月読

「月読」(ツクヨミ)はアマテラスと同時にイザナギから生まれた、夜(または海)を支配する神の名前。ツクヨミとアマテラスとは、月と太陽の神格化として永遠に離れ離れになった説と、並んで天上へ送られ共に天界を統べるようになった説の二通りがある。


 宰子はまた料理の腕をあげたんじゃないか、と旺太郎は感心した。久々に彼女が作ってくれたビーフストロガノフの最後のひと口を味わいながら。
 お昼は何が食べたい? と訊かれて、大晦日だから特別なものが食べたい、とリクエストしたら、彼女は旺太郎の一番の好物を選んでくれた。宰子の作るこれの味は、毎回、最高記録を更新している気がする。
「今日『も』、すっげえ旨かったよ。ごちそうさま。ありがとな」
 テーブルにスプーンを置いて、『も』を強調して言ったら、宰子は旺太郎の胸を高鳴らせるかわいい笑顔を浮かべて「どういたしまして」とはにかんだ。
「お皿、洗ってくる」
 向かいのソファから立ちあがろうとした宰子の腕をつかむ。つかんだ腕をひきよせて、隣へ坐らせる。とまどった表情の宰子がもっとかわいくて仕方なくて、抱きしめた。──ボディソープなのか、シャンプーなのか、宰子からはやわらかい花の香りがする。
「……何? 旺太郎、どうしたの? ……旺太郎?」
 おずおずと、でもどこか嬉しそうに自分の本名を呼ぶ声に、これ以上ないほどの幸福感が全身を浸していく。……ああ、俺が欲しかった“幸せ”はこれだ。今、ここに、“本当の幸せ”がある。……
「あー……お礼だよ、お礼。旨いもん食わせてくれた感謝の気持ち、な」
 照れかくしに早口でそう弁明すると、お水につけておかないと汚れが落ちにくくなっちゃうよと笑いながら旺太郎の背中に両手が回された。回されたことに満足して、“幸せ”を抱く両腕にさらに力をこめた。
 ──ちょうど一年前の、前回の大晦日。あの時は、こんな時間が日常になるなんて、予想もできなかった。
 三ヶ月を一瞬で巻き戻すタイムリープ後の、あの大晦日の夜。あの夜に、旺太郎は宰子に涙の別れを告げた──告げたはずだった。
 だが現実は、わずか三日後には彼女の様子が気になって『ナイトデリバリーサービス』へと向かう脚を止められなかった。宰子がしっかり前に進めているかどうか、気になってどうしようもなかった。
 どんな言い訳をしたところで、一旦、禁忌をやぶってしまったら、あとは坂をころげ落ちるようだった。
 一ヶ月に一度が二週間に一度になり、二週間に一度が三日に一度になり──ほどなくして旺太郎は、宰子をストーキングするのが日課となった(旺太郎からのアドバイスを真にうけた長谷部がよりにもよって『ナイトデリバリーサービス』を社会見学先として、宰子の同僚になったのはさすがに笑ったが)。
 そうなってからはもう、説明するのもばからしい。“本当の愛”を気づかせてくれた女性と同じ街で暮らしてゆく以上、物陰から彼女の後ろ姿を見つめるだけで我慢するなど土台、実現不可能な奇麗事だったのだろう。抱えきれない“愛”の重さに負けた旺太郎は、偶然も手伝った或る日、すべてを宰子へうち明けてしまった。二人が失った三ヶ月間を。二人の間にはぐくまれた絆を。
 その先のことを明確に期待していたわけではない。ただ、自らの内部でどうにもできずに血を流しつづける痛みと苦しみに耐えきれなくなったにすぎない。威勢よく春海に啖呵をきっておきながらのこのていたらくで、根性のなさに嫌気がさしたし、意志の弱さにも吐き気がした。加えて、あの大晦日の夜と同様に一方的に旺太郎の魂のさけびを吐露された宰子の困惑も、想像に難くなかった。
 ──ところが。
 彼女は意外にも、さほど困惑を見せなかった。それどころか“最後のタイムリープ”前には春海を介してしか知ることができなかった彼女の秘めた想いを、彼女自身の口から伝えてくれたのだ。
