Lakshmi

「Lakshmi」(ラクシュミ)は美と富と幸運を司る女神の名前。無限に金貨が湧き出る壺を持つ、豊穣と幸福を象徴する絶世の美女。


一 ────


 歩く百億円の札束。口をきく等身大のダイヤか金塊。
 ──そう思えば、その女の高慢ちきにすかした態度もなんとか我慢できた。俺に向ける見くだした美しい瞳、つんとそらした高い鼻、生意気にひき結んだ魅惑的な唇、それらすべてへの腹立たしさをどうにかごまかせた。
 大金持ちの不良娘の道楽にまたまたつきあってやるのか、と内心ウンザリしながら、俺は腰をかがめて初対面よろしく並樹美尊へ名刺をさし出した。
「初めまして。エイトです」
(……逢うのは“三回目”だけどね)
 いいかげん飽き飽きしている挨拶にそつのない笑みを添えての、自己紹介。すると。
 “記憶”のままに彼女は一瞬、汚いものを見る眼を名刺におとして、無言で顔をそむけた。
 ──ああ、知ってるよ。あんたがそういう女だってことはね。歌舞伎町なんてのは汚らわしい街、そんな街で働く俺も汚らわしい存在、視界に入れるのも耐えがたい──って本音がだだ漏れだぜ、個人資産百億のお嬢様。
 剥きだしで見せつけられた軽蔑と拒絶がかえって、俺の闘争心を炙ってくる。獲物はこれぐらい勝ち気な方がいい。手応えのない狩りほどつまらないものはないからな。
 甲高い声ではやしたて大げさな身ぶりでアピールしてくる、センターテーブルのソファ中央に陣取る女(並樹美尊の友人A)を和馬に譲り、俺は並樹美尊の隣へ坐った。何気なさをよそおい、互いの膝が触れるか触れないかギリギリの位置に、互いの吐息が届くか届かないかスレスレの距離に。
 ゲーム・スタート。
「……そっちに坐ればいいでしょ」
 視線をあわせようともせず、だがほんのわずかな動揺を見せた、その横顔。長いストレートの黒髪。白磁の肌。細部にいたるまで精緻に仕上げられた芸術品みたいな、非の打ちどころのない完成度だ。……セレブ仲間の取り巻き三人娘もなかなかに粒ぞろいだが、やはり美尊のレベルはずば抜けていた。美貌も、オーラも。
 ホストクラブという下卑た空間の照明とムードによって、彼女の気品と魅力はいっそうかがやきを増している。生まれ持った富の量が容姿に影響するのだとしたら、この女は確かに、この国で五指に入る美女に違いない。
「賞品」としての価値は最高レア。見た目も財産も、俺の人生において二度と出逢えないだろう最強ランク。──逃がしてなるか、どんな手を使ってでも必ず落としてやる!
 さあ、運命のクリスマスイヴの仕切り直しだ。今夜こそ、三度目の正直をモノにしてみせる。身体の芯からゾクゾクさせる高揚感のふるえをおさえながら、俺は百億(こんな女、名前で呼ぶのも業腹だ。『百億』で充分だろ)の冷たい横顔に微笑みかけた。
 ようこそ、『ナルキッソス』へ。日本屈指の財閥ファミリー『並樹ホテルインターナショナル』の御令嬢。
 そして──俺の明るい未来を約束してくれる“幸せ”そのもの。


二 ────


 ぱん、という乾いた音がロビーのフロア中に鳴りわたった。それは驚くほどよくひびく、大きな音に聞こえた。
 右の掌にかすかに残った痺れに、はっとした。私が他人に手をあげるなんて……いくら怒りにわれを忘れてしまった結果でも、衝動的に暴力という手段を選んだ自身に当惑し、嫌悪感もひろがってきた。
 固唾をのんでこちらのなりゆきを見まもっている真凛や菜緒や奈々子、それに他の部員達の、おなじく当惑した視線が痛いほどにつき刺さる。私の背後にいる兄も、彼女達と同様の眼をしているのだろう。ふり返らなくてもこの重苦しい沈黙でわかる。
 私の平手をまともに受けたホスト(避けようとすればできただろうに、この男はあえて受けた。そんな気がした)は、ゆっくりと顔を正面に戻すとうす笑いを浮かべた。
「……残念だなぁ。わかってもらえなくて」
 見おろしてくる双眸にただよう、私を嘲るような憐れむような感情の不快さに、自己嫌悪をおしのけてふたたび怒りがわきあがった。
(だから、ものの価値がわからないんだよ。裸のお嬢サマ)
 思いあがっているだけの、何も持たないお嬢サマ? 私が? ……ばかにしないで! あなたなんかに私の何がわかるっていうのよ!
