Belial

「Belial」(ベリアル)は「邪悪」「無価値」を意味する悪魔の名前。姿は見目麗しく優雅で非常に弁も立つが、実際は嘘吐きで醜悪な穢れた魂の持ち主。
堕天した元上級天使だとする説もある。


 別にあなたを助けたのは顔がすごく綺麗で格好いいとかスタイルがまるでモデルみたいとかちょっとどころかだいぶ好みのタイプだとかそんなんじゃなくて。
 もしもあのまま死んじゃったら可哀そうだし死ぬのがわかってて見殺しにしたら寝覚めがわるいし。もしもあのまま捕まっちゃったら気の毒だし無実なのがわかってて知らんぷりしたら良心がいたむし。
 大体こんなに素敵なひとならきっとあなた目当てにお店に通ってるお客さんがいっぱいいるだろうからあなたがいなくなってしまったら哀しむ女性がたくさんいてお店も困るでしょ。そもそもあなたに危害をくわえようとしているのはあの後輩さん一人だけだろうからあなたがあの悪意にさえ気づいてくれれば自力でどうにか対処も対策もできるでしょ。
 そう思ったからささやかな人助けとして“キス”しただけ。カン違いしないで。
 ──だけど。これまで何度も、普段の私からは考えられないくらいに積極的な行動をとりつづけてきたほんとうの理由は、もしかしたら。あなたの雰囲気というか、面影というか、それがどこか似ていたせいかもしれない。
 あのクリスマスイヴの『あの子』に。


 思考が何らかのかたちをつくるより速く、身体が動いていた。
 ──俺はおまえを信じてる──
 状況に一切そぐわない、いっそ親愛の情すらこめたせりふと笑みを残して二十メートルの空中へ後ろざまに飛び降りかけたそのホストへ、宰子は駆け寄った。無我夢中でホストの左腕をつかむと、全力で引っぱる。
「……もう救わないったら!」
 数瞬、ビル五階の高さの夜空へ共に引きずられそうになるのを必死にたてなおし、彼を抱きかかえるようにして屋上の床へ倒れこんだ。受け身もとれず思いきりコンクリートに打ちつけた肩と肘が、灼けるように痛い。
「おまえ……」
 ホスト──エイトが茫然とつぶやいた。口の達者なエイトにはめずらしく、ひと言だけでそれ以降は出てこない。彼からしても彼女の行動は意外すぎたようだ。
 身体はあちこち痛むがそれよりも助かった、という安堵の方が大きかった。しかし、安堵がひいていくと次は猛烈な怒りがわきあがってきた。自然と抱きあう体勢になってしまっていたエイトをつきとばして、その呆けた顔に怒りにまかせて罵声を投げつけた。
「……何が、何が『信じてる』よ! このっ、バカ! 最低! 何のためにあれだけ、キ、“キス”してきたと思ってるの!?」
 制御しきれない感情の昂りに頭が熱くなって、涙までにじむ。どうして私はここまでこの男に激怒しているのだろう、と心の片隅で疑問に思いながら、宰子はさらに罵倒をかさねた。
「こ、こ、こんなに欲深くてどうしようもないクズだって知ってたら、救ったりなんかしなかった! ……幸せ? 神の力? 笑わせないで! わ、私の“キス”はそんな立派なものじゃないし、くだらない欲を満たす“道具”でもない!」
 肩で息をしながら一気に吐き捨てたものの、まだ昂奮はおさまらない。勢いよく立ちあがると、数十秒前までエイトが立っていた場所へずかずかと歩を進めた。
 その場所に今度は自身が立ってどうするか、はっきりと決めていたわけではない。それでも、脚のおもむくままビル屋上の端まで、気休め程度の低さしかない鉄柵まで歩いていって、宰子はふり返った。
「“契約”なんて冗談じゃない! あ、あなたみたいな最低のクズにいいように使われるくらいなら、いっそ……!」
 言いつつ、勝手に右脚が鉄柵をまたいでいた。どうして私はガクガクとふるえながらこんなことをしているのだろう、と再びおのれに問いながら、声をふりしぼる。
「……いっそ、私がここから!」
 その刹那。
 あっけにとられた態でいたエイトの顔つきが変わった。
「──おまえ、死ぬ気か?」