(──の私も──“今の”私も──あなたのことを──)
 ……何かがおかしい、と頭の隅で警鐘が鳴っていたように思う。『この世界の宰子』は、『あの世界の宰子』とは別人だ。自分と“契約”を交わしキスを重ねながらも心をすれ違わせてしまった『宰子』は、目の前のこの『宰子』ではない。だから、『あの世界の宰子』と同じ感情を『この世界の宰子』が自分へ寄せてくれるなど、あるはずがない。──そう感じていながら、それでも、同じ顔と同じ声で微笑みかけてくれる『宰子』がいる“幸せ”におぼれて、旺太郎はたやすく耳と眼をふさいだ。
 ……細かいことなんかどうでもいい。宰子が生きて俺のすぐそばにいる、それだけでいい……。
 気持ちを通じあわせた後は、早かった。ふしぎなことに、宰子のタイムリープの能力はいつの間にか消えていて、キスの行為も、それ以上の行為も、二人の間には何ひとつ障害として存在していなかった。
 季節が春をむかえる頃には、旺太郎と宰子は心身ともに「恋人」の関係となっていた。季節が夏へかわる前には、『ナイン探偵事務所』兼旺太郎の自宅のここで同棲を始めていた。
 それから、約半年。
 抱きしめる腕をゆるめ、最愛の恋人へ今はもはや挨拶代わりとなったキスをしようとした旺太郎は、目当ての唇にとどく寸前でほそい人差し指に制止されて拍子抜けした。……おい、宰子、いまさら照れるようなもんでもないだろが。
 人差し指で旺太郎の唇を押しとどめながら、宰子が笑う。ほんのり上気した頬と潤んだ瞳が、息をのむほど艶めかしい。
「──旺太郎。ねえ、聞いて。私ね、去年の十二月三十一日にあなたと“再会”した時、心に決めたことがあるの。──何だと思う?」
 謎かけのせりふ。焦らすような微笑。……こいつ、こんな大人びた表情を見せる女だったっけ?
 かつて感じたことがないくらいに強い魅惑をその瞬間の宰子におぼえて、思わずうわずった声で旺太郎はたずねた。
「……何だよ? もったいぶってないで言えよ……」
 旺太郎の眼をひきつけて離さない紅い唇が、ゆっくりと動いた。
「十三年前の、あの日。あの船の中で、たったひとりでいた私をあなた達が見つけてくれた。だから、次は──」
 すうっと、透明な厚いカーテンがひかれたように、宰子の姿と声が急にかすんで揺らいだ。驚いてとっさに右手をさし伸ばすも、その手はむなしく空をきった。
 見まわすと、並んで坐っていたソファも食事を終えたばかりのテーブルも、室内の何もかもが消え失せていた。真っ白い空間の、遠い遠い虚空から、風に似たかすかな声が聞こえた。
「──次は、ここにたったひとりでいるあなたを私が見つけてあげるから。待っててね」
 …………ここに、たったひとりでいる、俺? …………


 …………とんでもねえ夢を見た気がする。…………
 目をあけると、視界にうつったのはコンクリート打ちっぱなしのうす汚れた自室の天井。それと、むなしく伸ばされて空をつかんでいる自分の右手。……何してんの、俺。
 夢というのは、見ている最中は異常なリアリティや臨場感をともなっているのに、覚めたと同時に急速に輪郭がぼやけて脳の記憶領域から消えていく場合が多い。それにたがわず、今しがたまで見ていたはずの「夢」の内容はほとんど頭に残っていない──が、とにかくどえらいヤバイ内容だったことだけは、パジャマ代わりのスウェットがやけに重く感じるまで吸いとった寝汗の量で判断できた。……真冬だってのに普通じゃない濡れ具合だぞ、これ……。
 しかも、記憶に残っていないのになぜか自身のプライドを根幹からおびやかす絶大なインパクトをその「夢」から与えられた悪寒がして、旺太郎は両手で顔を覆った。よくわかんねえけど……憶えてなくて正解かもしれない……思い出さない方が身のためかもしれない……!
