Mitra

「Mitra」(ミトラ)は「契約」を意味する神の名前。契約上における友愛や和合を司り、「光」そのものも象徴する太陽神。が、契約に背いた者には罰を与えるという面も持つ。


 一昨日、ビデオテープの奪取を託されたのに並樹尊氏に阻止されてしまった失態を、宰子はまだエイトに謝罪できていなかった。
 にもかかわらず。
 今日、まだ謝れていないからどんな顔で逢えばいいか悩んでいた宰子の部屋に、エイトはいつもと変わらない顔でおとずれてきた。しかも、ラフな私服姿で、どういう風の吹きまわしか手土産まで持参で。
「よォ。何だよ、あいかわらず辛気くさいツラしてんなあ」
 もとより独り暮らしの女性宅にアポなし突撃の常習犯の無神経なエイトである。それでも、せっかくのタイムリープの努力を無にした一昨日の件は絶対に怒ってるし、根にもってるはず……そう思ってオドオドビクビクしていたところ、彼のあまりに平然とした態度に拍子ぬけした。
 ──それとも。このひとにとっては、ビデオテープを手に入れることより美尊さんとキスしたことの方が収穫が大きかったのかも──。
「こんな昼間に家にいるって、今日は仕事は休みか? 天気もいい休日だってのにどうせ出かける予定もないんだろ~、ほんと寂しい生活してんな~」
 かなり失礼なせりふを吐きながら、勝手知ったる風で無遠慮に玄関を抜けてあがりこむダウンジャケットの背中に「多分オフの、こんな昼間に、ちょっかいかけに来るあなたこそどうなの」と言いたくなるのを耐えて(言ったが最後、嫌みと逆ギレが何倍にもなって返ってくるのがわかりきっているから)、宰子は小さくため息をついた。


「好きな方、選びな」と渡された、長ったらしいアルファベットが書かれた白い紙箱の中には、宰子がテレビか雑誌でしか見たことがない(当然、食べたこともない)ような可愛らしくておしゃれなスイーツが二個入っていた。
 おどろくほど真っ赤な色をしたイチゴをいくつも繊細に積みあげたショートケーキと、丁寧なカットが施されたオレンジを光沢ある表面に芸術的に飾りつけたチョコレートケーキ。夢みたいに綺麗で素敵でキラキラしたその手土産は、不躾に名前を連呼されて玄関ドアを連打されたことによる不愉快な気分を一掃してくれた。
 ……うーんと、どっちにしようかな? どっちもすごくかわいいし、おいしそうだし……両方とも気になるんだけど……迷うなぁ……。
 ワクワクしながら目移りしている最中、ふと視線を感じて顔を向けると、坐って頬杖をついてこちらをながめているエイトと眼があった。人一倍短気なエイトから「遅ぇな。さっさと選べよ」と文句のひとつも飛んでくるかと身構えたが、違った。
 普段はあまり見せないやわらかい表情で、ニコリと微笑まれた。
 心臓が鳴った音が聴こえた。あわてて眼をそらし、ふたつのケーキに集中する。──動揺しちゃダメ。期待もしちゃダメ。ホストのすることよ、特別な感情なんてない、単なる職業柄の習慣のひとつ。このひとは私にだけじゃなく、誰にだってこうする。
 ──そう、“私じゃない”。
 少女漫画から抜けだしたみたいな二枚目がすぐそばにいるんだからついドキドキしてしまうのはあたりまえ、と自らに釈明する。それ以上の意味はない、と結論づける。痛みをともなう想いの存在をもう知っているけれど、知らないふりをしてまだ笑える。
「もうちょっと待って。まだ決められない」
「遅ぇな。さっさと選べよ」
 苦笑まじりのその声がひどくやさしいものに感じられて、痛みがさらに鋭くなった。