 鼓膜にこびりついて消えようとしない、最低に下品な罵倒。ここまで不躾な嘲笑を面と向かって浴びせられたのは、生まれて以来、初めてだった。
 なのに……。
 目の前の彼から投げつけられた不愉快極まるせりふのすべてに、お兄ちゃんのやさしい声の幻聴がぴたりと重なるのはなぜだろう?
(倶楽部の伝統とか決まりごとを守るのは偉いことだと思うけど、部員の気持ちを汲んであげるのも大事なことなんじゃないの?)
 ──(美尊。倶楽部の伝統や決まりごとを守ってくれるのは僕も嬉しいし、誇らしいよ。ただ、部員の気持ちを汲んであげることも、大事なことじゃないかな)──
(乗馬で大切なのは、馬に謙虚でいることなんじゃない?)
 ──(乗馬で大切なのは、何だっけ?)──
(そうやって、上からものを言うから皆、萎縮しちゃうんだよ)
 ──(将来、並樹グループという大きな馬を乗りこなすためにも、忘れるなよ)──
 ……あなただって所詮はただのホストじゃない! 何の自信があって、この私をそんな風に見くだすの? 何の権利があって、この私を叱って諭してくるの? まるで……まるで……お兄ちゃんが語るみたいに!
 反論する言葉を声にのせられずにいるうち、彼はロビーから出ていった。無意識にその背を目で追いながら、私は気づく。さっきは激怒のみをかきたてられた罵倒が、いつのまにか、鋭い楔となって胸に打ちこまれていることに。
 無視できない胸の痛みが私に問いかける。──美尊、あなたが今、なすべきことは?
 ──と、うつむいておし黙っていた真凛が、意を決したようすで口をひらいた。
「本当は……これで撮って欲しい。汚れても大事なお祖母ちゃんの形見だから……!」
 今にも泣きだしそうな必死の表情をした親友の姿で、また私は気づく。彼からおしえられた真凛の本心が真実だったことに。
 黙っててごめんね、と謝る真凛。──ううん、こっちこそごめんね。皆が思ったことを素直に言えなくしていたのは、この私だったんだね。
 はりつめていた周りの空気が、一気にやわらかくなった。菜緒が私に笑いかけてきた。
「撮影はどうする? 着替える?」
 わかりきったことを言わせないで。全員、この振袖姿で撮るに決まってるでしょ!
 乗馬倶楽部の皆が明るませた顔を見あわせる。その光景に、すっと心が軽くなった。そうよ、気がついてみればとても簡単なことだった。どうして気がつけなかったのか、何に対して意地をはっていたのか、自分自身がふしぎだった。
「エイトさんのおかげだね!」
 ニコニコしながら言った菜緒に、私は返事ができなかった。


 カード払いで精算をすませ、あけられたドアからタクシーの車外へ降りる。アスファルトの路面にヒールが当たった高い音がまるで、罪悪感がかたちを変えた警告音のようだ。途端、真冬の冷気とこの場所独特の熱気とにおそわれて、思わずコートの襟元を強くにぎりしめた。
 走りだしたタクシーはあっという間に遠いテールランプの波へまぎれ、見えなくなった。放りだされて置いていかれたかのような不安を感じて私は、恐る恐る辺りを見まわした。
 刺激的な濃い色でせわしなく明滅する無数のネオン──夜だというのに(夜だからこそ)耳を覆いたくなるほどうるさく低俗な喧騒──行き交うひと達の男女を問わず派手な服装と浮ついた雰囲気──。目に映る何もかもが私とはまったく異質の別世界で、増した不安とともに後悔にまでかられてきた。
 新宿歌舞伎町、一番街。