 と、両耳のすぐ隣で大音量のベルが鳴っているんじゃないかと疑うくらいにはげしい耳鳴りにおそわれた。次いで、頭痛とめまいと胸やけのトリプルコンボ。──完全に重度の二日酔いである。
 ──ナンバーワンの座もいさぎよく捨ててホスト稼業からきっぱりと足を洗い、されど金と酒と女がすべての水商売に染まりきった自分がいまさらホワイトカラーの集団へ飛びこむ気にもなれず、ノリと勢いと半分ヤケクソで自宅に『ナイン探偵事務所』(セブン、エイト、と来たら当然ナインだろ、というネーミングは気にいってはいるがさすがに安直で短絡的かな、と彼も思わなくもない)をたちあげてから、数ヶ月が経つ。
 身一つで歌舞伎町の頂点までのぼりつめた才覚と話術をもってすればやっていけるだろう、とたかをくくっていたものの、実際は、コネも経験もなくましてや独学で知識とスキルを習得過程な二十三歳の若造がフリーランスですぐに食べていけるほど探偵稼業はあまくはなかった。
 事務所はつねに閑古鳥。ホスト時代に稼いだ貯金(海難事故の賠償金としてせっせと払ってきた金は、並樹グループとの示談と支払い引き継ぎによって全額どころか三倍近くになって戻ってきた)をとりくずしながらの赤字経営。結局は、ホスト時代に口説き文句と夜の奉仕で散々に貢がせた高所得者のカモもとい女性達を、今度は「顧客」としてまた営業リスト化せざるを得ず、旺太郎の自尊心はおおいに傷ついた。
 ……が。腹を決めて仕事と割りきってしまえば、思ったよりは順調に「新規顧客」が増えていった。なにせこの堂島旺太郎という男、天性の容姿端麗が比類ない。新人探偵として営業に訪れた彼をはじめは蔑みや嘲りの眼でむかえた元カモもとい女性達も、『蠱惑』『魔性』という単語を三次元化したといっても過言ではない彼の色目とささやき(元ナンバーワンホストのスペック)の前ではいとも簡単に篭絡されて、依頼の契約書(九割が浮気調査か素行調査)に嬉々としてサインをした。両親とは過去にいろいろあったものの、こういう時ばかりはこのルックスに産んでくれたことを素直に感謝する旺太郎だった。
 で。危機的だった『ナイン探偵事務所』の経営も徐々にではあるが軌道にのりはじめ、これですこしは明るい気分で年を越せそうだと浮かれて昨夜、めずらしく深酒をした結果が、このざま。
 割れそうにガンガンと痛みまくる頭を右手でおさえて、胃液が逆流しそうな予感を訴える口を左手でおさえて、旺太郎は苦労して身体を起こした。ここでやっと、リビング兼応接室のソファでだらしなく眠りこけていたことに気がついて、胃液より先にため息が出た。目の前のテーブルへのろのろと視線を向けると、卓上にあちこち散らばったビールの空き缶が三、四、五……六本。
 ……昨夜は「夕食」など用意しなかった。つまみといえそうなのは、めざしを金網で焼いただけのものが二尾。……これ、最初のうちは節約のために食ってたはずだけど……慣れると結構クセになる味なんだよな。
「まともな飯も腹に入れないでこんだけ酒飲んでれば、そりゃ、悪酔いすんのもあたりまえか……」
 と、かすれ声で自嘲した。
「……女におぼれなくても酒にはおぼれるのが、俺の唯一の欠点だな」
 半笑いで自嘲をつけ足した時、小さくうずいて存在を示してきた、胸の奥に刺さったままの──棘。
