかも結構美人)に突っかかるのも野暮だな、と思いなおした。あいまいな微笑を浮かべて、
「どうかな? そうだったらいいけどね」
「ええ! 絶対、幸せですよ!」
(──あなたが幸せになるまで、何度でもキスする──私はそれを、自分の幸せにする──)
 はっきり言いきったひくい声が鼓膜に、無理をした泣きそうな笑顔が瞼に、一瞬ながれた。手の動きが止まる。胸がかすかに痛む。
「……でも、どれがいいんだろう? こういうの選ぶの、慣れてなくてさ。難しいな」
 嘘である。慣れきっているし、難しくもなんともない。──実際は、昨夜の自分の行動と感情の説明がつかず納得もできず、着地点がまったく見えなくて空まわりをし始めた思考をもてあまして、面倒くさくなってきていた。さらに、そんな心理状態で「宰子へのプレゼント」をそこそこ熱心に探しているこの状況にも、一種の気恥ずかしさまでわいてきた。
 昨日のアレは、多分、気の迷い。ちょっとしたアクシデント。感謝とか同情とか後悔とかがたまたまあんな形で出ちゃっただけで、あいつがただの“ビジネスパートナー”なのは変わらない。……と結論を出して、旺太郎は強引に思考をうち切った。
 顔だけ店員へ向け、すこし細めた眼で見つめる。ついでに小首もかしげてみせる。
「選ぶの、手伝ってくれない? 君、渡す予定の子と齢が近そうだから。どんなのが喜ばれるか、おしえてくれると助かるんだけど──だめ?」
『元ナンバーワンホスト・エイト』(退職の意思は昨日のうちに『ナルキッソス』の店長へ伝えてある)の表情と声音の効果たるや、絶大だった。接客業という点をさし引いても世慣れも男慣れもしていそうな雰囲気の美人店員が、耳まで真っ赤になった。
「もっ、もちろんです! わ、私でよければ!」
 一オクターブあがった返事とちょっと前のめりになった姿勢に、ちょろいな、と思った。彼の流し目付きの「だめ?」の前では、世の女性は九分九厘、この反応をしめす。ドンペリ(色を問わず)でもブランド品(値段を問わず)でも彼が今のような調子でねだれば、ほとんどの女性が嬉々として財布をとり出すし、アフターなら飲食代はもちろん、ホテルも誘う前から腕をとられて引っぱっていかれる。『ホストのエイト』こそは彼にとって、何でも思い通りにできる最大の武器だった。……ただ一人をのぞいて。
(そういうの、いいから。どうせ、“キス”が狙いでしょ)
 思い通りにできないそのただ一人は、いつも呆れかえって、彼の要求をすげなく断る。『エイト』として本気のテクニックを使えば多少は照れたりあせったりするものの、「落とす」まではもちこめない。百戦錬磨のホストの手腕をもってしても、予想のななめ上をいく残念な結果ばかり。初めこそそんな彼女の冷淡と反発に腹がたって仕方なかったが、最近では逆にそれが新鮮で、気持ちの半分は愉しみながら彼女をからかって怒らせている彼だった。
 それでも、根がやさしい彼女は完全にはねつけることはせず、最終的には折れて、要求を受けいれてくれる。そのおかげで数えきれないほどのキスを交わして挽回しまくって、驚異的なスピードで人生の階段を駆けあがってこられた。
 彼女の“唇”を、“神の力”を独占しているのは俺だ、との自信と自負はある。これだけ頻繁に唇を重ねながら、決して「落ちない」彼女の揺るぎなさにも「さすが、この俺がパートナーと見込んだ女」との感嘆もある。だけど。
 優越感と満足感の裏にわずかにただよう、この寂寥感は何なのだろう。
 ……いくら唇だけを自由に奪えたとて、心までは自由にならない。“契約”という名の枷で束縛して、“幸せ”という名の餌をばら撒いても、彼女の“心”までもは手に入らない。その事実になぜ、うちのめされるような気分におちいるのか。“償い”という名の支配を得てなお虚しさが深まるのか。
 自分が並はずれて強欲なのはとっくに承知だ。でもここまで見境なく何もかもを欲しがる人間だったろうか? 彼女の尊厳を踏みにじるに等しいことばかりしているくせに、そのうえ彼女の人生すらも意のままにしたいと(自分のそばに永遠に留めておきたいと)本心では望んでいるとでも? ……まさか!