 ここへ足を踏みいれるのは二度目だった。十七日前、クリスマスイヴの夜に、菜緒に連れて来られたホストクラブ。かろうじて憶えていた店名を運転手に伝えて、どうにかこの店の前までたどり着けた。あいかわらず……本当に品のない街。
 こんなところにひとりでコソコソと来ていることをもしお兄ちゃんに知られたら──清廉潔白なお兄ちゃんだもの、幻滅されてしまうかも? それは絶対に嫌! それだけは避けたい──。
 両目にありありと失望の色を満たした兄の幻が脳裡をながれた。……違うの、違うのよ、お兄ちゃん。たったひとつだけ、ここへ来なくてはいけない理由があるだけなの。……
 ひと言、昨日のお礼を言う。用件はそれのみ。車内でくり返しくり返し、胸にたしかめてきた。その用件さえ済ませてしまえば、こんな街へは二度と近づかない。もう二度と、あのホストに逢いに来たりなんかしない。
 街路樹にもたれながら自分で自分を説得していた時。偶然にも、地下にある例のホストクラブへつながる階段を例のホストがのぼってきた。目と鼻の先にいる私に気づきもせず、店前で待機していた一台のタクシーへ近づいていく。若い女性の肩を抱き、お互いの身体を密着させながら。
 眼をそらそうとしてもそらせない。なぜか、息が苦しくなった。「ホスト」という職業の人間がどうやってお金を稼いでいるか知識としてはわかっていたけれど、それを実践している『彼』を目の当たりにしたらうろたえてしまった。
 後部座席に女性を乗せると、全開の車窓へ顔を寄せてなにやら話しかけている。──何よ。私以外になら、そんなに親しげでやさしい笑い方をするじゃないの。
 ふと、昨日の初乗り会で見た和服の礼装を思いだした。こう言っては失礼だけど……正体がホストとは信じられないくらいの着こなしで、よく似合っていた。
 妹としてのひいき目を抜きにしても、私の兄は完璧な容姿だと思っている。けれど彼は、あの兄と並び立ってもまったく見劣りしないほど黒紋付が様になっていた。菜緒や奈々子が彼を見るたびに「イケメン!」と黄色い声をあげるのもうなずける。顔がいいのは認めるわ、だって事実なのだから仕方ないじゃない(──もちろん、決して本人には言わないけど)。
 でも。今、あそこにいる彼には、昨日の品格の面影はない。
 キザに整えた髪型も、瀟洒すぎるスーツも、必要以上に甘い微笑も。過剰なまでの色気を全身にまとって「歌舞伎町」を体現したあの姿は、やっぱりあのひとは私とは違う世界の住人なのだ、と再確認させた。
 発車したタクシーへ手をふってふり返ったエイトがようやく私を発見した。驚いてみはった眼をすぐに細め、子供みたいにはずんだ声で呼びかけてくる。
「美尊さん」
 ……ついさっきまで別の女性とよりそっていたくせに、この屈託のない態度。これだからホストなんて信用できない。
 いらだたしさなのか気恥ずかしさなのかよくわからない感情がわいてきた。私はとまどいを無表情で覆いかくして、背中をあずけていた街路樹から離れ、エイトに歩み寄った。
「……あなたが叱ってくれたおかげで、皆とうち解けることができた。ぶったりして、ごめんなさい。……ありがとう」
 つとめて平静をよそおいつつ、練習しておいた謝罪と感謝を口にする。これで、用は済んだ。あとは帰るだけ。
 聞き終えたエイトは、
「良かった。わかってくれて」
 さらに屈託なくニコリとした。……ああ、もう! ホストの手練手管ったら!
