Norn

「Norn」(ノルン)は人間の運命と人生を定める女神の名前。通常は過去(=死)、現在、未来を象徴する三人の女神の総称。善悪多数が存在し、悪しきノルンは災厄と破滅を、善きノルンは幸運と成功をもたらすといわれる。


一 ────


 ──無意識のうちに曙橋のガード下へ立ち寄ったのは、どこかで予感があったからかもしれない。『あのひと』にまた逢えるという予感が。
 重たい脚をひきずるようにしてガード下にさしかかると、行儀よくならんで坐ったホームレスのおじさん達を前にギターの弾き語りをしている男性の姿が目に入った。この間と同じくそこにいた『そのひと』は、初めてのチューがどうとか、という変わった歌詞をしみじみと歌いあげていた。聴いたことがありそうで、なさそうな、……そうだ、あの歌って確か、古いアニメで使われてなかったっけ?
 底冷えのする一月二十七日の夜気にながれてくる歌声にしばらく耳を傾けていると、やがて男性は歌い終えて、オーディエンスからの拍手に満足そうに投げキスをしてこたえた。にこやかにホームレスさん達を見まわしていた眼が、ふとこちらを向いた。
 私はあわてて、ぺこりと頭を下げた。
「こ、こ、こんばんは。……」
 やっぱりここで逢えた、と安心したのが半分、名前も素性も知らないひとへの困惑が半分。挨拶の次に言うべきせりふが出てこなくてもじもじしている私を気にもとめずにおどけた軽い口ぶりで、そのひとに呼びかけられた。
「そんなところでつっ立ってないで、ほら。こっちに来なよ。リクエストがあれば、何でも歌うよ」
 リクエスト……そういえば彼はストリートミュージシャンだった、と思いだした。申し訳ないけど、今は歌を聴きたいんじゃなくて。私が何をすべきなのか、あなたならそのこたえを知っているような気がして来たんです。……
 わずかな勇気をどうにかふるいたたせて、そのストリートミュージシャンの前へ早足で歩み寄る。私の勢いに驚いたのか、彼はもともと大きい両目をさらに大きくパチクリとさせて固まった。奇抜でちょっとみすぼらしい服装とはかけ離れた、とても綺麗な若い顔。こうして近づいてよく見ると、びっくりするほど端整な目鼻だち。──エイトといい、このひとといい、並樹家の御曹司とお嬢様といい、意外と世の中にはすばらしい美形というのはありふれているのかしら?
「……あ、あの! エイトのお知り合いならおしえて欲しいんですけどお母さんを亡くしたのに肩の荷がかるくなったって言うんです、それってほんとですか寂しくないんですか!?」
 気持ちが昂ると早口でまくしたててしまうのは私の悪い癖だ。目の前の男性が、ますます気圧されてやや身をひいたのがわかった。でも、それを気にかける余裕は私にはなかった。
 憂いを形にして口に出したことで、否応なしに、病院の霊安室で見た憔悴しきったエイトの姿を眼前に再生してしまったから。
(……この間、初めてウチに来てさ。むかついたから言ってやったんだよ。そんなに弟に逢いたいなら、弟のところに行けよ、って。……そしたら、ほんとに行っちまった)
 声音は痛苦のきわみなのに、話し方はあくまでも軽口の域を保とうとよそおっているのが聞いていられないほど痛々しくて、思わず、時間を戻せばお母さんを救える、と口ばしっていた。あれほど嫌悪感を抱いていた“キスの契約”を、自分から持ちかけていた。
(そんなこと、しなくていいよ。……こう言っちゃなんだけど、肩がかるくなった。……)