 ……女におぼれない? 嘘ついてんじゃねーよ。おまえさあ、どの口でそんなこと言えんだよ。……
 最近は苛まれる頻度の減ってきたろくでもない自己嫌悪と自暴自棄がまたザワザワとひろがりかけてきた気配に、あわてて首をふった。
 とっくに暖房のきれている室内が極寒であることを汗でベッタリ張りついたスウェットシャツの冷たさがおしえてくる。この寒さでも爆睡できるんだから泥酔状態ってのはやっぱすげぇな、と妙な驚嘆をしつつ、すきま風のひどい古い雑居ビルへ悪態をつきながら、旺太郎はふらつく脚でソファから立ちあがった。
「マジ寒ぃー……」
 暖房のスイッチを入れてから、シャワールームへ向かった。


 シャワーを浴び終え、着替えてリビングへ戻った頃には、部屋もそこそこ暖まっていたしアルコールもだいぶ抜けていた。テーブルからスマホを拾いあげて時間を見ると、午前八時。中途半端におりているブラインドの奥に下半分だけのぞく窓、そのガラス越しにここしばらくご無沙汰だった爽やかな快晴があった。──うん、一年の締めくくりにはもってこいの、上出来の天気だ。
 今日は十二月三十一日。大晦日。仕事専用のスマホを留守電設定にはしないでおくが、万一、依頼が入ったとしても、年末年始休業として保留にする気満々な労働意欲のひくい旺太郎である。
「大晦日、か。このあと、どうすっかなー……」
 濡れた髪をタオルで雑に拭きながら冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルをとりだし、キャップをひねった瞬間──
(……から。待っててね。……)
 遠く、かすかに、彼女の声が聞こえた。聞こえたと思った。
「……宰子?」
 口にするのを意識して避けていた名前が、ふと、こぼれ出た。その名前は口にするだけで旺太郎の胸を焦がせ、凍らせる。
 ──ちょうど一年前の、前回の大晦日。三ヶ月を一瞬で巻き戻すタイムリープ後の、あの大晦日の夜。あの夜に、旺太郎は宰子に涙の別れを告げた。
 別れを告げたがそれでも、宰子がしっかり前に進めているかどうか、気になってどうしようもなくて、三日後にこっそり『ナイトデリバリーサービス』をのぞき見しに行ってしまったのが、彼が宰子を見た最後の日となった(旺太郎からのアドバイスを真にうけた長谷部がよりにもよって『ナイトデリバリーサービス』を社会見学先として、宰子の同僚になったのはさすがに笑ったが)。
 あれ以来の彼女の日常を、彼は知らない。ちゃんと幸せになれているのか、まだデリバリーの仕事をしているのか、長谷部はいまだに同僚なのかひょっとしてあの野郎と付き合っちゃったりしてるのか……それらの興味どれ一つをも、彼は確認していない。“本当の愛”を気づかせてくれた女性と同じ街で暮らしていながら、自分のようなクズが二度と彼女の人生にかかわってはならないというあの日の決意を歯をくいしばって一年間死守してきた。
(おまえのことだから、助けたらまた宰子ちゃんを利用するだろうなあ。人間そう簡単に変わりゃしねえよ)
 そううそぶく、脳裡に浮かんだ春海のしたり顔へ、心中で思いっきり舌を出してやった。──どうよ、予想を裏切るこの初志貫徹ぶり。クソッたれニヒリストが、なめんなよ、俺は有言実行の男だぜ!