 紅茶をいれたマグカップを「どうぞ」とテーブルに置いてあげると、エイトはたいして感謝のこもっていないそっけなさで「サンキュー」と言った。
 宰子は紅茶好きで(ついでにかなりの甘党で)、コーヒーは嗜まない。対してエイトは、これまでの幾度かの訪問での様子から察するにコーヒー派で、おそらく紅茶はあまり好まない。
 察していながら、けれどあえて紅茶をふるまう。自分が飲みもしないコーヒーを彼のために自宅に常備などしない。それこそ“恋人でもあるまいし”、ただの“ビジネスパートナー”にすぎない関係で彼にそこまでサービスはしない。──それは彼女のなけなしのプライドだった。
「じゃあ、これ」
 苦悩の選択の末、チョコレートケーキの皿をエイトの席に、ショートケーキの皿を自身の席に配った。すると、エイトが得意げにぱちんと指を鳴らした。
「──だろうと思った! チョコとどっちがいいか迷ったけど、宰子、イチゴ好きだもんなあ」
「……? 好きだけど……どうして知ってるの?」
「ケーキ屋でイチゴのやつ欲しそうにしてたじゃんか。レストランでも、他のには手をつけないのに真っ先に食ってたし」
「そ、そうだっけ?」
 向かい合わせに坐った宰子は、些細な出来事をよく憶えているなぁ、ナンバーワンの観察眼て怖いなぁ、と内心ちょっと引いたが、
「そうだよ。俺、宰子をずっと見てたし、宰子のことばっかり考えてたから」
 堂々とあけすけにストーカー行為を告白されて、額に両手をあてた。赤くなったに違いない顔色をかくすために。
 エイトは時々、とらえようによってはとんでもない問題発言をする。ホストとして歯の浮くようなせりふに慣れて抵抗がないのもあるだろうが、それを抜きにしても、他意もなしに素で爆弾発言をかましてくる。本人に自覚がまったくないから指摘しづらいし、彼は鈍感にのほほんとしているのに自分だけが敏感に浮かれているようで恥ずかしく、さらには腹もたってくる宰子だった。
「……なんか、ストーカーの自供みたい……」
 ほそぼそとしたつぶやきを聞きとがめたエイトが眉根をよせた。
「うるせえな。こっちだって好きでつきまとってたんじゃねーよ。おまえがおとなしく契約に乗ってこなかったせいだろうが! ったく、何でおまえなんかにこの俺が……余計な金と時間と労力を使わせやがって……」
 すさまじく自分勝手な言いぐさである。一昨日の話をきりだすタイミングをはかっていたが、もうやめた。謝る気などなくなった。宰子は瞬時に氷点下まで冷えた眼をエイトにすえて、口をひらいた。
「そこまで嫌われてるなら契約破棄しましょう私はちっとも構わないしなんにも困らないんだから。あなたも気にくわない相手と縁が切れてすっきりしてせいせいするでしょ、ほら早く今すぐここで破棄しましょう」
 流暢な絶縁宣言を突きつけ、せまられ、エイトの整った顔がひきつる。
「待って待って待って待って! 今のはナシ! 冗談! マジに受けとんなよ、な!?」
「ほかに言うことは?」
「…………ごめんなさい」
 わかればよろしい、とうなずいて溜飲をさげる宰子。
 フォークでケーキの先端をすくって口へ運ぶと、なめらかなクリームもフワフワのスポンジもしつこくないちょうどいい甘さの、見た目通りの繊細で上品な(そしてきっと高級な)味に感動した。ふた口目の真っ赤にかがやくイチゴの味はもっと感動を深めるもので、宰子はいっぱいの至福とちょっぴりの後悔──チョコレートの方もどれだけおいしいんだろ、あっちも食べてみたかったな、という後悔──を噛みしめた。
 小声で「宰子ってたまにスゲェおっかねえよな」などと愚痴りつつマグカップの中身をちびちびと飲んでいたエイトの目線が、ふと、部屋の奥のベッドにとまった。布団の上に開いた状態の、女性ファッション雑誌に。彼の訪問前まで、宰子がそこに腰かけながらページを繰っていた物だ。
「へえ、あんなの買って読むんだ?」
 心底意外、という声をあげられた。宰子は妙な気恥ずかしさを感じて、
「……あっ、えっと、あ、あれは……買ったんじゃなくて、その、ヒロミさんが読み終わったからってくれて……べ、別に欲しかったわけじゃないんだけど……」
 しどろもどろに弁解めいた言葉をつむぎだす。聞いて、エイトがキョトンとした。
「え、ヒロミが? おまえ、あいつと仲良いの?」
「仲良いっていうほどじゃ……仕事中に必要な話くらいは、するけど。……え? 『あいつ』?」
 まじまじとエイトを見つめた。純粋に疑問にかられて。
「あなた、ヒロミさんと知り合いなの?」
「……!!」
 再び、しかもさっきとは比べものにならない勢いと深刻さでエイトが顔をひきつらせた。顔面に『やっべ!!』と大書された文字まで見えそうな狼狽ぶりだ。あ然とした宰子へ、今度はエイトが弁解めいた言葉をならべ始めた。
「……い、いや、知らない! 知らないって! だから、ほら……あれだよ……店の常連客とカン違いしてた! そうだよ、うん! ヒロミなんてよくある名前だもんなー」
 あははは、と芝居がかって乾いた笑い声をたてながら立ちあがった様子はなにやら、無理矢理この場の空気をごまかしたように見えなくもない。ベッド上のファッション誌を開いたまま手に取り、戻ってくると、テーブルへぽんと放る。次いで、ダイニングチェアを逆向きにして腰をおろし、背もたれに片肘のせてのぞきこむ。
「えーと……『トレンド先取り!春色甘めニュアンスをチェック』『この春のマストはパステルカラー小物!』……くっだらねえことばっか書いてんな。大体、まだ二月にもなってないのに気が早すぎない?」
「…………」
 未知なる世界をそれなりに興味ぶかく熟読していた宰子としては、しらけた口調で読みあげられるといたたまれなさに沈黙せざるを得ない。
「ふーん……『透け感ワンピの魅せコーデで、彼の視線をひとりじめ』? ……」
 淡々としたエイトの音読が、そこでピタリと止まった。しばらくの静寂。
 どうしたの? と宰子が訊こうとした時。誌面から上げた彼の瞳が彼女をとらえた。
「おまえさ、こういうの着て、見せたいヤツとかいんの?」
 まさか、と否定しかけてのみこむ。どうしてじっと上目づかいに見てくるのか、どうして声の調子が少しだけかたいのか、そんなことが気になったがそれよりも別の、ある衝動をおぼえた。
 たとえば。今、ここで。素直な気持ちを告げたとしたら。──このひとはどんな反応をするのだろうか。
 想像してみる。──(実は、いる)──(いるの? 誰?)──(誰だと思う?)──(そんなのわかるかよ。つーか、俺の知ってるヤツ?)──(もちろん知ってる。だって、目の前にいる)──
 その先の会話は、まったく想像がつかなかった。というより、考えるのをあきらめた。……百パーセント叶わない望みなど、もつだけ無駄だ。そもそも、その望みを私がもつことは赦されない。……
 宰子は苦労して微笑にちかい表情をつくると、首をふった。
「まさか。いるわけない」
「……だよな! いるわけないよな!」
 どうしてやけに楽しそうに同調するのか、それも気になったがそれよりも、不必要にニコニコされてイラッときた。
「どうせ……私なんて……」
「いじけるなよ。──まあ、いいんじゃね? おまえもたまにはこんな感じの服、着てみたら?」
「着ない。私は、に、似合わない。……美尊さんならともかく」
「百億? そりゃ百億は何でも似合うだろうな。間違いない」
 即答。全肯定。並樹美尊と張りあうつもりなどかけらもないのに、なぜか無意識に名前を出してしまった自分を恨むしかなかった。
 おし黙る宰子と雑誌の写真とを数回見比べて、エイトがふいに身をのりだした。
「んー、でも。──いいよ、わるくない」
「え?」
 うつむいていた顔を戻す。と、ガラス玉のようにひかる双眸が想定外に近づいていて──
「かわいい格好した宰子も見たいな。特別に、俺の前だけで着てみてよ。お願い」
 ──ぞくりとするほどの艶をふくんだ色目と口説きは、ナンバーワンホストのそれだった。一瞬で宰子の頭に血がのぼる。鼓動が加速する。
「は……? えっ……? だ、だって……あの……でもっ……」
 まともな単語はひとつも出てこない。思考回路がエラーにおちいっている。呼吸困難になりそうで口をぱくぱくさせていると、エイトが盛大に吹きだした。
「バァ~カ、冗談だよ! いちいちマジに受けとんなっつーの! おまえ、ほんっと面白いな!」
 腹までおさえて爆笑している姿に、違う意味でまた頭に血がのぼった。遊びがいのあるオモチャと思っているのか、それとも、さっきやり込められた仕返しか。なんにせよ完全におちょくられている。……こういうところが、ほんっとクズなのよ!
 ゲラゲラ笑いつづけるクズ男をにらみつけて、宰子はフォークを握りしめ、半分以上残っていたショートケーキを五秒でたいらげた。