 断られるかもしれないとは薄々感じていた。でも、母親の遺体を前にして「肩がかるくなった」とつぶやくなんて思わなかった。あんなに冷えきった無情なひと言を、あんなに辛そうで苦しそうなエイトの口から聞くとは予想もしなかった。
(前に進めば、幸せになれる。……だからいいよ)
 どういう価値があるものなのか私にはわからない、けれどエイトにとっては母親の命以上に大切らしい八ミリビデオのテープ。そのビデオテープを見つめて、昏く沈んだ声でエイトは「幸せになれる」と言った。虚ろな表情で、自身の魂に蓋をするかのように。
 ──彼が言う『前に進む』って、どこなのだろう? 彼が望む『幸せになる』って、何なのだろう? あの日に聞いたその言葉は、もっと違う印象だったはずなのに。──
「……逢いたくないのかな……?」
 もう一度、お母さんに逢いたくないのかな? 本心では助けたくないのかな? ……こぼれ落ちた私の疑問をひろった男性が、それまでキョトンとしていた表情を一変させた。唇の両端を吊りあげて笑ったのだ。
 見た瞬間。幼い頃に読んだアリスの物語のチェシャ猫みたいだ、と思った。陽気でひと懐っこく、奔放でつかみどころなく、そして──どこか毒々しい笑顔。
「死んだなら逢えないよね」
 あっさり、言い捨てて、天をあおいで高らかな哄笑をあげる。男性につられた周囲のホームレスさん達もいっせいにどっと笑い声をたてた。コンクリートの壁に反響する爆笑の渦にわれに返って、私は後悔した。……よく知りもしないひとに「お悩み相談」じみた真似をしたりして、何を期待していたんだろう? 結局、他人を頼ってもどうにもならない、自分の疑念は自分でこたえを見つけるしかないのだ、とあきらめた。
「……お、お邪魔しました……」
 急激に恥ずかしさがわいてきて、私は踵をかえしてその場から逃げだそうとした。と、どこやら面白がるような、からかうようなひびきをおびた声が背後から投げつけられた。
「君はどうしたいのさ? エイトに何かしてあげたいの?」
 脚が止まる。……どうしたい? 私が? ……何かしてあげたい? エイトに?
 軽薄で短気で毒舌で自分勝手で無神経な、欲にまみれたあの男(だけど、常に快活でたまにすごくやさしくて、ふとした瞬間の繊細さと孤独の翳をひいた横顔に胸をつかれるあの男)。私は、あの男──エイトの手助けをしてあげたいなどと考えているの!?
 驚愕してふり返った私は、エイトのそれに感じるのとはまた違った意味で胸奥を波立たせる瞳と出逢った。私のすべてを見透かそうとするふしぎな光をたたえた瞳が笑いかけてきた。
「迷ってるぐらいなら、してあげなよ」
 ──“キス”を、してあげなよ。そう言われた気がした。
 刹那、背中に水のながれるような感覚をおぼえて身ぶるいした。底しれない両眼の魔力にとらえられて、動悸がはげしくなる。このひとが私のタイムリープの秘密を知っているはずがない。知っているはずがないのに、なぜか……何もかもを理解したうえでこのひとは私を試しているのでは、という気味悪さが肌を這った。
 迷うぐらいなら、すればいい。単純すぎて無責任にも聞こえそうなアドバイスは、あまりに単純がゆえにかえってストレートに、一直線にストンと心におちた。──そうよ、迷っている暇があるなら、行動にうつせばいい──だって、タイムリミットはわずか“七日”なのだから──!
 たったひとつの提案を受けただけで、視界がひらけた気分になった。──この時の私は、彼の発する言葉がもつ力に、彼が見せるまなざしの意味するものに、まだ気がつくことはできなかった。
 風変わりなストリートミュージシャンへ深くお辞儀をして私は、夜の曙橋のガード下を後にした。