 それでも──。行動は自制できても、精神をコントロールするのは至難の業だった。年が明けて、季節が春をむかえる頃になるまで、旺太郎は毎夜、宰子との三ヶ月間を夢に見た。夢のなかが楽しかろうが切なかろうが、宰子が登場するだけで旺太郎にとってそれはひとしく悪夢だった。
 なぜなら、夢のラストは必ず、血まみれの宰子の亡骸を抱えて茫然とする自分の姿だったから。──
 季節が夏へかわる前になるとようやく、旺太郎はその悪夢に耐性がついてきた。力の限り抱きしめるのはわずか二回だけとなった彼女の華奢な身体が、恥ずかしがりもせずまったく反応してくれなかったことも。どんなにキスをくり返しても、発現してくれと祈っても、まだ温かくやわらかい彼女の唇が“神の力”を行使してくれなかったことも。両手の中におさまるほど小さく、軽くなるまで焼かれた彼女を連れて帰り、和馬に嘲弄されたことではっきりと“本当の愛”を理解した日、一人きりの部屋で返事のない会話をひと晩中つづけたことも。その絶望と悔恨と自責と虚無の全部が、生涯背負っていけと自分へ科せられた十字架なのだとうけいれた。
 うけいれたことでやっと、毎夜の悪夢は三日に一度になった。やがて三日に一度が二週間に一度になり、二週間に一度が一ヶ月に一度になっていった。
 それから、約半年。
 さっきの「夢」は、まったく憶えていない。憶えていないが、なんとなく、久しぶりに宰子がいたように思う。しかも宰子がいたのに、辛く苦しい悪夢ではなかったようにも思う。
(……から。待っててね。……)
 ──待ってて、って。何を? どこで? そこさ、かなり重要な部分じゃない? スゲー気になるんだけど。おまえ、あいかわらずボソボソしゃべるよなあ。──
 ふたたび遠くから語りかけてくる最愛の女をつい問いつめている自身に気づいて、旺太郎は苦笑した。……幻聴と会話するのはもうこりごりだ。
 昏く沈みかかった想いを二日酔いの残りと一緒に、よく冷えたミネラルウォーターで一気にのどへ流しこむ。開けっぱなしにしていた冷蔵庫へ中身が半分に減ったペットボトルを放りこんで、ドアを勢いよく閉めた。どこか外国の天然水のおかげで気分がすっきりした旺太郎は、ひとつ、大きく伸びをした。
 もしも。いつか。もう一度宰子に逢えるなら、話したいことがたくさんある。謝りたい後悔もある。伝えたい愛情もある。だけど俺は、もう二度とあいつに逢うべきじゃないし、逢わないと決めた。もちろん、いくら待ったってあいつがまた俺の前に現れてくれるなんて奇蹟も起こらないし、そんな奇蹟自体、望むのはおこがましい。宰子には宰子の、俺には俺の、今度こそは逃げずに向きあって変えていかなきゃいけない人生があるんだから──。
 酔いが醒めたら案の定、急激な空腹感をおぼえてきた。今閉じたばかりの場所をまた開けて中をたしかめる。……冷蔵庫内は、みごとなまでにすっからかん。食料と呼べるものは何もない。
 旺太郎は舌打ちをすると、再度ドアを乱暴に閉めた。いつも通り、近所のコンビニでテキトーに買ってくるか……いや、待て、大晦日だから特別なものが食べたい……寿司かピザの出前でもとるか……特別なもの?
「──ビーフストロガノフ、食いたいな」
 誰に聞かせるでもなく、ぽつりとつぶやく。食いたい、と思ったところで、作るのは自分しかいないのだが。
 作り方は暗唱できるくらい完璧に頭に入っている。たった一度だけ、“最初の”二月二十六日に食べたビーフストロガノフの味が、旺太郎は忘れられない。この先もずっと忘れられそうにない。だから、独り暮らしも長いのに自炊に対して関心もモチベーションもいっさい持たなかったくせに、その料理だけは真剣に検索して慣れない作業に悪戦苦闘しながら再現にチャレンジしてきた。けれど、どのレシピを参考にしても、どの調味料を試しても、彼の求める味にはたどりつかなかった。
 でも、今日は大晦日。今日で今年が終わる。あと十数時間後の明日からは、新しい年。もしかしたら、神様だか何だかが女々しくて情けなくて諦めのわるい俺を憐れんで、今日こそ“あの味”を再現できたビーフストロガノフを作らせてくれるかもしれない。たとえ作れなかったとしても来年の抱負ができたと考えれば、多少は「大晦日らしさ」を楽しめる。……
 ぱんと軽く両頬をたたいて気合いをいれると、旺太郎は黒スキニーのバックポケットに財布をねじこんで、ダウンジャケットの袖に腕を通しながら玄関へと歩いていった。一番の好物の──特別な、大切な意味をもつメニューの──食材を買うために。


 時を同じくして。──
 数時間後に『ナイン探偵事務所』を訪ねてくる“奇蹟”が自宅のベッドに腰かけながら数十分思い悩んだ末に、ぱんと軽く両頬をたたいて決心をかためたことを──運命を変える一歩を踏みだしたことを──旺太郎はまだ知らない。
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