 結局。──
 時間をかけて一杯の紅茶を飲み干しチョコレートケーキには一度も手をつけず、エイトは帰っていった。用事らしい用事もなく。
 帰り際、ケーキを持ち帰るよううながすと「俺、甘いもんは……」と言いかけて口をつぐんだ後、「お茶で腹いっぱいで無理。それ、おまえが食いな」と笑顔で手をふった。
 たった一杯の紅茶だけでお腹いっぱいになるのかな? と首をかしげながら玄関ドアを閉めた瞬間。
(──チョコとどっちがいいか迷ったけど──)
 耳に再生されたそのひと言。──ああ、そういうことか、と腑におちた。
 わざわざふたつ買いながら食べずに残したスイーツも。“キス”を求めず交わしたたわいのない雑談も。私が一昨日の件で落ちこんでいるのでは、と気遣ったエイトなりのやさしさだったのかも、と宰子は思いあたった。
 あるいは。
(──俺が望んだ時にキスしてくれたら、宰子の願いをひとつ叶えてやる──)
 “契約”の前払い報酬かもしれない。どうせあのクズのことだから、すぐにまた“キス”をせがみに宰子の自宅か職場へ駆けこんでくるに決まっている。
「……面倒なひと」
 つぶやくと同時に、唇に笑みがこぼれた。
 ──やっぱり、一昨日のことをちゃんと謝ろう。近いうちに。彼の家まで行って、彼の前で。──服装はいつも通りで。
 そう決心して、玄関の鍵をかけた。


 快晴の一月二十九日の空は、どこまでも果てなく一色に染めあげられた、青。
Page Top
inserted by FC2 system