二 ────


 二月のカレンダーの三日──今日の欄を人差し指でおさえる。あれからちょうど一週間。正真正銘のタイムリミット当日。
 ……七日前の夜に曙橋のガード下でアドバイスをもらっておきながら、結局のところ何ひとつ行動を起こせないまま、こうして自分の部屋で今日を迎えてしまった。私という人間はどこまで臆病で意気地なしなのか……壁のカレンダーから指を離すと同時に深くて重いため息をついた。
 逢いに行かなきゃ、と焦りが毎日せきたててくるのに、いざ彼のもとへ向かおうとすると途端に脚に鉛がむすびつく。霊安室で拒絶された時の──溌剌として騒がしくなれなれしくて明朗な彼とは正反対だったあの姿をまた見るかと思うと、恐ろしさで身体がすくんでしまう。
 でも。
(前に進めば、幸せになれる。……だからいいよ)
 ──違う。よくなんて、ない。このままでいいはずない。あなたが進もうとしているその先には、きっと『本当の幸せ』は待っていない。──
(迷ってるぐらいなら──“キス”してあげなよ)
 私を試す笑い声が耳に鳴る。再度、カレンダーに眼を向ける。二月三日。
 タイムリミット最終日……“戻る”ための最後のチャンス……今をのがしたら本当に手遅れになる……!
 消えてはくれない恐怖とともに決意を胸に抱いて、私はコートを手にとり、玄関へと向かった。