 夜風以上に冷えきったその視線と声音は、つづいて柵をまたごうとした左脚を止めるには充分な迫力がこもっていた。驚いて思わず固まった宰子の眼と、ゆらりと立ったエイトの眼があう。
「いっそ私が、何だよ? ここから飛び降りる? いいように使われるくらいなら地面にたたきつけられて死んだ方がマシ、ってか」
 暗闇よりもなお昏い深淵をのぞく眼が宰子に向けられていた。
「……ああ、そうかよ……死ぬはずじゃなかったあいつを俺が死なせたもんな……忘れないようにわざわざまた見せつけてくれるってのか……ふざけんなよ、忘れるわけねえだろ……」
 陰々と──まるで地の底からわき出るがごとく低音の、謎めいた独りごと。面くらいながらも、聞いているうちに宰子は背すじも凍るような恐怖をおぼえてきた。
 彼はしばらくのあいだはるか遠いところを見つめていたが、やがてスッと宰子を視界にとらえると、
「いいよ。死にたきゃ、死ねばいい。俺は止めない。おまえの人生だ、好きにしな」
「…………」
 冷酷きわまる言葉──冷徹そのものの瞳──。この、一見軽薄なホストが内に秘めていた翳りと凄みを肌で感じて、宰子は声も出せなかった。
 ……と。異様な殺気をもはらんで見えたエイトが、ふと、唇の端をもちあげた。
「でも、おまえはそれでいいのかよ?」
「──え?」
「汚く潰れて終わるみじめな人生で、そんなんで満足できんのかよって訊いてんだよ」
 突然の質問を投げかけられて、沸騰していた脳内に水をぶちまけられた思いになる。「汚く」「潰れる」「みじめ」──遠慮のないストレートな表現の数々にその光景をリアルに想像してしまい、今さらながらの寒気がした。
 エイトが一歩、近づいた。
「あの時、おまえ、『なるべく人とかかわらないで静かに暮らしてた』って言ったよな。それなのに、どうして何度も何度も俺のピンチを救ってくれたんだ? ──本当は、人とかかわりたくて仕方なかったからじゃないのか?」
「こ、こ、来ないで……!」
 のどはどうしようもなくふるえながら拒絶するのに、左脚は微動だにしない。
「こうも言ってたな。『こんな力があるせいでみんな私を怖がるし、ばれたら私は嫌われる』って。だけどさ、少なくとも今の俺はおまえを怖がってねえし、嫌ってもいないぜ」
「……!? な、何、いってるの? ……」
「俺は自分の人生に満足なんてしてない。失ったモノが山ほどあるからな。それをとり戻すためなら何だってしてやる。けど、とり戻したいのは愛や友情なんかじゃない。目に見えない、腹もふくれないそんなもんには、何の価値も意味もねえ。本当に必要なのは、目に見えるたしかなもの──金と力だよ。この二つさえ手に入れりゃ、人生は変えられる」
 頭上にまたたく寒夜の満天の星。下界をいろどる欲望の渦たるネオン。幻想的ともいえる夜景を背に、歌舞伎町ナンバーワンホストは傲然と笑った。
「だから俺は金と力で人生を変えてやる。俺自身の手で、俺を救ってみせる」
 もう一歩、エイトが近づいた。宰子はもはや脚だけでなく、のどすら動かせなくなっている。……
「ついでにおまえも救ってやる」
 その瞬間の自分がどんな表情をしていたのか、あとになっていくら考えても宰子は思いだせなかった。けれど、ついさっきまでは恐ろしかったエイトの笑顔がふいに、やけに親しげでやさしいものに感じられたのは忘れなかった。
「おまえが今の人生に満足してるんなら、それでいい。だけど本音は違うよな。本当は寂しいんだろ? 誰かに必要とされたいんだろ? 幸せになりたいんだよな? ……だったら、俺と契約しろ。俺にはおまえが必要なんだ」
 必要。口にすればたった四文字の単語。それが胸に深く──消すことのできないほどに深く刻まれたのは忘れられなかった。
「……し、幸せなんて……」
「そりゃあ、おまえの望む“幸せ”とは少し違うかたちかもしれねえけどさ。でも俺なら、今よりずっといい生活をさせてやれる。もっと明るい未来をひらいてやれる。……なあ、宰子。“利用”するんじゃない、“道具”扱いでもない、対等な“パートナー”として一緒に前に進まないか?」