(──あなたの役にたつ、道具になる──)
 好きも嫌いもない“キスの契約”。自らそれをもちかけていながら、そして思惑通りの関係を築いていながら、いまさら、何を──
 またもや思考がゴールの無い渦にはまりかけたのを察して、急いで頭をきりかえた。
「ありがとう。……ごめんね、丸投げしちゃって」
 やさしく笑いかけてやると、店員はますますドギマギしたようすで手をふった。
「と、と、とんでもありません! お役にたてるなら、こ、こちらこそ! ……それで、その、お相手の方のタイプはどのような?」
「タイプ?」
「えぇと……たとえば、かわいい系とか、大人っぽい系とか」
 ああ、なるほど。……さて、宰子を言葉で説明するとなると、どう言ったらいいか。
 顎に手をあてて、しばし考えこむ旺太郎。
「あー、どっちかっていうと、かわいい系? ……いや、子供っぽい系かな。いっつも黒かグレーのやたら暗くて地味な格好ばっかりでさ。こんな感じの、明るい色だったりしゃれたデザインだったりの服着てるのなんて、見たことない子なんだ」
 初めて逢ったあのイヴの日の、サンタクロース姿の宰子を思いだす。
「不気味で陰気だけど……でもよく見ると素材はいいんだよね。めっちゃ色白だし。目鼻だちが綺麗だから、ルージュひいただけでもずいぶん大人びて見えるし。君みたいな服装してニコニコ笑ってれば、あれ、普通に男が寄ってくると思うんだけど」
 チョコレートファウンテンが運ばれてきた時の、それまでの不機嫌をコロッと消して眼をかがやかせた宰子を回想する。
「見た目はちっとも女らしくないのに、中身はしっかり女の子なんだよなー。チマチマした雑貨だのヘンな人形だのが好きで……それとスイーツも。イチゴとチョコレートに特に目がなくてさ、なんか、甘けりゃ甘いほどいいのかも。俺には理解できねえけど」
 唇の感触がガサガサだったと指さした時の、思いっきり頬をふくらませて指をはたいてきた宰子を脳裡に再現する。
「おとなしすぎるし。どんくさいし。くそ真面目で冗談も通じなくってさぁ、からかうとすぐムキになるんだよ、あいつ。控えめなわりに意外と気が強いから、反応が面白くてね。ま、そういうトコが小動物ぽくて、ちょっとかわいいかな。……」
 隣からの相づちがまったく聞こえなくなったことに気がついて、旺太郎は言葉を止めた。見れば、女性店員はあっけにとられた顔でぽかんと口をあけていた。
「何? どうしたの?」
 訊くと、彼女はゆっくりと閉じた口を両手でおさえて、吹きだした。
「……あっ、申し訳ありません! ……でも、本当に、彼女さんは間違いなく幸せだと思いますよ。自信もってくださいね!」
 ……はあ、どーも。……ってか、自信って、何の?
 笑いながら謝られ、謎のエールをおくられて、首をひねるしかない旺太郎だった。
「そうですね。お客様のお話からの、私の印象でよろしければ──お相手の方へは、あちらなどいかがでしょうか?」
 店員がすすめてきたのは、ショップの出入り口近くにディスプレイされた一体のトルソー。それが身につけている服を見て、旺太郎の眼がひろがった。──入店時にすぐそばを通ったはずなのに、どうして今まで気がつかなかったのか。たしかにあれなら、きっと宰子によく似合う。──


 一時間後。宰子の部屋にて。
 表参道のアパレルショップで買ってきた「プレゼント」をとり出すと、宰子は旺太郎の思っていた通りの言動をした。つまり──
 見た瞬間に「何、それ」と警戒心をあらわにし、「おまえが着るんだよ」と説明したら「ええぇぇ~?」と不快感でめいっぱいの顔つきになった。
 全力で「着ない!」と抵抗し、あげく「食事にはひとりで行って!」と拒否する宰子を旺太郎はおだてあげ(「おまえなら絶対似合うって! 俺が保証する!」)、なだめすかし(「並樹家は超一流セレブだぞ!? TPOってもんがあるだろ!」)、拝みたおして(「今日だけ! 今日一回だけ! 俺の分のデザートも食っていいから!」)、最終的にはどうにか首を縦にふらせた。
「……着替えてくる」
「プレゼント」をおしつけられた宰子が迷惑そのものの仏頂面で、部屋と洗面所とを仕切る室内扉を閉めた。
「はーい。待ってまーす」
 旺太郎は対照的な喜色満面で片手をふると、奥の窓際に置いてあった姿見を部屋の真ん中へ移動させた。洗面所の方には背中を向けて待つあいだ、衣擦れの小さな音がやけにひびいて感じる。
 ……清楚な真っ白いワンピース(しかもミディ丈の!)に着替えた宰子の第一声は何だろう? 定番の、恥じらいながらの「似合う?」か? それとも、かわいく照れ笑いして「ありがとう」とか? ……
 思いのほかワクワクと期待している自分自身を意識せぬまま目をつぶって待っていた彼の耳に、扉の向こうから届いた彼女の第一声は──
「……なんか、スースーする……」
「……スースーするぐらい、いいだろ! 少しぐらいガマンしろよ!」
 ──やっぱり、予想のななめ上をいく残念な感想だった。
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