「寒いから、中、入って」
 一歩前へ出たエイトの手が私の肩へ伸ばされた。触れられる寸前、私はあわてて身をひいた。うながされるまま店について行ってはダメ、この男に手をとられてしまったらおしまい──頭のなかで赤信号がはげしく点滅する。
「ひと言、お礼を言いに来ただけ。あのままじゃ、気持ちわるいから……」
 どうしてか、うまくしゃべれない。声がすこしうわずってしまうし、下げた目線も戻せない。
 焦りなのか恐れなのかまたよくわからない感情につき動かされて、急いでここから立ち去ろうと早足で進んだ道が歩道だと思いこんだ車道だったと気づいた時には、もう遅かった。
「……!」
 視界いっぱいにひろがった強烈なヘッドライトで、瞬時に世界が真っ白に染まった。まぶしい白しか見えない中、耳をつんざくクラクションとブレーキ音に、恐怖を感じるよりも前に「死」を予感した。
 諦めかけた──その時。
 腕をつかまれ、強い力で身体ごとひき寄せられた。ひかれた先で、誰かの胸にぶつかる。茫然とするしかすべのないまま私は、その誰かにしっかりと抱きしめられていた。……誰か? そんなの、決まっている……。
 車のエンジン音は、もう聞こえない。
「おっちょこちょいだね」
 予想していたよりずっと耳元でエイトにささやかれた。からかいをふくんで愉しげな口ぶりを不謹慎だ、と責める余裕はない。それよりも……彼の心音が私に伝わることが、そして私の心音も彼に伝わっているだろうことが、よっぽど気にかかった。
 すぐさま、ふりほどかなければ。とるべき行動は明白なのに、身体を自由に動かせない(動かす気にもなれない)のがもどかしい。線はほそくてもやっぱり男性としての力強さはあるのね……そんなことを考えた。
 重なり、混ざりあう体温。父とも兄とも違う、嗅いだことのない香水。忘我の中にあおむくと、私に向けられた瞳が──
 その瞳が透きとおるようなかがやきを放っているのを見て、一瞬、めまいのようなものを感じた。寛之だって、お兄ちゃんだってこんな眼はしていない……なんて綺麗なんだろう……と、感動すらおぼえた次の瞬間。
(やっと逢えた)
 心の奥ふかく、はるか底で、嬉しそうに誰かが笑った。聞きおぼえのあるその笑い声は……幼い私?
(──きみ達とは違うから。もうほっといてよ)
(──僕のいる世界には高い柵があって、美尊さん達の世界には、行きたくても行けない)
(──君のことをもっと理解してあげられるんだろうね)
 唐突に。切実に。彼にたずねてみたい、と思った。兄には訊けない、訊けたとしてもきっとこたえてはもらえない、この胸に抱えたままで行き場のない疑問を。ねえ、もしかしてあなたは、こたえを知っているの?
 ──“本当の愛”ってどこにあるの?
 突然、鳴りさわぐ電子音が耳にとびこんできた。拍子ぬけするほどあっさりと私を解放したエイトが、ポケットから音の発生源のスマートフォンを取りだした。すこし距離をとってみじかい会話をしたのち、通話を切ってふり返る。
「美尊さん。お店で待ってて」
 切羽詰まった声音で頼まれて面くらう。ここに留まる理由は、もうなくなっている。だから私は……私は……。
「お願い! すぐ戻るから、待ってて!」
 もう一度、強い口調で念押しをして、エイトは走り去っていった。拒否するせりふを言おうとして言えず、私はただ見送るしかなかった。
 それまで意識の外にはずれていた歓楽街のにぎわいがまたはっきりとよみがえってきて、心細さを思いださせてくる。すぐそばのスタンド看板をなんの気なしにながめ、そして眼を吸いよせられた。
 イヴの夜、エイトと出逢ったホストクラブの店名。華美な書体で大きく白抜きされたその英単語。
『NARCISSUS』
 ナルキッソス。誰をも愛さず、己のみに焦がれて、ついには命を失う末路をむかえる愚かしい男の名前。……でも、ナルキッソスには、それでも彼を心から慕い無償の愛を捧げた相手がいたはず。彼女は、たしか…………『Echo』
 エコー。木霊の妖精。恋する呼び声。──探し求めずにはいられない、望み。
(もうクリスマスプレゼントはもらった?)
(きみ達とは違うから)
(もしものことがあったら、並樹グループ全社員と家族の生活があなたの肩にかかってくることを、忘れないでね)
(好きな人ぐらい、いるだろ?)
(私、お兄ちゃんが好き)
(まだ“本当の愛”にめぐり逢ってないのかもね。だって、そうでしょ。愛がなきゃ人は幸せになれないよね)
(あなたに何がわかるのよ)
(わからない。わからないから、知りたいんだ)
 いくつもの記憶の断片が私のなかをかけめぐって、反響する。いつしか、自然と歩きだしていた。私の意思にかかわらず動く私の脚が向かう先は、そう、ナルキッソスの帰りを待つための泉。
 店で待ってて、と言った彼に従ったわけじゃない。ひとつだけだった用件が増えたわけでもない。それでも、地下のホストクラブへとつづく階段を下りながら想うのは──
 夜の街を駆け去る間際に残していった、鮮麗な──神話の結末を連想させる、花のように美しい──笑顔。ただ、それだけだった。
Page Top
inserted by FC2 system