 地下通路の階段を急いで駆けおりた。ここはエイトの家への近道にあたる。息がきれそうなのを耐えつつうす暗い通路を走りだしたその時、大げさかもしれないけど『運命』を感じた。見えない何かの意志が私の決意を応援してくれた、と嬉しくなった。
 立ち止まって、待ちうける。向かいから思いつめた顔で足元を見つめながら歩いてきたエイトが、ふっと目線をあげて私の存在を認識した。
「宰子……」
 もとから痩せ型の彼なのに七日前よりさらに痩せて、というより、やつれて見えて痛ましい。あれから食事も睡眠もまともにとれていないのかも……と心配になった。
 以前の彼には見られなかったすさんだ雰囲気をまとった様子に気おくれしてしまうものの、私は用意してきたせりふを必死に復唱した。
「お母さんが亡くなってから今日で七日目。今なら助けられる」
 ──まったく感情の動きのない、冷ややかな沈黙がつづいた。普段は呆れるくらいおしゃべりなエイトが何も言わず、ただ冷然と私をながめているだけなのが怖くてたまらない。それでも……そらしそうになる眼を、ふるえそうになる脚をはげまして、私はその視線を真っ向から受けとめた。
 すると、エイトはライダースジャケットの内ポケットに手をさし入れて何かをとり出した。それは──あの八ミリビデオテープ。
「これが何だかわかるか? 婚約披露パーティーで手に入れた、俺の人生をきり拓く武器だ。時間を戻したらどうなると思う?」
 右手につかんだテープを掲げてみせたエイトの声は、あきらかな不快といらだちに満ちている。私はついひるみながらも、
「……また手に入れればいい」
 けれど、間髪いれずに拒まれた。
「簡単に言うな。もう一度奪える保証がどこにあるんだよ。──これがあれば、尊氏を潰せる。こんなチャンス、二度とやって来ないんだ」
 邪魔だ、どけ。──言外にはっきりとそう伝えて、無表情の彼は私の横を通りすぎた。想像していたよりずっと強くつき放されてしまって目の前が昏くなる。
 藁にもすがる思いで、一縷の望みをかけて、私は彼の背中へ問いかけた。
「お母さんを救うチャンスも二度と来ない! それでも、後悔しない!?」
 ふり向きもしない背中が、嘲笑まじりにこたえた。
「過去なんか捨てたよ」
 ──ううん、そんな風には見えない。あなたは、過去から──
「逃げてるだけに見える」
 この時、初めて私の説得に効果があったらしい。エイトがふり向いた。
「……逃げてる? 俺が? おまえは知らないだろうけどな……お袋を助けたところで何も元には戻せないんだよ! ……キスじゃ変えられない過去があんだよ。……」
 ──キスじゃ変えられない過去。──たった七日ではとり戻せない過ち。
 十二年前から私が苛まれてきた絶望、後悔、自責、諦念。それらとよく似たものをその瞬間の彼に見つけた。──そうよね。私にとっての『プロメテウス』と同じ経験が、あなたにもあるのよね。
(逢えない方がよっぽど辛い)……
(弟を事故で亡くしたんだ)……
 今、わかった。エイト、あなたと私は、確かによく似てる。お互いをお互いで支えあえる。
 “キス”が万能とは思ってない。“タイムリープ”が何もかもやり直せる奇蹟の力だなんて信じてない。だけど、もしも、私にこの能力が与えられたのが“罰”としての意味のほかにあるのだとしたら──誰かを、せめてあなたを、救える可能性であって欲しい。幸せになりたいんだったら、私の手をとって。私達が手を組めば、何だって、何度だって、挽回できるんでしょう?
 凍りついた頑なな言葉を残しふたたび背を向けて歩いてゆく後ろ姿が、今まで私が何におびえていたのかを悟らせた。──エイトが笑ってくれないことが、私は怖かったのだと。
 互いに過去の傷を負っているのに、私は後ろ向きにしか現在を生きられないのに対して、エイトはいつでも前だけを見てなりふりかまわず未来へ向かっていた。太陽を思わせるほどに屈託のない彼の笑顔は、何よりも明るく私の心を照らす。幸せを目指して懸命につき進む彼の姿は、何よりもまぶしく私の眼を奪う。
 それを明るいと、まぶしいと感じるのは、私が遠い昔に失ってしまったものだからだ。もはや望むべくもないその懐かしさを思いださせてくれるからだ。だから──私は彼から眼を離せなくなっているのだろう。
 ようやく、気がついた。私は笑っているこのひとをもっと見たい、と欲していることに。エイトが苦しんでいるから助けてあげたい、エイトのお母さんの命を救ってあげたい、その気持ちは嘘じゃないけれど、タイムリープを願う理由はそれだけじゃない。それが一番じゃない。……本当の一番大きな想いは。
 あの笑顔をもっと長く、もっとそばで、見ていたい。その欲求だったんだ。──
 ここでお母さんを見捨ててしまったら、彼はきっと、もう二度と心から笑えなくなる。……そんなの、絶対に嫌!
 エゴとも言える衝動が二、三歩、脚をつき動かした。だけど、私とは比べものにならないくらいストライドの大きい彼はもう、十五メートルを超えて離れてしまっていた。
 彼が望んだ時に“キス”をしてあげたら、私の願いをひとつ叶えてくれる──“契約”の条件がそれである以上、彼が求めてもいないのにする必要はないはず。……でも、仮にも“パートナー”だというのなら、条件の順番を変える権利もあるわよね? 私が“願い”を叶えて欲しいから……あなたは今、ここで、望んでよ!
 冬晴れの午後の空のぬけるような青さ、隣りあって坐ったベンチで感じた陽の光の暖かさ、思いのほか真摯に誠実だった声とまなざしのやさしさ──あの日の光景が瞼に、鼓膜に、鮮明によみがえる。私は、記憶のなかのエイトにあと押しされながら、現実のエイトへと声を限りにさけんだ。
(──なあ、宰子。いくら時間を戻せても、何もしなきゃ結果はおなじだ。でも前に進めば、人生を変えられる)
「……前に進めば、人生は変えられるって私におしえた! 私、嬉しかった!」
(──俺達は幸せになれるんだよ)
「過去はだめでも……未来は変えられるかもしれない!」
(──キスして欲しくなったら言えよ)
「──キスして欲しくなったら言って!」
 エイトの歩みが、ふいに止まった。
 水底に似た静寂と冷気がただよう地下道で、祈る。待つ。永遠にも感じる数秒ののち。──
「────宰子!!」
 地下道にひびきわたる力強いさけび。まっすぐに私を射抜く迷いの消えた瞳。身をひるがえして駆け戻ってくるそのひとを見つめながら──
 その日。私は、自分が“力”を持つことを、おぞましい呪いとしか思えなかった“キス”ができることを、初めて神様に感謝した。


 その日。私は、自分が恋をしていることを知った。
Page Top
inserted by FC2 system