(──ねえ、大丈夫? 助けてあげるから、いっしょに──)
 一瞬──『プロメテウス』で出逢い別れた少年の姿がエイトとかさなった。
 悪魔は天使の顔をして近づき知らぬうちに心をとらえ、堕とす。いつかどこかで読んだそんな一節が脳裡に浮かんだ。──あれは真実だったんだ。だって、この美貌の悪魔は、私にとって最も大切な記憶を利用して私を惑わせる。『パンドラの箱』をわがもの顔であけようとしてくる。たとえ『あの子』が生きていたとしたって、決してこんな詭弁を弄するような子ではないはずなのに。
 ──ほんとうに逢いたい相手には逢えないのに──
 どんなに真剣に願っても、どれほど真摯に祈っても、叶わないものが世の中にはある。それは十二年の歳月をかけて理解していたつもりだった。……それでも。幻視だ、幻聴だ、と否定する二十二歳の宰子の内部から、十歳の宰子がおさえきれない歓びの声をあげる。
(やっと逢えた)
『あの子』とよく似た『ホスト』の唇が優雅に動いて言葉をつむぐ。
「おいで、宰子。二人で幸せを手に入れよう」
(助けてあげるから、いっしょにここから出ようよ)
 もたらされたのは魂をも揺さぶるほどの、狂喜とさえ呼べる感動。
 十二年ものあいだ待ちつづけていたものが、今、やっと眼前におとずれたことを彼女は知った。──そうだ、私はずっと、この時を待っていた。「助けてあげる」とさし伸べられる手を。「一緒に行こう」と誘ってくれるひと声を。たとえ行き先が『楽園エデン』を真似た『虚飾フェイク』だとしても。──
 この呪われた“キス”は、交わす相手がいる場合に限って“罰”となる。私という存在を恐れられ避けられることで罪の重さを直視せざるを得ないし、その行為自体が(ひとを好きになる気持ちそのものが)永遠の禁忌なのだと思いしらされるからだ。だけど。
 あえて私のこのキスを望み、求める相手が現れたとしたなら。呪われていればこそ共に手をとり合おうと笑ってくれるなら。それは、もう罰ではなくて、もっと別の──
「私は……私は! どうして自分にこの力が与えられたのか知りたい! これが罪を犯した罰だというのなら無意味に生かされつづけた先に何があるの!?」
 長いあいだおさえつけ、蓋をして、気づかぬふりをしてためこんできた想いの量はもう限界だったのかもしれない。
「なぜあの日に死なせてもらえなかったの!? 私なんかが生き残ってどうすればいいの!?」
 限界を超えて破裂した想いを声にかえて吐きだしてしまうのを、どうしても堪えられない。止められない。
 いきなりこんなことを怒鳴られて、彼もさぞ支離滅裂で意味不明に感じているだろう、と頭のどこかではへんに冷静に自覚もしつつ、しかしぼろぼろと涙をこぼしながら宰子はさけんだ。
「幸せなんていらない! 私はただ……私が生きなくちゃいけない理由をおしえて欲しいだけ!」
 きっと彼は困惑して絶句するに違いない、と予想した。「そんなのは俺の知ったことか」と嘲笑われるだろう、と覚悟もした。
 ──が。
 泣き笑いみたいな表情になったエイトが、言った。
「俺もだよ。──ほらな、やっぱりおまえと俺は似た者同士だったろ。俺達なら最高の“パートナー”になれるって」
 あふれる涙ですべてがぼやけてかすむ世界の中、こちらへまっすぐにさし出された手だけがはっきりと目に見えた。それだけが唯一のたしかなものだと思えた。
「おいで、宰子。二人なら答えを見つけられる」
 三度目の一月十八日。冬の星空と遠いネオンの灯がきらめく夜。今、ここで、私は最低最悪な契約を結ぶ。美しすぎる姿と不可思議すぎる心をもつ、この悪魔と。
 そうあきらめながら──宰子は迷いなくその手を握った。
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